第5話 フィルター

 仕事で忙殺されていた時とは異なり、今週はのんびり過ごすことができた。でも、暇があるからこそ降りかかってくる苦労というものがある。それが友達付き合いの関係で断れない、好きでもない子たちとの遊びだ。


「めんど」


 もう5月というのもあって暑くなってきた中、駅前の噴水で待ち合わせ。集合時間の10分前なのにまだ誰も来ていない。6人もいれば一人くらい、ってその一人が私か。私と同じで遊びに行く学生が多く、いつも出勤ラッシュで社会人であふれる駅前は若返っていた。今日もスーツで出勤する気の毒な人も少しいるけど。


 そろそろ誰か来るだろうと思って、スマホで今日のニュースを見るのをやめて顔をあげると、知らない男たちが私を取り囲んでいた。人数は二人、顔も服のセンスも平均程度だ。


「お嬢ちゃん、ちょっといいかな?」


 話しかけてきたのを無視してその場から離れようとする。こういう手合いは無視が一番だ。ナンパしてくる側も食い下がって下手に事を荒立てたくないだろう。こんなそっけない奴に無茶するよりも、次のターゲットを探した方が賢明だし。


「無視しないでよ~。一人なんでしょ? ちょっとお話しするくらいいいじゃないかい」


 どうやらこいつらは賢明ではなかったみたい。さっきから無視を続けてるのにずっとついてくるし、無視で対処できないタイプだったようだ。こういう頭が空っぽな奴が一番嫌い。ナンパも、仕事場で馴れ馴れしくご飯に誘ってくる大人を思い出すから嫌い。


 みんな千夏みたいに賢くて優しければいいのに。何度もそんなことを考えた。でも、千夏みたいな人間はごく少数なんだ。


「ちょっとくらいいいじゃんかー」


 その汚い手を伸ばしてこないで。みんなそうだ。子供だからって、女の子だからって、私を弱い存在だと決めつけて手を伸ばしてくる。私は遊ぶためのお人形でも、観賞するためのフィギアでもない。


 私は私なんだ。勝手に私を決めつけるな。そう思っていても、私を見てくれる人は殆どいない。自分勝手なフィルターを通してでしか私を見ないんだ。だからせめて強くあろうとしたのに、その努力も報われない。イライラする。今にも後ろの愚者を殴ってしまいそうだ。でも暴力沙汰になるのもめんどくさい。そう思って走って逃げようとした時だった。


「こっち向いてよ」


 男が私の腕をつかんだ。体中に悪寒が走る。頭の理解が追い付かないまま体が硬直して、男の手を振りほどくことができない。まるで自分が自分でないみたいで、うまく呼吸ができない。


 なんだ、なんなんだこれ。こんな奴の手を振りほどくこともできないなんて、怖くて体が動かないなんて、これじゃあまるで弱い人間じゃないか。認めたくない。強い人間でありたかった。その望みは全部幻想で、私が拒絶した弱い人間の私が本物だったなんて。


 いくら頭で考えていても現実は変わらない。今の私はナンパ男の対処もできない弱い人間だ。


「あの!」


 その声を聞いた瞬間、震えが止まったのが分かった。忙しい私の心を癒してくれた、幾度も聞いた声。反射的に声がした方を向くと、その存在と声が酷似してるだけの女の子が立っていた。


「その手、離してくれませんか」


 小柄な彼女からは全く圧を感じない。ナンパ男もそう思ったのか、私の手を掴んでいない方の男が彼女に近づいて行った。


「どーしたの。もしかしてこの子の連れ?」

「そんな事はどうでもいいです。その手を離してください」

「そっか。でもラッキー。めっちゃ俺好みの子だわ」

「え、ちょ、ちょっと……」


 百瀬さんの言葉を無視して男は彼女に手を伸ばす。話を聞かない二人を弱い彼女がどうにかできるわけないのに。自分の力量もわきまえずに無謀な行いをする彼女に腹が立った。


 でもそれ以上に、ナンパなんかに怯えてしまっている百瀬さんと今の自分は同じ弱い存在だという事実が受け入れられなかった。


「いい加減にして!」


 いつまでも私の腕を掴んでいる手を振り払う。私の怒鳴り声に二人の男は肩を窄めて、私の手を掴んでいた男は後退り、もう一人は百瀬さんに伸ばしていた手を止めた。


「なんだよこのヒス女。こっちが下手に出てれば調子に乗りやがって!」


 自分が上だと思っていた男は、一瞬でも女に気圧された事実に耐えられなかったようだ。怒りのままに殴りかかってきた。


「そこまでにしときな」


 地の底から響くような冷たい声で男は動きを止めた。男の視線を追って振り返ると、そこには千夏と取り巻き四人が立っていた。


 肌に刺さるような千夏の鋭い視線は、男たちを縮こまらせるのに十分だった。千夏は堂々と歩を進めて、私と百瀬さんを庇うように男たちの前に立った。


「警察沙汰にしたくないでしょ」


 その言葉で男たちはようやく周囲がざわついていることに気がついた。私の大声と男が殴ろうとした動作が周囲の注目を集めてしまったようだ。こうなったら周囲全てが男どもの敵。


