第33話 希望
赤い空の不気味さに臆した雲が、ここではないどこかへと足早に逃げていく。
溶けた雪もそれに続こうと屋根から飛び降りたが、足を挫いてその場で動けなくなってしまった。
「
割れてしまった花瓶を綺麗に片付けたつもりになっていた俺は、もの言いたげな窓の外の風景に気を取られ、床に残っていた小さな破片を踏んで足の裏を切ってしまった。
濡れた靴下を洗濯に出したばかりだったため、もう少し気を付けるべきだったが、どうにも頭がぼんやりとしている。
軽く走った痛みの証拠として赤い汚れが小さく残っているのを見て、自分の足がまだ生きていることに有難味を感じた俺は、もう一度窓の外を見た。
オーランドさん、そしてロビンと家族になる。
その提案を飲んだ先の未来を想像すると、穏やかな大地の中で自然と共生する、のびのびとした生活がそこにはあり、それも良いのではないかと考えてしまう。
しかし、実の息子を失ったオーランドさんに、同じ苦しみをもう一度味わわせるわけにはいかない。
俺の中に棲む怪物がいつ暴走してもおかしくない現状で、無責任に優しさに甘える気にはなれなかった。
「ねえ、ロビンはまだ帰ってこないの?」
雲を眺めていた俺に向かって、リビングに入ってきたリリィが問いかけてきた。
そういえば、もうすぐ晩御飯の時間を迎えるというのに、ロビンは未だに姿を見せない。
「リリィ、花瓶を倒したのお前じゃないよな?」
「何の話よ?私は向こうの部屋でずっと魔導書を読んでいたわ」
俺が質問に答えずに質問を返したせいでリリィは顔を
花瓶を割ったのがリリィでないのなら、やはりあの時リビングに居たのはロビンだったのではないだろうか。
もしかしたら、オーランドさんに怒られるのを恐れて出てこれなくなってしまったのかもしれない。
「もう一回畜舎を見てくるよ」
俺はそうリリィに告げ、テーブルに置かれたライターとランプを拝借すると、小走りで星が薄っすらと見え始めた空の下に出た。
「…要らなかったな、これ」
足元を見ると、畜舎の方向へと続く足跡が雪にはっきりと残っている。
ロビンの捜索と説得にそれ程の時間はかからないことを悟った俺は、ランプを持ち出したことを後悔しながら少し歩いた。
「…?」
追ってきた足跡は一度畜舎の中に入り、それから放牧地の方へと続いている。
俺は不思議に思ったが、一旦畜舎の中を確認しておこうと考え扉に手を掛けた。
「ロビン、出て来いよ!オーランドさんも大して気にしてな…」
俺が畜舎の奥に進みながら発していた気を使った言葉は、その場に蔓延していた違和感の靄に遮られる。
もう夜が近いのにも関わらず、馬房の扉が全て開かれ、家畜たちは一匹残らず姿を消していた。
「どういうことだ…?」
戸惑ってそう呟いた俺に、考える猶予は与えられない。
俺の背後に何者かの気配を感じると同時に、刃物が風を切るような冷たい音が聞こえたのだ。
「………!」
その音が首目掛けて迫っていることに勘付き瞬時に姿勢を落とすと、俺の頭上を殺気が通過する。
前転して距離を取った俺は嫌な予感を感じたが、それに負けずに振り返りながら視線を持ち上げ、案の定そこに居た青年を睨んだ。
「遊びにしては度が過ぎねえか…ロビン!」
「流石、オーランドが欲しがるだけのことはあるね」
遠くで焼ける夕日の手前には、赤く光る義足の片方を上げたロビンの姿があった。
ロビンの水色だったはずの瞳には赤い残光が付いて回っており、彼の身に何かが起こっていることは一目瞭然だ。
しかし、ロビンにそれを問おうとした刹那、もう一度赤い光に襲われる。
「うおッ…!」
俺がなんとか反応して身を躱すと、横を通過した鉄の足は、背負っていた畜舎の壁に大きな穴を開けた。
当たり所が悪ければ、一撃で人を殺せる威力だ。
理由は見当もつかなかったが、ロビンが俺に対して殺意を抱いていることは事実であるらしい。
「組手の時も油断して一本取られてるんだから、簡単に口を動かそうとしちゃダメだよ」
「うるせッ…!」
馬鹿にしたようなロビンの声に俺が反論しようとした瞬間、また同じように攻撃され今度は左にあった馬房の柵が破壊される。
心が見透かされているような不気味さを感じ冷や汗を流した俺を見て、ロビンが口元を歪めた。
