第18話 涙
ご飯を炊いていないことに気がついたのは、カレーが完成した後だった。生米と炊飯器はあったけど、長い間使ってないから私も存在を忘れていたのが悪かった。
棚にあったパックご飯をレンジで温めることで間に合わせた。
「うぅ、せっかくなら炊飯器で炊きたかった……」
「まるで炊き立てって謳い文句だし、味は変わらないと思うよ」
パックご飯に書いてあった文字を読んで、落ち込む百瀬さんをフォローする。百瀬さんはまだ納得できてなさそうな顔で、温まったパックご飯をお皿の右半分に盛り付けた。
「まぁ、後悔してても仕方ないか。はいこれ相神さんの」
お玉でルーをよそって、完成したカレーをまずは私に渡す。彼女が作ったカレーは、レトルトやコンビニのカレーと違って具がゴロゴロしている。
ダイニングテーブルまで運んで、前もってコップやスプーンを準備していた席に座る。そして百瀬さんは私の隣に座り、やっと夕食の準備が完了した。
「結構遅くなっちゃったね」
「仕事でもっと遅くなることもあるわ。気にしないで」
カレーの材料を買う時間と煮込む時間のせいで、もう時間は午後八時半。百瀬さんはこれを食べたらすぐにバス停に向かわないといけないくらいの時間だ。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
百瀬さんが行儀よくいただきますと言ったから、それにつられて私も同じことを言う。学校での昼食でも、家での夕食でも言うことはなかったから少し懐かしい気分になる。
カレーを一口スプーンで掬って口に運ぶ。食べてみて最初に抱いた感想は、甘いの一言だった。辛いのが苦手な百瀬さんの妹が食べられるくらいだし当然なのだが、それにしたって想像以上に甘い。なんでもいいと投げずに、中辛か辛口にしてと言えばよかったと少し後悔した。
でも、なんだか懐かしい味だ。百瀬さんが作ったカレーを食べるのは初めてで、給食で食べたカレーともまた違う味のはずなのにどうして。
「相神さん、どう? おいしい?」
隣に座る百瀬さんがカレーの感想を求めてきた。特別おいしいわけではないけど、それを包み隠さず伝えるのは気が引ける。
「おいしいよ」
「そっか。よかったぁ」
なんとか上手く作れたという安堵。しかしそれ以上に私においしいと言ってもらえた喜びを感じている。そんなふうに見えたのは、百瀬さんがあまりにも眩しい屈託のない笑顔を見せたから。
私は百瀬さん自身に興味はない。今日の着せ替えの時も、昨日遊びに行った時も、私は彼女に百瀬さんではなくヤヨちゃんを見ていた。ヤヨちゃんの声に似ている。それ以外に百瀬さんに価値なんてない。
それなのに私は、いま目の前にいる百瀬さん自身の笑顔を綺麗だと思った。
私に向けられる笑顔は、千夏のものを除いて全部不愉快だった。お世辞を言って私の機嫌を取ろうとする学校の人たち、何かしら理由をつけて私に近づこうとする芸能界の大人たち、そのすべてが私ではなく、大物女優と世界的ミュージシャンの娘、今をときめくカリスマモデルとしての私に向けられたものだから。
でも、百瀬さんの笑顔は私に向けられていた。そう確信できたのは、百瀬さんが私を知ろうとしてくれたのを見ていたから。
私のことを気にかけてくれるけどどこか一線を引いている千夏とも、私を見てくれないそれ以外とも違う。初めて私の家族について触れて、私に同情して行動した人。
余計なお世話だとか、強い私にそんなものは必要ないとか、勝手な同情は不愉快だとか思うのが私だ。でも、その中にうれしいと思ってしまっている私がいることも否定できなかった。
「相神さん」
「え、なに?」
「どうして泣いてるの」
「……え」
彼女に指摘されて反射的に目じりに指をあてる。すると、確かに涙が流れた跡がそこにあった。ほんの少し潤った指先を見ながら、その涙の理由を考える。
意味が分からない。なんでカレーを食べただけで泣いているんだ。感動することも、悲しいことも何も無かったはずだ。玉ねぎを切ってもないし、目にゴミなんて入っていない。
涙を流しているのは自分なのに、その理由をほかでもない私が理解できていない。
「あ、ごめん。なんか目にゴミが入ったみたいで」
声が上ずる。これが目に刺激を受けたせいでなく、何かしらの心的要因があることを示していた。そんな不都合な事実から逃げるように、この涙をゴミによる刺激のせいにする。
「……そっか」
言い訳をしながら目をこする私を見て、百瀬さんはなぜか優しい微笑みを浮かべた。まるで私の涙の理由を知ってるみたいに。
目をさらにこする。目を圧迫したことと、止まらない涙が潤んだせいで視界がぼやける。百瀬さんが見えなくなる。すると何故か胸がキュッと締め付けられるような感覚がした。
涙なんて、自分の弱みなんて見せたくない。自分の弱さなんて認めたくない。
「大丈夫、ここには私しかいないから」
ここには百瀬さんしかいない。それが私が泣いていい理由になるわけがない。そう思っているはずなのに、どうして涙が止まらないの。どうして無理やりにでも涙を止めようと思えないの。
「ちがう……これは……」
か細くて不安定な声は、取り繕おうとする私の抵抗を粉砕する。顔を手で覆い隠して下を向いて、不都合な事実を隠そうと無意味な行動を起こす。なんだ、なんなんだ今の私は。こんなの私じゃない。強い私がこんなことをするわけない。
しかし、どんなに認めたくなくても、人前で感情を昂らせて泣く弱い自分がいるという事実は変わらない。
「我慢しなくていいよ。私はどんな相神さんも受け入れるから」
子供をあやすような優しい声を囁きながら、私の頭をやさしくなでた。まるで転んでケガをした幼稚園生に対する接し方だ。こんなの私のプライドが許さない。許さないはずなのに、私は彼女の手を振り払うことができなかった。
だって、彼女の手があまりにも心地よくて、苦しかった胸が楽になったから。その代わりに、涙が決壊してあふれ出し、嗚咽すらも漏れだした。
こんな弱い自分なんて知らない。こんな弱い自分なんて認めたくない。でも、弱い自分が存在が存在することになぜか納得してしまっていた。
そこから先は詳しくは覚えていない。
ただ一つ言えるのは、私の頭に触れた温度を一生忘れることはないだろうということだ。
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