 このバカたちでも不味い状況だと理解できたようで、千夏に言われた通り警察沙汰になる前にその場から逃げ出した。


「は、はぁー助かったぁ……」


 緊張が解けて体から力が抜けた百瀬さんがふらついた。それを取り巻きの中で一番小柄で大人しい子が支えた。


「大丈夫ですか」

「うん。なんとか」


 結局この子は何の役にも立ってなかったな。けどそれを口にするのは憚られるから、私を助けてくれた親友への感謝を優先することにした。


「また助けられちゃったね。ありがと、千夏」

「お礼を言う相手が違うんじゃないの」


 ポケットに手を入れた千夏は今度は私に冷たい視線を刺した。こんな千夏を見るのは、小学生の時ケンカした時以来で、体が固まった。


「え、どういうこと」

「……分かんないならいいよ。別に」


 千夏のその言葉の裏には軽蔑というより、失望が隠されているような気がした。千夏は私に背を向けると、取り巻きの小柄な子に肩を貸してもらっている百瀬さんに近寄った。


「ありがとね、百瀬さん」

「あっ、いえ、結局何もできませんでしたし……私も天金さんに助けられてちゃって、迷惑かけちゃいましたし……」


 百瀬さんが言っている事は事実だ。それなのに千夏は、私がお礼を言うべき相手が百瀬さんだとでも言うのだろうか。


「私が来る前に綾音を助けようとしてくれたんだよね。なかなか勇気がいる事だよ、そういうの」

「そーだよ! 綾音がナンパされてるって伝えた瞬間に走っていっちゃうんだから心配したんだよ!」


 取り巻きの青色に髪を染めてる子が、まだふらついている百瀬さんの両肩を掴んだ。その子が言っていることが本当なら無謀もいいとこだ。そんな無駄な行いが千夏に褒められている理由が理解できなかった。


「結局ミイラ取りがミイラになっただけだったけどね。まぁその度胸はすごいと思うよ」

「だねー。さすが綾音ちゃんが連れてきた子」


 取り巻きのリーダー格の言葉に便乗して、もう一人の取り巻きも百瀬さんを褒めた。みんなから称賛を浴びた百瀬さんは頭の裏に手を当てて、わかりやすく照れていた。


「と、とにかく、みんな集合したし電車に乗ろうよ。ここで喋ってたら乗り遅れてちゃうよ」

「そうだね。そろそろ行こうか」


 周りから認められて百瀬さんはあっという間に私のグループに溶け込んだ。駅に向かう途中の会話の中で波長が合ったのか、さっきまで百瀬さんに肩を貸していた小柄な子と仲良くなっていた。


「よかったね、綾音」

「……何がよ」

「あの子、ちゃんと綾音のデコイになってくれそうだよ。あの子たちにもう気に入られてる」

「そうみたいね。適当にいろいろ見ながらリラックスできそう」


 当初の目的は想定以上に上手くいっている。それなのに私の胸が晴れないのは、きっと千夏が理解できなかったせいだ。千夏は私のことを分かってくれている。だから私も千夏のことを理解できるようにした。


 でも今日は千夏が何を考えてるか分からなかった。それどころか、千夏が分かっている私のことを私が理解できていないみたいだった。


「……ごめん、やっぱり千夏が言ってたことわからない」

「はぁ、重症ね」


 今日の千夏の言葉の刃は鋭い。いつもなら綾音のことだからって流してくれる私の間違いに容赦なく刃を突き立ててくる。そして最悪なのが、私自身がその間違いに気付けていないことだ。


「私が来たのは、ちょうど百瀬があの男どもに声をかけた時だった。その時に綾音は安心したって表情してたよ」

「……それは、百瀬さんの声がヤヨちゃんに似てて、それで安心して」

「本当にそう?」

「え?」


 また千夏が理解できないことを言った。なんて言葉を返せばいいか分からなくて固まっていたら、千夏は呆れ返ったようにため息をついた。


「電車が来るまでまだ時間がある。少し百瀬と話してみて」

「え、ちょっと!」


 この胸のモヤモヤを晴らすために千夏と話したのに、謎はもっと深まってしまった。千夏の後ろ姿を見て、今日初めて彼女の考えていることが分かった。


 言われた通りに百瀬さんと話さない限り、私と会話するつもりはない。そんな意思が彼女が私に向けている背中から滲み出ていた。


「……やるしかないか」


 千夏の言葉の意味を理解するため、私は前を歩いている百瀬さんに駆け寄った。

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