第23話 大切な人の幸せ

 自分の正しさを持ちなさい。絶対的な正しさなんてない、一問一答では答えられない複雑で息苦しい世間の中で生き抜くために。


 親父は幼い私によくそんなことを言っていた。だから私は、今も自分が決めた正しさに従って生きている。たとえその正しさが歪んだものだとしても。


 ○○○


 自分の生き方に息苦しさを感じることも少なくない。いくら自分が身を粉にしても頑張りを認めてくれない人も多いし、理不尽に嫌ってくる人もいる。損な役割だとは何となくわかってる。


 それでもこの生き方を続けるのは、南が私を認めてくれたから。こんな生き方しかできない私を南だけは肯定してくれた。私は私のままでいいって思えたのは南のおかげなんだ。


 だから私は、何を犠牲にしてでも南の幸せを守る。たとえ誰であっても、南を傷つけることは許さない。


 ○○○


 いま向き合っている二人の少女を目撃した者がいたとしたら、おそらく反射的に物陰に隠れ、何も聞かなかったことにして逃げ出してしまうだろう。それほどまでの威圧感が彼女たちにはあった。


「そんなに急いで何しようっていうの」

「南に伝えるのよ。相神綾音は最低な人間だって」

「いきなりそんなことを言っても、百瀬が傷つくだけだよ」

「あんたらにこれ以上南を弄ばれるよりはマシよ!」


 みんなから慕われる生徒会長の普段の姿からは想像できないような、敵意と怒りに満ちた声が廊下に響き渡る。並大抵の人間は気圧されてしまうだろうが、天金は一切ひるまない。


「べつにあそこで言ってた事は全部本音ってわけじゃない。佐藤達がいたから取り繕ってただけで、綾音はちゃんと百瀬のことを見ようとしてる」


 相神に心境の変化があったことは、日曜の夜のやり取りで天金も理解していた。盲目的に相神をかばうことは天金も望んでいない。できるだけ論理的に、そして正しく生徒会長を説得しようとした。


「それでも、使相神綾音は南を引き入れたっていうは変わらないでしょ」

「ッ……!」

「ほら、やっぱり最低だ」


 そればかりは天金も否定できない。相神が百瀬に興味を持ったのは声が愛神ヤヨに似ているからで、その声を疲れを癒すために使うというのを本人から直接聞いていたから。


「変だと思ったんだよ。一言だって会話したこともないのに急に現れて、すぐに一緒に出掛けたいだなんて」

「でも、今の綾音は違う」

「今のあいつでも信頼できないって言ってんのよ」


 あいつ、椎名葵が他者を指すうえで使うはずがない言葉が彼女が持つ敵意を浮き彫りにする。


「私は南の親友だって、この世の何よりも大切だって胸を張って言える。でもあいつは他人の目を気にして、なによりも自分が大切だからって、南をためらいなく物扱いした。そんなやつを信頼できるわけないでしょ」

「……そうだね、綾音は間違ったことをしてる」


 天金は相神の過ちを誰よりも理解していた。それは、誰よりも相神の本音を知っていて、誰よりも正しさの中で生きてきたから。


 相神は百瀬の声を利用するために近づき、百瀬に百瀬南ではなく愛神ヤヨを見て、百瀬が自分に好意を抱いていることを知っていながら本音を隠したまま百瀬を弄んでいる。それは相神自身が嫌っている佐藤春美以上に質の悪い行為だ。


「それが分かってるなら、この手を放してくれない?」


 相神綾音は間違っている。天金の立場ならばそう断言できる。いつもの彼女ならばすぐに罪人を糾弾するだろう。


「でも、まだ綾音と百瀬を引き裂かないで。お願い」


 しかし、天金が持つ正しさの天秤は相神綾音のほうに傾いていた。


「なんで? 間違ってる関係を続ける意味なんてあるの?」


 椎名は天金の手を振り払おうとするが、強く握られた手は彼女の肩から離れようとしない。


「会長が百瀬を大切に思ってるのと同じで、私も綾音が大切なんだ。……綾音のためなら、私はなんだってする」


 今の相神は、本来ならば天金の糾弾の対象だ。しかし相神を責めるどころか、相神を守るために行動している。天金の持つ正しさの天秤は、相神が対象になった瞬間、理不尽にも相神のほうに傾く。


 それがどんなことであれ、相神のために行動することそのものが天金の持つ正しさなのだ。


「そっちの都合で南が傷つくのを見過ごせっての? そんなの認めるわけがないでしょ」

「お願い。本当の綾音はあんな間違ったことしないの。今はいろんな事があって傷ついて、疲れ果てて自分を見失ってるだけなんだ」

「何それ。あんなのが昔はいい奴だったって言いたいの?」

「そう。昔の綾音は誰よりも真っ直ぐで、明るくて、人を思いやれる優しさを持ってたんだ」

「考えられない」

「私も百瀬が会長がそこまで執着するような価値がある人には見えないよ」

「……何も知らないのはお互い様ってことね」


 椎名は百瀬を、天金は相神を大切に思っているのは理解できている。しかし、そうなるに至った経緯も、互いの大切な人のことも大して知らない。


 だからこそ話し合うべきだ。天金はそう提言したのだ。椎名も対話する事と理解し合う事の大切さは分かっていたので、少し彼女の言葉に耳を傾けることにした。


「流石に詳しくは言えないけど、綾音は家族との関係に問題を抱えてる。それでだんだん心が荒んでいって、他人と理解し合うことも、人を思いやる優しさも忘れてしまった。昔の綾音なら佐藤達とだって仲良くやれてたはずなんだ」