「安心して。心までは読めないよ。ただ、全ての動きを捉えているだけさ!」
「チッ!」
俺はロビンが話し始めたのを見てからポケットに手を突っ込んだが、取り出したライターは彼の回し蹴りに弾き飛ばされる。
挙動の全てを把握されてしまい、俺は状況を打破できる可能性を一切感じられなくなっていた。
いや、余力ならば本当はある。
ロビンの力に触発され、心の檻の中で牙を剝き出しにしながら今か今かとその時を待っている。
しかし、俺を迎え入れようとしてくれたオーランドさんが心の底から愛して育ててきたロビンの命を奪うことなど、甘ったれた俺の精神が耐えられるはずがなかった。
「馬たちは!ホープはどうした!」
俺は覚悟を決め、ロビンの足に意識の八割を割きながら言葉を発した。
すると、赤い凶器を振るって俺の問いを咎めた彼は、犬歯に怒りを滲ませる。
「ホープは、僕の目の届かないところで馬たちに蹴り殺された…!」
「嘘だ…そんなはずないだろ!あれだけ仲が良かったんだ、きっと何かの間違いに決まってる!」
探していたのは、会話の中にあるであろう突破口。
勿論鋼鉄の蹴りが嵐のように降ってきたが、俺はどうにか致命傷を避けながら、飛び散る木片の奥にいるロビンに訴えかける。
彼を説得して落ち着かせることだけが、俺が生き残るための唯一の手段だった。
しかし、そんな俺の目論見とは逆に、彼の真っ赤な瞳は更に邪悪な熱を帯びていく。
「ホープが目の前で殺された怒りを、親友の体温が奪われていく絶望を、お前の勝手で嘘にするなァ!」
そう叫んだロビンは俺に向かって飛び掛かりながら、柔軟な体を活かして打点の高い踵落としを繰り出す。
俺は後方に飛んで直撃を回避したが、振り下ろされた踵が床を砕いた衝撃に巻き込まれる。
吹き飛んだ俺の体は穴が開いて脆くなっていた壁を貫通し、そのまま畜舎の外へと弾き出された。
「が、はッ…!」
俺は肺から返ってきた酸素を唾液と共に吐き出し、転がった体を起こせないまま不安定に数回呼吸する。
あばら骨が破壊されてしまい、息を整えようと努める俺の体には刺すような痛みが継続していた。
横たわる俺に向かって、瓦礫を踏む音が近付いてくる。
「清らかに見えた世界を僕が無謀に信用したせいで、希望は根こそぎもっていかれた。…おかげで、神が僕に与えた使命に気付くことができたよ!」
あれだけ激しく義足を動かしていたというのに、抽象的な話を繰り返すロビンは息一つ乱していない。
彼はオーランドさんの下で培った戦士としての地力の上に、根源の暴走によって生まれた邪悪な力を加え、人間離れした能力を手に入れていた。
「そっちに行けば、下らない自分を切り捨てられるのか…?」
ロビンが見たことも無い表情で生き生きと笑う姿を見た俺は、心の揺らぎを言葉に変えた。
思うがままに暴れ、殺し、全ての生命を屈服させる。
そんな未来の自分の姿に対して憧れに近い感情を抱きかけたその瞬間、頭に過ったのはリリィと共に積み重ねてきた旅の記憶だった。
彼女だけではない。
関わってきた様々な顔ぶれが俺の存在を望んでくれていた。
「…いや、俺はきっと、それほど不幸な人間じゃない」
いい加減、俺も力と、過去と折り合いを付けなければならない。
俺はロビンの強さから逃げることを諦め、胸の中で息衝く悍ましい狂気を封じていた、巨大な錠に鍵を捻じ込んだ。
「『哀れみ』、最後の勝負だ」
解放されニヤリと笑った根源の意思と俺は、もう一度あの頃の記憶に立ち返った。
希望の一つすら存在しない、空っぽな記憶に。
◇
単色で描かれた、面白みのない人生だ。
厳しい訓練を受け、興味のない情報を頭の中に叩き込む。
その単調なサイクルは幼かった俺の精神を確実に蝕み、未来への好奇心に満ちていた瞳は徐々に曇っていった。
やはり他人から見ても虚しさがあるのか、訓練中に胃の中の物を吐き出す姿を遠巻きから眺めていたメイドたちの目には、哀憐の情が込められている。
「何度見ても、哀れな姿だ」
「…そうだな。生きる目的が無いまま、ただ悲しみを受け入れ続けていた」
泣き喚く過去の俺を頬杖を突きながら眺める根源の意思の言葉に同意する。
