第36話 心の目

 鉄の香りに包まれながら手放した意識は、強い鉄と油の臭い、それと騒がしさによって引き戻された。


 雪の上で冷えていたはずの体には布団がかけられており、肌寒さすら感じない。

 どうやらまた人の世話になってしまったらしい。


 首だけ動かしてぼんやりと知らない部屋を見渡すと、そこら中に工具や何かの部品が転がっている。

 寝室だとは到底思えない散らかり方だ。


 そんな風変わりな空間の際では、カチャカチャと金属が細かくぶつかる音が継続的に鳴っている。

 見ると、椅子に座ったドクランが頬杖を突いた女性の側面に座り、眉間に皴を寄せていた。


「…回路がいくつか千切れてるじゃねえか!馴染むまで暴れるなと何回言わせるつもりだ!」


「体が勝手に動いたんだよ。俺は悪くねえ」


「だ、れ、の、体だ誰の!」


 俺が寝ていることなどお構いなしにドクランの大声がさほど広くない部屋に反響する。

 ベッドからは女性の後姿しか見えなかったが、筋肉質な腕と怒鳴るドクランに対して怯えも悪びれもしない精神の太さには見覚えがあった。


「ジェシカ…なのか?」


 俺が問いを投げかけるとドクランはこちらを見たが、肝心の当人は背を向けたままで顔を見せてくれない。

 そのせいで流れた嫌な静寂に何かを感じたのか、ドクランは数回頭を掻いてから黙って部屋を出て行った。


 立ち上がった俺は、ジェシカの表情を窺うためにドクランの空けた椅子に歩いて近付く。

 怪我の痛みなんて大したことはなかったが、木の床が軋む音が緊張して強張った心臓の五月蠅さと重なり、ただ真っすぐに歩くことでさえ困難に思えた。


 重い足を引き摺った俺は、どうにかあと一歩で座れるところまで来たがそれは許されず、体は絨毯の無い床に押し倒された。

 俺が倒れたことで床に散らばっていた小さな部品がコロコロと転がり、視界を長い赤髪が覆ってくる。


「…そんなに俺は重荷だったか?黙って置いていくほど邪魔だったのかよ」


 ジェシカは久しぶりの再会に伴う挨拶などを全て放棄し、俺の身勝手を咎めた。

 急なことに最初は驚いたが、俺の前にある怒りは当然の感情だとすぐに受け入れる。


 騙したことで深く傷付けてしまった。

 ルーライトで俺が、友達を失う恐怖から自分を守ることを優先したせいだ。

 俺は他人の事を想いやる振りをしながらも本質的には自分本位な人間であり、そしてきっと今もそれは変わらなかったが、彼女の悲痛な表情に直面し、ただ、誠心誠意謝るべきだとそう思った。


