第20話 今はまだわからない
私が住む住宅街にはお金持ちが多い。いわゆる高級住宅街というやつだ。私たちの家族が引っ越してきたのが十二年前で、千夏は生まれた時からここに住んでいる。千夏の家とは六つほど家を隔てるけど、父親同士が音楽関係での知り合いということで、私と千夏は昔からよく一緒にいた。
友達だというにはまだ少し距離があったかもしれない。あの頃の私には楽しく遊べる友達がまだいっぱい居たし、千夏は年齢に反して大人びていて周りから浮いていたから。まぁ、浮いた存在なのは今も変わらないのだけど。
でも、今思えばあの中で私を見ていてくれた人は千夏だけだった。いつからだろうか、周りの人間からの視線が変わったのは。いや、私に向けられた視線の正体に気付いたという方が正しいか。
私は相神綾音の友達というものが存在しないことに気が付いた。私のスマホにある無数の連絡先の中には、有名女優と世界的ミュージシャンの娘の友人しかいなかったのだ。ただ一人、千夏を除いて。
「懐かしいね」
「そうだね」
暗い夜道を歩いて辿り着いたのは人っ子一人いない公園。昼か夕方に来れば子供やその子たちの親、暇を持て余したご老人がいるけど、こんな夜遅くに来る物好きは私達しかいなかった。昔よりも少なくなった遊具の合間を通りながら、彼女と思うがまま会話を続ける。自分の中に渦巻く感情を理解するために。
「よくここで遊んだよね」
「私以外の友達と、でしょ」
「……まぁ、うん」
「別に責めてるつもりはないよ。ただ事実を言っただけ」
小学校低学年くらいまで、私は友達とよくこの公園で遊んでいた。ブランコだったりシーソーだったり、名前が分からない前後に動く馬の乗り物だったり。でも、その中に千夏がいたのはほんの数回程度だろう。
「千夏も一緒って言ったら嫌な顔する子がいっぱい居たから」
「だろうね」
あの頃の千夏が周りから浮いていたのには、年齢に反した大人びた態度の他に、もう一つ理由があった。言ってることがいつも正しすぎるのだ。
その年頃の子供は無邪気である以上に、やってはいけないことへのブレーキが弱い。平気で花を手折るし、生き物をおもちゃにする。自己主張ができない子に損な役回りを平気で押し付けるし、容姿のコンプレックスを容赦なくいじる。……後者はやり方が陰湿になるだけで、成長しても変わらないけど。
そうしたことを集団で楽しんでやってる中で、千夏はそれを毎回注意していた。デブだとかブサイクだとか、そんな言葉を笑いながら平気で投げつける子たちとか、頑張って完成させた絵に落書きをしてめちゃくちゃにしてた子たちとかに向かって「なにやってんの」って強気に声をかけてた。
それは絶対に正しいことだ。でも、楽しんでいるところに冷や水をぶっかけるわけだから、千夏は空気が読めない子扱い。当然仲間外れにされることも多くなる。
千夏はそんな立場に置かれても、泣いてる子、我慢してる子、仲間外れにされないよう愛想笑いで誤魔化す子、そんな子たちをいじめから守り続けた。何があっても正しくあり続けた千夏は本当に強い人間だ。そういうところを私は尊敬してるし、そんな千夏だから頼りにしてる。
「……あの頃の私は、千夏にはどう見えてた?」
「いつも楽しそうで明るくて、人の中心にいる子。そして、その明るさでみんなを元気にして、人に寄り添える優しさを持ってる強い人間」
「そ、そんなに褒める?」
「少なくとも私にはそう見えてた」
今の私には重すぎる賞賛を恥ずかしげもなくスラスラと言うものだから、さすがの私も照れてしまった。
「でも、千夏みたいに人を助けたりしてないよ」
「綾音のそばにいることで救われた子もいっぱい居る」
「いや、そんなこと無いよ。ただ自分の気が向くままに振る舞ってた私なんかが……」
「その、綾音の気が向くままの行動に救われるの。私もその一人」
思いもよらない千夏の一言に足が止まる。でも、千夏の足は止まらない。少し空いた距離の中で、彼女の顔が見えないまま会話を続ける。
「昔の綾音は誰よりも人のことを想ってた。人を傷つける言葉なんて言わないし、分け隔てなくみんなとありのまま接してた。……覚えてる? 綾音が私に優しいって言ってくれたこと」
「……多分何回も言ってるよ」
「だろうね。でも、一つだけ私の心に残り続けてるものがある」
私にとって千夏が優しいことは自明なことだ。千夏の行動一つ一つにそう感じているし、何度も言葉にしてきた。だから、彼女の中に残り続ける言葉がどれか分からなかった。
「小学一年生のころ、親父がどっちも仕事で家を空けるって時に一緒に私の家にいた時があったよね」
