第35話 蒸発
薄明るかったはずの空は溶かした時間の分だけ闇に向かっていた。
それでも、俺がロビンと戦っている間にいつの間にか丸太小屋で発生していた火災が周囲を照らしていたため、何とか視界を確保できている。
中でもロビンを宥めたシスターの耳朶にこさえられた空洞は一際暗く、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
十数秒前にロビンがシスターを呼ぶときに口にしたアイディーという名は、リリィから聞いて知っている。
翼竜を操りルーライトでの戦いの火付け役となった、愛されし者に所属する転移者の名だ。
「チッ、もう魔力切れかよ…こんなんで使い物になるのか?」
足元に転がったロビンを一暼して舌打ちをしたアイディーの態度には、ロビンが気絶するまで見せていた柔和さが微塵も感じ取れない。
ここまで豹変されてしまえば、浮いて感じた大きなピアスの穴にも全く違和感がなかった。
「それにしても、まさか標的のガキと賢者様の七光りが一緒だとはな。一石二鳥じゃねえか」
「ロビンが
オーランドさんがアイディーの発した言葉に眉を強張らせる。
そのやり取りに理解が進んだ俺は、一つの答えに辿り着いた。
「まさか、ホープを殺したのは…!」
「少しの刺激を与えるだけで彼は簡単にこちら側へ堕ちてくれました。本当に純粋な子供です。純粋で単純…しかしコイツが牛の死骸を生で食い始めた時は腹ァ抱えて笑ったぜ。あれはもう人間なんかじゃねえ、人語を喋れる獣だな!」
「……ッ!」
アイディーは靴の先でロビンの顎に触れながら下卑た笑みを浮かべる。
その態度に怒りを感じたオーランドさんが奥歯を強く噛む音が鳴るのと同時に、我慢ならなくなった俺の喉から暴言が溢れ出した。
「手前も人の心臓食ってる異常者だろうが、ピアス女」
「…あァ?死にたいみてえだなクソガキ。神の御心に従う私たちに盾突くなど、言語道断です」
アイディーは強い言葉を受け眉間に皺を寄せたかと思えば、一転して感情の波一つ立たない穏やかな表情に戻る。
俺は彼女の奇妙な語り口に気味の悪さを感じたがそれをさておき、魔力の殆どを失い駄々を捏ねる腹に鞭打って強引に集中すると、
「ステナが死んだ今、貴方を守る後ろ楯はありません。…賢者様の特別は俺だけで十分だ、身の程を弁えな!」
アイディーは魔素を纏って黒く染まった鞭を積もった雪に叩き付けてこちらを威嚇する。
俺への敵対心が、彼女の口の中で鋭く光る歯にはっきりと表れていた。
「どいつもこいつも、勝手にジェラってキレてんじゃねえ!」
決して大柄ではない彼女の迫力を肌で感じた俺は、それに抗うように最後の炎を放った。
きっと飲み込んだ転移者の心臓の力で回復してしまうアイディーを極力無力化するために、加減無しで放出された七色の炎は、彼女を逃がすまいと上下左右に拡散しながら向かっていく。
「美しい魔法ですね…だけどよ」
躱すことが不可能だと悟ったアイディーはその場でニヤリと笑うと、横たわるロビンの体を足先で持ち上げ、後ろ襟を掴む。
「燃えてもいいのか?