「俺の側に居れば危険が及ぶと思ったんだ。でも、お前の気持ちを無視するべきじゃなかった。俺が間違ってた」


 潤んだオレンジ色の瞳を直視した俺は、自分の間違えを認めた。

 すると、ジェシカは俺の胸に額を落とし、抱いていた悲しみの分だけ俺のシャツを濡らしていく。


「もう、あんな思いはしたくねえ」


「うん、ごめん」


 もう一度宥めるように謝った俺は、自分のシャツが強く握られて伸びるのを感じ目だけを動かすと、そこにはいつか俺が嵌めた右腕と金色の義手が並んでいた。

 何の変哲もない俺の右手が自然と引き寄せられ、その輝きに触れる。


「左腕、意外と軽いんだな」


「ユータに貰ったペンダント、これになっちまった」


 言われてみれば、ジェシカに渡した魔獣の角のペンダントが確かに無くなっている。

 そもそも売ろうと思っていたものだ、役割を果たしたということだろう。

 俺はすぐに納得したが、ジェシカは表情を陰らせたまま続けた。


「笑えるだろ?女らしさなんて疾うの昔に諦めたけどよ。人らしささえ無くしちまうとは思わなかったぜ」


 義手の事が話題に上がることは分かっていたのだろう、ジェシカは特に躊躇うことも無く、自嘲しながら口だけで笑った。


 しかし、ロビンを支えていた義足を見続けていた俺にとって、金属の体に対する抵抗は微塵もない。

 何より失った物の何倍も大切な魅力が彼女の中に残っていることは、とやかく質問をしなくても分かり切っていた。


「それでも、ジェシカはジェシカだ」


 俺がそう言い返すと、ジェシカが俺のシャツを握る力は更に強くなった。

 彼女はそれ以上何も言わず、俺は溜まった息を少しだけ吐く。

 その音はジェシカの耳に届いてもおかしくはなかったが、廊下から聞こえてきた大きな足音が俺たち二人の意識を持っていった。


「勝手に人の家に入ってくるな!俺の話を無視するんじゃねえ!おい!」


 幾つかの固い足音とドクランの怒声が響いた後、閉まっていた部屋の扉が開く。

 視線の中でドアノブを放したのは、軍服を身に纏った見知らぬ男だった。


「君がユータ君だね。お楽しみのところ悪いが俺も混ぜてもらおう」



 ◇



 リビングに移動した俺は軍人の前に座らせられ、それに付き合ってジェシカも俺の横に着いた。


「ねえ、ここは煙草は…ダメみたいだねえ」


 軍服を若干着崩した軽薄そうな茶髪の男は睨むドクランを見てへらへらと笑うと、取り出した煙草を懐にしまい直した。

 明らかに部屋には煙草の匂いが染みついているのだが、ドクランはこの男が気に入らないようで、黙って鼻を鳴らすだけだ。


「やれやれ…俺はクリード・ミラー。エルデ帝国の騎士団員だ」


「帝国の…こんな所までご苦労様で」


「本当はロビン君にも用があったんだけどね。どうやら一足遅かったようだ。オーランドさんに話は聞いたよ。君も大変だったらしいじゃないか」


 クリードと名乗った男は首を竦めてから、俺に気遣いの言葉を差し向けた。


 彼が漂わせる飄々とした雰囲気のせいでどうにも腹の底を探ってしまい、眉に力が入ってしまう。

 そんな俺の難しい表情を見て疑念を悟ったのか、クリードは真ん中で分けられた髪の間にある整った顔立ちを、更に柔らかく咲かせて見せた。


「そんなに怖い顔をしないでくれよ。今日は君に協力をお願いしに来たんだ。まあ、正直に言えばお願いじゃなくて、強制するように命令されているんだけどね」


「協力?」


「…愛されし者を鎮圧するための作戦が数か月後に開始される。その人員に加わって欲しい」


 本題に入ったクリードは俺を見据えて声のトーンをほんの少しだけ落とした。

 表情自体に大した変化はなかったが、先程までとは違い彼が今仕事をしているのだということがひしひしと伝わってくる。

 何より、クリードの持つ淡褐色の瞳の奥にはぎらついた何かが見え隠れしていた。


「そんな大事な戦いに民間人、それも転移者の俺を何故?」


 要件を聞いた俺がすぐに湧いた疑問を返した。


 俺の心中ではようやく目の前にいる男の中身が薄っすらと確認できたことに安心する気持ちと、関わった事のない人間が自分の事を知っている気持ち悪さがせめぎ合っている。


「転移者だからこそだ。俺たちにとって最悪の事態は、愛されし者に力のある転移者を奪われることだからね。だから、ロビン君は俺たちが守らなければならなかった。最悪の失態だったけれど、君が連れていかれなかったことだけは不幸中の幸いだ」