「うん。お泊り会だーってはしゃいだっけ」
「綾音だけね」
「ははは……千夏はいつも冷静だもんね」
小学校に上がってすぐの時、誰かの家に泊まるっていうのが初めてだったからワクワクしたんだっけ。千夏との距離は今ほど近くなかったけど、遊園地に行くみたいなテンションだったのを覚えている。そんな私に少し引いてる千夏の目線も。
「その時綾音は私に言ってくれたの。正しさで導いてくれる優しい子だって」
千夏は振り返りながら、過去に私が千夏に言ったという言葉をリフレインした。少し遠くて暗かったから見えにくかったけど、確かに千夏は優しく微笑んでいた。その笑顔を見て、過去の記憶が呼び起こされる。
『つまんないでしょ。私なんかと一緒にいても』
あの日、千夏は突然こんなことを言った。千夏の家に来てしばらく時間がたち、千夏のお母さんが買い出しで出かけた時だった。暗い顔をしながらそんなことを言ったのと、いつも誰かを守っていた優しくて強い千夏が自分を「私なんか」と言ったから、千夏がどんなに凄いかを教えてあげようと思ったのだ。
『そんなことないよ。私は千夏ちゃんと一緒に居て楽しいし、一緒に沢山お話しできてうれしいって思ってるよ。だって、千夏ちゃんは誰かがいじめられてたらすぐに助けるし、どんな時でも間違ってるときは間違ってるって言ってくれるもん。先生みたいだってみんなに嫌われても、千夏ちゃんはそれをずっと続けてる。そんな正しさで導いてくれる優しい千夏ちゃんを、すごいって私はいつも思ってるよ』
千夏の両手を私の両手で包み込み、しっかりと目を合わせて彼女に私の言葉を伝えた。その時、暗い顔をしていた千夏が笑ってくれたんだ。ちょうど、今みたいな控えめだけど確かに嬉しそうな笑顔で。
「そんなこともあったね」
「でしょ? そんな感じでさ、綾音が忘れてるだけで、綾音は言葉でみんなを救ってた。綾音と誰よりも一緒に居る私が言うんだ。間違いないよ」
いつも表情を崩さない千夏が、自信に満ち溢れた顔で宣言した。こんなのを見たら、もう信用するしかないじゃない。
「……そっか、昔の私ってそんな子だったんだ」
「意外とわからないものだよ。自分の事って」
いつの間にか私の目の前に立っていた千夏が、やさしく私の手をとった。自分のことは意外とわからない……本当に、千夏には敵わない。私の心を読んだみたいに適したアドバイスをくれる。
私の今日の涙の理由は、今はまだわからない。でも、千夏が昔の私のことを教えてくれたみたいに、いつか分かる日がきっとくる。急いで答えを出したって、それが正しいとも思えないし。いつか答えがわかるときは、今日みたいに千夏が教えてくれるのか、私が自分で答えを出すのか、それとも……そう考えた時、百瀬さんの優しい微笑みを思い出した。
「そろそろ帰ろっか。寒くなってきたし」
そう言って千夏の手が私から離れようとした瞬間、私はいつの間にか手を握る強さを強くしていた。そのせいで私が千夏の手を捕まえたみたいになって、千夏は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたの」
それは自分が一番聞きたい。でも、確かに私の心はこの手を離したくないと思っている。どうすればいいかと迷っていたら、また百瀬さんの微笑みが頭に浮かんだ。彼女は私が泣いている時、黙って近くにいてくれた。どんな私でも受け入れると言ってくれた。
その時、私は強い私を捨てて、自分の心のままに動いた。それが許されると思ったから。きっと、今も同じなんじゃないだろうか。
千夏の手を離したくない、私の手を引いて導いてほしいって、そんな甘えが許されるって思ってるんだ。それなら、今は思うがまま行動しよう。今の私の心を理解するために。
「えっと、帰るまでこのままが……その、いい」
緊張しながら私の心を千夏に伝える。すると、千夏はすぐに手を繋ぎなおしてくれた。顔をあげると、千夏と目が合った。いつもの仏頂面が少し緩んでいて、私をちゃんと見ていてくれた。
「こっちの方があったかいね」
急に甘えた私を茶化すことなく、千夏は歩き始めた。私はつないだ手は離さずに、千夏の半歩後ろをついていく。歩幅はそんなに変わらない。隣を歩くことだってできるし、そうした方が歩きやすいに決まってる。でも、この場所がよかった。どうしてかわからないけど、千夏に手を引かれると安心したから。
帰り道に会話はなかった。でも、二人で歩くその空間はひどく心地よかった。
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