そう言って意識の無いロビンを盾にしたアイディーは、舌に開けたピアスを投げ出して俺たちに見せ付けた。
「ユータァ!」
「……ッ!」
アイディーの声に何かを察したオーランドさんが俺の名前を叫んで制止したのと同時に、誘導ミサイルのように彼女に迫っていた炎が四方八方に方向転換して消滅する。
焦る俺たちを瞳に映して口元を歪めたこの女は、人の心の弱点を躊躇なく利用する、残忍さと狡猾さを合わせ持っていた。
「下衆女が…!」
「ギャハハハ!何とでも言えよ雑魚!…この体で下品に笑うのは止めて下さい」
完全に魔力を失い雪上に倒れた俺を置いて、アイディーは自らと会話し始めた。
その様子を見た俺は彼女の精神の特殊な造りに何と無く気付いたが、もう意味のないことだ。
霞む視界の中で、細い腕に引きずられるロビンの体と揺れるスカートが近付いてくる。
「さて、要らない人間は魔獣の餌にでもしましょうか。そうだな、今頃魔法使いの相手をして腹を空かせているだろ」
淑やかに歩くアイディーの口調が変化すると、それに釣られて彼女の歩幅が大きくなる。
そのせいか、俺が四回息をした頃にはもう既に、彼女がオーランドさんの目前まで歩み寄っていた。
「クソ!ロビンを、俺の息子を返せ!」
オーランドさんが声の方を目掛けて振った拳は空を切り、ガラ空きの脛を蹴られた彼は簡単に地面に倒れる。
その虚しくなるほどの無力さに、ようやく俺は自分の未熟さのせいでオーランドさんが光を失った事実を受け入れ、悔涙を流した。
「そういやお前の魔素、全く濁ってねえな。聞いてた話と違うぜ?どうなってんだよこれ、なあ、オイ!」
俺の体の周りに残った魔素の色を見て首を傾げたアイディーは、気の行くままに数回俺の脳天を強く踏んだ。
それに飽きると、わざと爪を立てながら俺の首を掴んで持ち上げる。
「まあいいや。…お前も賢者様のために働け。誓えば生かしてやるよ」
「クソ喰らえ」
俺がアイディーの提案に即答した瞬間、体を浮遊感が襲った。
何が起こったか分からなかったが、その答えを得る前に意識が限界を迎えて遠くの方に離れていく。
「金貨一枚の借りは返したぜ。起きたら酒に付き合えよ、ユータ」
俺が気を失う寸前、鉄の匂いと少しだけ懐かしい声がした。
それは、耳にするだけで安心感に包まれるような、自信に溢れた強者の声だった。
◇
風を切る快感の後から、皮膚を破り肉を割く手応えがついてくる。
そのまま右手に握った大剣を振り切ると、後を追って俺の頬と右肩が赤く濡れた。
他人の血の生温さでさえも、もう慣れきってしまった。
しかし、待ち侘びていた瞬間が予想よりも早く訪れたことに歓喜した心は、普段通りの感触にすら特別な興奮を覚えてしまう。
「金貨一枚の借りは返したぜ。起きたら酒に付き合えよ、ユータ」
俺の言葉を聞き終えると、左腕で受け止めたユータの体は完全に脱力し、少し重くなった。
けれど、彼の体が放つ熱は何よりも温かく、その重さすら心地良い。
いや、残念ながら温もりは俺の妄想だ。
もう俺の左腕は、人の体温を感じ取ることなどできないのだから。
「ぐあああッ!」
鉄の塊に右腕を一閃されたシスターは、左手で鷲掴みにしていた金髪の青年を横に捨て、腕の真っ直ぐな断面を空いた手で抑えながら叫んだ。
するとその手を押し返すように、切り落とされたはずの腕が見る見るうちに元の形を取り戻す。
一般的な人間の挙動ではなかったが、似た様な化け物を相手にしたことがあるため、それ程の驚きはない。
忘れもしない、あれとやり合ったのは初めてユータと一緒に酒を飲んだ時だった。
「クソッ、連れは魔法使いだけじゃなかったのかよ!」
シスターが奇襲に舌打ちしながら鞭を手に取り、スナップを利かせてしならせると、見事にユータを抱えて動かせない俺の左腕に命中させ、固い音を響かせる。
しかし、俺の中には金属が衝撃で振動する不快感があるだけだ。
それよりも、シスターの発した言葉の方が俺の心の柔い部分に突き刺さって少しだけ痛い。
