第36話 想定外
その日は風が強かった。浮かれた私たちはそれに気が付いていなかった。だからあんな迂闊なことをしてしまったのだろう。それなのに、騒がしい風が記憶に残っているのは何故?
○○○
林間学校二日目。今日は丸一日この自然の中に広がる広い施設を自由に散策できる。その後、ここで感じたことをレポートに書く課題があるのだけど、そんなに量はないから気にする必要はない。つまり、思いっきり遊べるのだ。
「どこから行く?」
葵ちゃんが旅館の近くの広場に置かれていたテーブルに地図を広げてそう聞いた。朝食を食べ終わったらもう自由行動で、生徒たちはあちらこちらに散っている。
「私は静かなところがいいな。騒ぎになっても面倒だし」
相神さんはベンチに座って髪を整えながらそう答えた。朝起きてからずっと手入れしてるけど、まだ満足いく出来にならないみたい。いつもと違う布団だったから変になっちゃったのかな。
「なるほど。朔くんもいるしそれがいいかもね」
「じゃあ思い切って登山コース巡ってみるか」
そんな提案をした天金さんは、鏡を持って相神さんの手入れの補助をしている。
「名案だね。野崎さんは体力的に問題はない?」
「大丈夫ですよ。女子の中では体力ある方ですから。それより私は百瀬先輩が心配なんですけど」
「心配いらないよ。南は持久力なら結構あるから」
「えっ、そうなんですか」
「朔の朝のランニングに付き合ってるからね」
当然の疑問を口にする野崎さんに私が横から説明を入れる。朔は体力作りのために毎日朝のランニングをしているのだけど、私も一緒にやらせてもらってる。私よりも朔のほうが圧倒的に体力があるけど、軽く体を温める程度の朝のランニングなら一緒に走れる。始めた理由は体型維持や健康のためでもあるし、長い配信と学校生活に耐えられる体力をつけたかったからだ。最初のころは全然体力がなくて朔にペースを合わせてもらっちゃって申し訳なかったな。
「凄いですね。なかなか見ないですよ、朝のランニングが長続きする女子高生」
「お姉ちゃんは一度決めたら強いからね」
「そうそう。勉強だって苦手だったのに頑張って克服したし、南はすごいのよ」
「ふ、二人とも、恥ずかしいよ……」
朔はどうだと自慢するように誇らしげに私の肩に手を置いて、葵ちゃんは我が子をほめる母親のように頭を撫でてきた。野崎さんや相神さんの前で褒められるのが照れくさくて、二人の手から逃げるように縮こまる。そんな抵抗もむなしく、結局手は離してくれなかった。
「まぁこれで行き先も決まったし、飲み物とは準備して行こうか」
「そうですね。今日は一秒たりとも無駄にしたくないですし」
「そんなに気を張らずに、気楽に楽しもーよ」
行き先が登山コースになったから、近くの売店でいろいろ買いそろえることになった。私は心配性なせいでいろいろ持ってきているから、売店で追加で何か買う必要もなかった。相神さんも同じみたいで、売店の外で葵ちゃんたちを待っている間、計らずしも二人きりになることができた。
でもあまりに突然の事だったから、話題が見つからずに無言の間ができてしまっている。どうしようかと悩んだ末、もう天気の話でもしてやろうかと投げやりになった時だった。
「愛されてるのね」
相神さんが突然そんなことを呟いた。
「えっと……?」
「妹ちゃんも会長も、百瀬さんの話になると幸せそうな顔してた。昨日なんか、お姉ちゃんと友達になれるなんて幸せ者だねって、妹ちゃんに言われたのよ」
そこでようやく相神さんの言葉の意味を理解した。さっきの会話から間が開いていたから察するのに時間を要した。昨日の朔との会話を可笑しそうに話していて、朔の大げさ過ぎる物言いを気恥ずかしく感じた。
「朔ってば、私のいないところでそんなことを……」
「恥ずかしがること無いわ。素直な妹ちゃんが本気でそう思ってるなら、きっと本当の事よ」
「買いかぶりすぎですよ。むしろ、幸せ者なのは私の方」
売店のほうに目を向ける。そこには余計なものを買おうとする朔と、それをやんわりと注意する葵ちゃんがいた。
「朔が居なかったらランニングは続けられなかったと思うし、葵ちゃんが居なかったら勉強ができないままだった」
それに、葵ちゃんに声が可愛いと言われなかったらVtuberを始めなかった。
「二人が居なかったら私は何の取り柄もないダメな子だった。私はただ周りに恵まれただけで、本当に凄いのはあの二人だよ」
凡庸未満だった私の幸せな今があるのは、私よりもすごい二人が支えてくれたおかげだ。でも、そんな二人が私と一緒に居ることを幸せだと感じてくれているなら、少しは恩を返せてるのかもしれない。
「そう……そうなのね」