「あいつの家庭問題と百瀬に何の関係があるのよ」

「百瀬は誰も理解も受け入れようともしなかった綾音が唯一興味を持った人間なんだ」

「その理由は声でしょ。私はそんな奴に百瀬を任せられないって言ってるの」


 天金が何故百瀬に相神の心を癒す大役を任せようとしているのか。その理由は未だ見えない。納得がいく説明を、椎名は彼女を睨みつけながら求めた。


「私も最初はそう思ってた。もし綾音が下手なことをするようなら、それとなく百瀬に離れるよう伝えるつもりだった。でも、百瀬は綾音のことを見てくれたんだ」

「……それって」

「私より百瀬のことを理解してる会長ならわかるだろ。百瀬は人のことをちゃんと見てて、人を思いやる優しさも持ってたんだ」


 天金の百瀬への評価を聞いて、彼女が百瀬に何をさせようとしてるのか椎名は理解した。


「偉大な両親の娘、カリスマモデル、そんな一面じゃなく、一人の人間としての綾音を見てくれた百瀬なら、綾音の心を癒せる。昔の綾音を取り戻すことができる。綾音が傷つくのを見ていることしかできなかった私にとって、百瀬は希望なんだ」


 いつもクールで表情がほとんど変わらず、走る椎名を止めた時でさえ冷静だった天金の声から、明らかに強い意志を感じた。それがどれだけ彼女が必死であるかを示していた。


「……やっぱり、あなたは賢い人ね」


 椎名は必死な天金を前にして、矛を収めることに決めた。彼女は百瀬が傷つくことを許すことはできない。だが、必死に友を想う天金の気持ちを無碍にできなかった。


 椎名の心境の変化を察知した天金は、肩を掴んでいた手を離した。互いの事情を理解した二人から威圧感が消え、穏やかな表情に変わった。


「南が居たらあなたの友達は救われるの?」

「綾音が変わってきてるのは確かだよ。このまま綾音の心が癒やされれば、昔みたいな綾音に戻れるかも知れない」

「そう……わかった。無理に引き裂こうとはしないわ。でも、一つだけ忠告させて」


 椎名は必死な天金に免じて、一旦は矛を収めた。しかし、南が傷つくリスクがなくなったわけではない。


「いくら綺麗に取り繕おうとしても、関係の歪みはいつか必ず露呈する。そして仲良くなればなるほど、本当のことを知った南の傷は深くなる。もちろん、南に救いを見出したあなたの友達もね。その覚悟はできてるの?」


 自分の親友が傷つくかも知れない選択をするために、最後の覚悟を問う質問を投げかけた。


「二人が乗り越えられるように支える覚悟はできてる。たとえその過程で百瀬にも綾音にも嫌われたって構わない」

「……まったく、あなたは本当に強い人ね。そんなあなたが信じる昔の相神さんを、私も信じてみることにするわ」


 そんな真っ直ぐな目を見てしまったら、椎名も引き下がらざるを得ない。


 椎名は相神の行為全てを許したわけではない。しかし、天金の覚悟をリスペクトし、天金の友を想う気持ちに共感してひとまずは現状を維持することに決めたのだ。


「とりあえず、百瀬のことは私も注意して見ておく。それに百瀬にとっても綾音と一緒にいることは悪い話じゃないでしょ?」

「え、なんでよ」

「百瀬は綾音のこと好きなんだろ」

「はぁ……本当にあの子は……」


 出会って数日の子に相神への好意を悟られる百瀬に、椎名は子供のドジに呆れる母親のような反応を見せた。


「で、応援はしてくれるの?」

「私は百瀬に全てを賭けるつもりだ。なら、恋の応援をするのは当然だろ」

「あなたのそういう正しさを持ってるところ、大人っぽくて素敵だと思うわ」

「そりゃどうも」


 友を想う心に共感した二人は、いつのまにか敵同士からリスペクトし合う仲に変わっていた。友のおかげで今の自分があるという共通点を持った二人は、まともな会話をしたのはこれが初めてでありながら、下手な友人同士よりも理解し合っていたのだ。


「あっ、忘れるとこだった。はいこれ」


 天金が椎名の机から持ってきていた日誌を手渡す。椎名もそれを見て存在を思い出したのか、ハッと表情を見せて日誌を受け取った。


「持ってきてくれたんだ。そういう気遣いができて優しいところ、好きになっちゃいそう」

「そういう冗談はいらん」

「はいはい、ありがとね。まぁ、あなたのこと本気で好きな人は居ると思うけど」

「あり得ないだろ。こんな無愛想なやつ」

「へぇ……まぁあなたがそう思うことは悪いことじゃないものね。それじゃ、お互いの大切な人の幸せために頑張ろうね」

「あぁ。まぁ、何事もなく私達が頑張らずに済むことが一番なんだけどな」


 互いが大切にしている人のために契約を交わし、その最中で理解を深めた二人は背を向け合って、大切な人の元へ急いで戻っていった。


 夕暮れで橙色に染まる長い廊下。そこで交わされた契約により、百瀬と相神の友人関係は継続されることとなった。これが正しかったのか、それとも間違いであったか。それはまだ、誰にもわからない。

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