第19話 その日の終わり
時刻は夜の十時前。結局百瀬さんは最後の一本に乗ることになってしまった。夜に帰ることになったのは百瀬さんが一緒にご飯を食べようと提案したからだけど、ここまで遅くなってしまったのは私が長い間泣いていたせい。
「見送り、ありがとね」
バス停にあるベンチに座って、百瀬さんが私にお礼を言った。彼女の両親も心配してるだろうし、私には彼女を安全に帰らせる義務があると思ったからバス停まで送ることにしたのだ。
「これくらい当り前よ。バスに乗った後も気をつけて帰ってね」
夜に女性が一人で出歩けるっていうのが我が国の治安の良さを表すときによく使われる文言だけど、夜の一人歩きはやはり危ない。いや、黒系統で統一した地雷系ファッションの彼女を夜道で見たら、何かの怪異かと思われて安全に帰れるかも?
「……えっと、今日のことは、その、みんなには秘密にしててほしい」
「うん。そのつもりだよ」
「そっか、よかった」
百瀬さんは秘密を言いふらすタイプには思えないけど、学校のみんなに今日のことを知られたら私のイメージに傷がついてしまうから、一応口止めをしておく。
正直、今日の夜のことを周りから問い詰められても、私自身が全く理解できていないから説明もできない。友達が作ったカレーを食べて泣き始めるとか、どんな精神状態なんだ。もし知られたら心療内科の受診を勧められてしまうだろう。
「さっきのこと、ごめん」
「謝らなくていいよ。最初に言ったでしょ。何かあったら遠慮なく頼ってって」
彼女の隣に座って頭を下げると、彼女は私の謝罪を受け取らずに首を横に振った。私がまだ心の整理ができていないのもあるけど、今の百瀬さんは着せ替えであたふたしていた子と同一人物とは思えないくらい落ち着いていた。
「……それなら、頼りにしようかな」
「まかせて。相神さんのためならなんだってやるから」
百瀬さんは胸を張って、誇らしげに微笑んだ。本当に不思議な子だな。千夏とはまた違ったやり方で私に寄り添おうとしてるのは何となく理解できる。そのやり方が私にとっては真新しかったから、まだ飲み込みきれてないけど。
「あ、バス来たね」
他の車よりも大きくて明るい車体が、バス停に停まるためにゆっくりと減速する。ほとんど人が乗っていないバスが目の前に停まり、百瀬さんを乗せるために扉が開いた。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
「えぇ、私もよ」
それだけ言葉を交わすと彼女は立ち上がり、トントンと上機嫌なステップでバスに乗り込んだ。
「またね!」
私も帰ろうと立ち上がった瞬間、百瀬さんはくるりと振り返って、今日一番の笑顔で再会の約束を叫んだ。バスの光のせいか、彼女があまりにも眩しくて声で返事をすることができなかった。でも、彼女の声を聴いた瞬間に私の首はすでに縦に動いていた。
今度こそ扉が完全に閉まり、バスは夜の道へ走り去っていった。バス停に一人取り残された私は、電灯の心細い光の下で何をするでもなく佇んでいた。
もうここに用事はないはずなのに、なんで私は帰らないのだろうか。百瀬さんのカレーを食べてから、私はなんか変だ。理由が分からない行動を無意識のうちに行っている。
私はヤヨちゃんを楽しむために百瀬さんを家に呼んだ。声だけでなく行動もヤヨちゃんに似ている彼女を着せ替えして遊ぶのは確かに楽しくて癒された。
私は百瀬さんじゃなく、ヤヨちゃんを見ていたのだ。彼女にピンクのウィッグを渡したのも、見た目もヤヨちゃんに寄せるためだ。本来の私の目的はヤヨちゃんだったはずだ。
それなのに今の私の心にあるのは、涙を流した記憶と百瀬さんに撫でられた温度と感触だ。あの時の私の涙と百瀬さんの行動の意味をずっと考えている。
「……わけわかんない」
心がかき乱されるのは不愉快なはずなのに、なぜか今の私はそよ風で波打つ水面のような心境にあった。
「いつまでそこにいんの」
「うわぁ!! え、ちょっと誰、って千夏?!」
突然背後から話しかけられて驚き、勢いよく飛びのくと、視線の先に私の幼馴染がいつもの無表情で立っていた。
「なんでここに……?」
「スーパーで百瀬と一緒にいたのを見かけてね。ちょっと見張ってた」
「ちょっとって……こんな時間までずっと外にいたの?」
「ご飯食べた後に夜の散歩がてら見てただけだよ。思いのほか遅くまで家にいたからちょっと体冷えたけど」
表情を変えないまま千夏はこの状況の説明をする。こうやって見ると、コロコロ表情が変わる百瀬さんとあまり表情が変わらない千夏は対照的だな。
「で、いつまでここにいるの? カリスマモデルの一人歩きはおすすめできないけど」
「あ、いや、もう帰るわ。長い間百瀬さんと一緒にいて疲れてただけ」
私がここに残る理由は何もない。せっかく千夏も来てくれたことだし、一緒に帰ることにしよう。
「……出てくるのが遅かったのってさ、百瀬と一緒に映画とか見てたから?」
「え、なんでそう思うの」
「目元、真っ赤に腫れてるよ」
千夏に指摘された瞬間、反射的にそれを隠した。やましいことがあると自白しているようなその行動を、聡明な千夏が見逃してくれるわけなかった。じっとわたしを見つめる瞳からはとても逃げられそうにない。
「……ちょっと遠回りして帰っていい?」
「いいよ。今日は星が綺麗に見えそうだし」
私はなかなか踏み出せなかった一歩を踏み出し、千夏と一緒に電灯が照らすバス停を離れた。見上げた夜空には、真っ暗な闇の中に月だけがぼんやりと浮かんでいた。
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