相神さんは納得したような、そうでもないような表情で頷きながら、売店のほうに目を向けた。その視線の先には折り畳み傘を買う天金さんがいた。
「ごめんなさいね。急に変な話しちゃって」
「ううん、私も朔が幸せだって思ってくれてるのを知れて嬉しかったから、気にしないで」
天金さんに自然と視線が向くってことは、相神さんにとっての天金さんは、私にとっての葵ちゃんと同じような存在なんだろうな。そう思うと以前は住む世界が違うと感じていた相神さんも私達と近い場所に立ってるんだと感じられて、親しみがわいてきた。そうやって話していたらみんなの買い物が終わって、準備万端で登山コースへみんなで向かった。
登山コースは豊かな自然の中、山頂を目指して歩くのが目的だ。程よく整備されていて初心者にも優しいけど、ゆったりとした雰囲気は騒ぎたがりな学生達には人気がない。この施設が貸切である都合上、今日の山はいつもより静かかもしれない。
「んー、こっちに来てから騒がしかった分、こういうのもいいわね」
「心が安らぎますよね」
葵ちゃんと野崎さんが周囲を見渡しながら、リラックスした表情でそんな会話をしている。
小鳥のさえずりや木々が風で揺れる音、ザッザッと土を踏む音は、普段は街に住んでいる私たちからしたら非日常だ。ワクワクで胸を高鳴らせると同時に、精神の奥底に潜む自然への意識が安心感を与える。
時折珍しい植物や綺麗な花を見つければ足を止め、綺麗な鳥の歌声が聴こえれば耳を澄ませる。地味だけど確かに充実した体験だった。
そうやって山を登っていくと、目の前に吊り橋が現れた。橋を渡ろうとしたけど、すぐ近くに立っていた看板が目に入って足を止めた。
「橋が老朽化しています。渡る際は一人ずつでお願いします。また、危険ですので悪天候の際は渡らないでください、だって」
葵ちゃんが看板の文字を読み上げる。橋の長さはほんの十メートル程度。一人ずつで渡っても大した時間は取られなさそうだ。
「危ないならはやく直せばいいのに」
「それは来月の予定だって」
桃源学園が長年利用している施設なのに危険を残すのはどうなのかと思ったけど、少し時期が悪かっただけみたいだ。
「じゃあ私からいくわ」
最初に橋を渡ったのは相神さん。一歩進む度に揺れる橋を、手すり部分を持ちながら慎重に渡る。でも危なげなく向こう側まで到着し、私たちの方に振り向いた。
「じゃあ次は私が行くね」
「気をつけてね、南」
葵ちゃんに見送られて二番手として橋を渡る。思ったより揺れるから慎重に進んで行き、半分を超えた時だった。ぐらり、まだ足を踏み出していないのに大きく橋が揺れた。
「キャッ!」
「南!」
「お姉ちゃん!」
橋が揺れた原因は強風。落とされないように綱でできた手すりを掴むけど、橋そのものが落ちるのではないかという恐怖に苛まれる。
「待っててお姉ちゃん! 今助けに行く!」
「朔、落ち着きなさい! 今行ったらあんたも危ないわよ!」
「でも!」
私を助けるために橋を渡ろうとした朔を野崎さんが引き止める。誰かに助けて欲しい気持ちはあるけれど、みんなに危険なことはして欲しくない。ここはなんとか自分の力だけで切り抜けないと。
「百瀬さん、ゆっくりこっちに来て」
意を決して顔を上げると、相神さんが長い手を私に向かって伸ばしていた。あと一歩前に出て手を伸ばせば届く距離。止まない強風の中で緊張しながら足を一歩前に出す。すると相神さんは私の手を掴んで思いっきり引っ張った。
一気に橋を渡り切ることができた私は相神さんに抱き止められて、彼女の腕の中で恐怖から解放された安堵感を噛み締めた。
「あ、ありがとう、相神さん」
「どういたしまして」
相神さんはトラブルに見舞われた私を安心させるように優しく微笑んでくれた。さっきは怖い思いをしたけど、相神さんの優しい笑顔を間近で見られるなんて。まさに怪我の功名だ。
そうやって安心していたら、鼻先に水が落ちてきた。まさかと思って空を見上げると、いつの間にか空は灰色の雲に覆われていた。
「……降ってきたね」
畳み掛けるように雨足が一気に強くなる。これでは吊り橋を渡ることはできないだろう。
「二人とも! 雨が止んだらすぐにそっち行くから雨宿りしてて!」
吊り橋の向こうから葵ちゃんがこれからの対応を伝える。とりあえずの危機は脱したけど、この雨で分断されてしまった不運は変わらない。
「わかった!」
山の天気は変わりやすい。この想定外の雨が一時のものであることを願いながら、相神さんと一緒に雨宿りできそうな場所を探すことになった。
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