 過ぎ去った事象を振り返る気が無いのか、クリードは遺憾の意を口にしたもののそれを顔には出さない。

 そんな目的にまっしぐらな彼とは違い、俺は判断を下せずにいた。


 理不尽に戦争を吹っ掛けられた帝国側に協力し、賢者の暴挙を止めることは正しい行いに思える。


 しかし俺が戦いに行くことになれば、きっとリリィもジェシカも同行することになるだろう。

 それに、俺を庇って視力を失ったオーランドさんを一人残していくのも、ありえない話だ。


「悪いが、俺は行けない」


「…明日の朝迎えに来るよ。首を縦に振らないと強制連行することになるから、断るときは覚悟して断るようにね」


「ケッ、勝手なこと言いやがって」


 クリードが残した忠告に対してジェシカが不快感を露わにする。

 しかし、クリードはそれに全くめげず、ジェシカに向かってウインクをしてから部屋を立ち去った。


「うげぇ、気持ちわりい。ああいう男は嫌いだ」


 ジェシカはクリードの出て行った方を見ながら、舌を出して辟易としている。


 どうやら、帝国は俺を戦力にしようと考えてはいるが、俺を信用しているわけではない。

 最低でも身柄を確保し、俺が愛されし者に参加する事だけは防がなければならないのだから、クリードの言った措置は当然だ。


 つまり、どう判断したとしても、俺の近くに居る人間には危険を及ぼすことになる。

 盲目となったオーランドさんを逃走劇に巻き込むわけにもいかない。


「おい、ガキ。消える前にオーリーに挨拶していけ。ゴリラ女の腕は今日中に調整しておく」


 考え込んでいると、仏頂面をしたドクランが扉の方から俺を呼んだ。

 勿論彼の指図に異論があるはずもなく、俺は案内された通りに地下室に向かうことにした。



 ◇



「良かった、今回は早起きね。一晩しか寝てないわよ」


「…横で騒がれて目が覚めただけだけどな」


 薄暗い地下室に足を踏み入れると、花瓶の水を変えていたリリィがこちらに気付いて声をかけてきた。


 言われてみれば多少の痛みはあるものの、ダラクでステナに負けたときよりは体が自由に動く。

 魔力切れの反動に体が慣れたのか、ただ出血量の差が影響したのかはわからないが、何にせよ早く目が覚めることに越したことはない。


「ユータ、側に来てくれ」


 リリィと俺のやり取りを聞いて、失った右目に斜めに包帯を巻いたオーランドさんが俺を呼びつけた。

 無機質な灰色の壁に囲まれながらテーブルに向かって座るオーランドさんは、何か手元で作業をしている。


 リリィが用意した椅子に俺が座ると、その音を聞いてオーランドさんが少し微笑んだ。


「何もしないでいると落ち着かなくてな、ドクの作業を少しだけ手伝わせてもらっているんだ」


 会話と並行してテーブルの上の金属が淡々と組み上げられていく。

 俺に目がもう二つ付いていたとしても、ここまでの速さで作業を進めるのは不可能だ。


 ロビンの足を作ったのが最後だと言っていたが、オーランドさんの指先に長年かけて染み付いた工程なのだろう。


 しかし、昨日のままの体であれば彼はこんなことをしなくても良かった。

 真っ暗な世界に取り残される恐怖を、何かで誤魔化す必要など無かったのだ。


「…俺のせいで」


 オーランドさんの代わりに俺が切り出すと、彼はすぐに作業を止め、俺の言葉を遮った。


「責任を感じる必要はない。きっと、お前が俺の目を覚ましたあの瞬間から、お前も俺の息子だった」


「………ッ!」


 俺はもう、それ以上何も言えなかった。

 奥歯を噛んで音を立てないように静かに涙を流すと、オーランドさんは俺の頭に大きな固い手のひらを乗せた。


「俺が馬鹿だったせいで、ロビンが馬鹿息子になっちまった。目を覚ましてやってくれないか」


 オーランドさんが笑顔を浮かべたまま言った頼みは、当然俺に決意をさせた。


「必ず…必ず連れて帰ります」


 情けない姿を隠そうとしていた俺の努力は、返事が涙声になってしまったせいで水の泡となった。

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