「…やっぱリリィは一緒なのか。いい気はしねえな」
「何だ…?」
びくともしない俺の様子に違和感を感じたのかシスターが困惑すると、俯いた俺を煽るように風が吹き、古びたマントを巻き上げる。
すると、金色に光る俺の左腕が影の中から顔を出した。
「黄金の義手…!」
「メッキだけどな。最強の戦士、ジェシカ・グリーンウッド様にピッタリだろ?」
気を取り直した俺が持ち上げた大剣を右肩に乗せて笑うと、シスターはそれが余程気に喰わなかったのか、刺々しい表情を浮かべた。
彼女には勘違いされてしまったようだが、この笑みは余裕をアピールしているわけではなく、純粋な機嫌の良さから来るものだ。
ルーライトでの戦いで切り落とされた左腕の代わりを求めてこの村に訪れ、リハビリを乗り越えた先に最高のご褒美が待ち受けていたのだから、心が躍って仕方がない。
「まさか、こんな田舎で会えるとは思ってもなかったぜ」
腕の中でぐったりとしたユータの背中を見るだけで、つい頬が緩んでしまう。
緊迫した状況であることは理解していたが、彼との再会は俺にとって何よりも特別なものだった。
俺が幸せを噛み締めていると、先程までとは別人のように冷静になったシスターが金髪の青年を抱えて話し掛けてきた。
「お互い怪我人を抱えています。一旦ここまでにしませんか?」
「俺の友達ボロ雑巾にしやがったんだ、手前がくたばる以外のゴールは
「そうか、そうだよな…猿に話が通じるわけねえよなァ!」
俺の返答を聞いたシスターは目付きを再び尖らせ、指笛を吹いた。
その音が空気を突き抜けた瞬間、空から質量の塊が飛来する。
「猿なんかじゃねえ、ゴリラ様だ!」
速度のせいでぶれて見えたそれに向かって俺が大剣を振り下ろすと、火花を散らしながら何かが分断され、赤い液体と共に地に落ちた。
「ギャアアア!」
砂埃が収まるとそこにはシスターと少年の姿は無く、残されていたのは翼竜の尾の先端だった。
耳障りな鳴き声のする上空を見上げると、翼竜の背に乗ったシスターが汗を垂らしながらこちらを見下ろしている。
「鱗ごと尻尾を…ッ!?…まあいい、賢者様の指示が最優先だ。賢者様の指示が最優先だから帰るだけで、逃げるわけじゃないからな!」
尾を落とされて飛行の安定感を欠いた翼竜の背中を蹴りながら、シスターが俺に向かって言い訳を投げてくる。
こめかみの血管を浮かび上がらせた彼女の表情に乗った迫力は、駄々っ子のような身振りで見事に相殺されていた。
「ロビン…ロビン…」
雪の上に倒れた男は離れていく竜の方向に手を伸ばしながら小さな声で嘆いている。
俺個人は完全に勝利した様相だったがこちらには怪我人が二人、それも片方は魔法では回復しようがない眼球の怪我だ。
しかも、近くに見える建物は全壊、少し離れた場所にある丸太小屋からも火の手が上がっている。
おそらく、ユータたちにとって良い結果ではないだろう。
「ゼェ、ゼェ…」
状況を確認していると、上がった息を必死に整える聞き苦しい音が俺の背後から聞こえてきた。
首だけ振り向くとそこに居たのは、俺の担当医であるドクランだった。
煙が上がっているのを見つけたドクランと俺は、すぐに二人で現場に向かおうとしていたが、肥満体形の彼の足が余りに遅かったため、置き去りにしてきたのだ。
「おい、オーリー!大丈夫か!」
男の負った痛々しい傷を見たドクランは血相を変えて駆け寄り、命に別状がないことを確認すると、すぐに赤々と燃える丸太小屋の方に目を向けた。
炎が反射した小さいサングラスに瞳が隠され表情はいまいち分からなかったが、悲惨な光景を前に呆然とする彼の周囲には喪失感が漂っている。
「神は俺たちからどれだけ奪えば気が済むんだ…どれだけ…!」
ドクランの呟きは木材の焼ける悲しい熱に蒸発し、虚しく消えていった。
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