トラウマを直視するのは気持ちの良いものではないが、これが最後だと腹を括れば割り切ることができた。
「僕を受け入れれば、誰もが君にひれ伏す。弱者の人生とはこれでさよならだ!」
根源の意思が俺の諦めたような言葉に興奮し、両手を広げながらそう叫ぶと、周囲には勝色の炎が渦巻き、その恐ろしい音が返事を急かす。
根源の意思の声色には確信を得た雰囲気があり、彼に歯茎があればきっと剥き出しになっているだろう。
しかし、俺は彼の望みを叶えるためにここに訪れたわけではなかった。
「盛り上がっているところ悪いが、俺は二度と人殺しはしない。それを伝えに来たんだ」
「…は?」
俺の答えが意外だったのか、宣言した俺と目を合わせた根源の意思は暫く呆然とした。
開いた口が塞がらない彼の心中を反映するかのようにうねる炎は徐々に力を失い、そしてもう一度燃え盛った。
「何を言っている…?僕らの中にある黒い感情は本物だ!また下らない時間を繰り返すつもりか!」
少しずつ我を取り戻した根源の意思は、駄々をこねる子供のように手を震わせながら怒りの矛先を俺に向ける。
すると、足元を中心に俺たちを取り囲む世界が歪んでいき、景色はじいちゃんに連れられた丸太小屋での記憶に移り変わった。
「もう忘れたなんて言わせないぞ!賢者に心を壊されたこの瞬間を!」
根源の意思は床に捨てられた飴玉に口を近付ける少年の背中を踏んで叫び散らかす。
揺さぶりをかけようとする彼の狙いが今は手に取るようにわかる。
今までは奇妙な存在として自分と切り離して考えていたが、彼は紛れもなく俺を構成する一部、いや、一部と言うには大き過ぎる存在だ。
しかし、膨れ上がったそれに振り回されることはもう無い。
「…埃まみれで最悪の舌触りだったな。もう二度と飴なんて舐めたくない」
「当たり前だ。こんな醜態を二度と晒さないために、僕が生まれたんだ!」
俺がぼやくように言うと、根源の意思は牙を露わにしながら声を荒げる。
はっきりと認識できるわけではないが、俺に向かって唾を飛ばす根源の意思は涙を流しているように見えた。
彼は俺の表層心理に完全に溶け込むことで、心の闇の中で感じていた孤独や悲しみから解放される瞬間を夢見ていたのかもしれない。
しかし、目的に縋りつく彼を引き剥がすため、俺は自分に呆れながらも笑って見せた。
「でもな、この鮮やかな七色と濃い甘さに、俺は知らない世界を夢見たんだ」
「………ッ!」
自分の余りの惨めさに閉ざした記憶ではあったが、過ぎる時間をただひたすらに長く感じていた俺にとって、それは辛いだけのものではなかった。
この事実が自分の深いところに在り続けてくれたおかげで、俺は日々の苦しみを耐えることができたのだ。
屋敷の塀を越えれば無限に世界が広がっている。
その虹色の希望を追い続けて今、俺は掛け替えのない存在に出会うことができていた。
俺はその感謝を両腕に込めて、根源の意思を抱き締めた。
「お前は『哀れみ』なんかじゃない。ずっと俺を支えてくれた『希望』だ」
俺が言い終えた瞬間、過去の記憶を映し出していた空間が硝子のように割れ、色とりどりの優しい光が漂う一面の花畑に変化した。
「クソッ、もう少しだったのに…クソぉ…!」
根源の意思は俺の服を強く掴むと、足元の花に向かって言葉を零す。
見ると、胸の中で肩を震わせる彼の背中から黒い何かが煙のように溢れ出し、それと共に彼の色や形が変化していた。
そして、根源の意思が最終的に形取ったのは、幼い頃の自分の姿だった。
泣き止んだ根源の意思は下を向いたまま、声変わりしていない高い声で話し掛けてくる。
「もう僕らは本能のままに暴れて腹を満たす獣の道には戻れない。
「ああ…わかってる」
俺が頷くと、根源の意思はゆっくりと短い黒髪を持ち上げ、遂に顔を上げる。
そこには鏡でよく見る何の変哲もない茶色い瞳が、閃々と輝いていた。
「でも不思議だな。今はどこまでだっていけそうな気がしてる」
そう言って浮かべた彼の太陽のような笑顔に照らされ、気が付けば俺も歯を剝き出しにして笑い合っていた。
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