第32話 喜劇
教会は、神聖な場所だ。
神を信じる者たちが集い、一斉に目を閉じ同じ偶像に向かって祈りを捧げる。
あの特別哀れな光景を想うと迷える子羊などとはよく言ったもので、虚ろな目で群れる彼らはまるで犬に追われる家畜の様だ。
最近私が移ってきたリープ村の協会は小さいが、歴史のある建造物である。
戦時中はその歴史の神々しさに縋り、普段教会に立ち寄らない戦士たちが涙ながらに助けを乞う姿がよく目撃されたらしい。
確かに壁や家具は様々な大きさの傷を蓄え、年輪のように自らの積み上げてきた経験を主張することに必死だ。
そんな干乾びかけた建物に、少年に毛が生えたような若い命が迷い込んできた。
「こんにちは、シスター!」
「ロビン、また来て下さったのですね」
扉の奥から顔を覗かせたのは、ロビンという名の肌の白い金髪の青年だった。
彼はここ最近、よくこの教会に足を運んでおり、会う度に可愛く挨拶をしてくれる。
これだけ純粋に育っていればきっとかわいいと言われ慣れているだろうから、私から敢えてそれを伝える必要性は感じられない。
「うん、最近は家に居ても落ち着かなくて…」
「そうなのですね…大丈夫、神と私はいつでも貴方を受け入れますよ」
表情を曇らせたロビンに私が微笑みながら両手を広げると、彼は少し照れて俯く。
その機を見逃さなかった私はロビンの側に歩み寄り、すぐに両手で彼の手を取った。
「でもどうして貴方はそんなに寂しそうな目をしているのですか?」
正直に言えばこの青年の瞳の細かな違いなどわからないが、そこに違いがあるかどうかが大切なわけでは無い。
彼の幼い心が今どういう状況にあるはずなのか、自分の予測に自信を持つ事が大事なのだ。
結果、私の予想は見事に的中していたようで、ロビンはぽろぽろと自分の心中を打ち明け始めた。
「今日も買い物をしていたら、陰口を言われたんだ。村では誰もが僕の事を余所者だ、危険だなんて言って距離を取られてしまう。僕はみんなと仲良くしたいだけなのに…」
「それは辛かったですね…。でも、貴方にはオーランドさんがいるでしょう?彼は助けてくれないのですか?」
握ったロビンの両手の中で、悲しみや孤独のような薄暗い感情が膨張していくのが分かる。
彼は今にも泣き出してしまいそうだったが、どうにか堪えながら私の問いかけに答えた。
「オーランドは僕が何をされても、村のみんなに何も言ってくれないんだ。…そうか、本当は僕の事が嫌いなのかもしれない。オーランドにまで嫌われてたら、僕は…!」
殻に籠り始めたロビンの内側の方から、
鼓膜に届き、脳に情報処理されるような立体的な音では無かったが、確かに私の耳の、いや、身体の奥に甘く甘く響き渡る。
「貴方が壊れてしまう前に…全て壊してしまえばいいのです」
私は震えるロビンの手から伝わってくる濁った感情を全て受け止め、そして逆流させていく。
私が小さい声で発した誘いの言葉に目を見開いた彼は、どうやらこちら側まで到達する寸前のようだ。
しかし、私が再度彼の足を闇に引き摺り下ろそうとしたその瞬間、教会の古びた鐘が、耳を塞ぎたくなるような大きな音を響かせた。
それはとても神々しく、耳障りな音だった。
「ハッ…!も、もうこんな時間か!馬たちの世話に戻らないと。…今日は変なことを言ってごめんなさい。疲れてるせいか、ちょっと考え過ぎちゃったみたいだ」
神の
「もし良かったら…シスターさんの名前を聞いてもいいかな?」
少し恥じらった好青年に名前を聞かれるというロマンチックなシチュエーションだったが、今はそれどころではない。
私はときめきなど微塵も感じずただ激しく苛立ち、暴れ出しそうになるもう一つの人格を胸の奥になんとか押し止め、できるだけ淑やかに笑って答えた。
「アイディーとお呼びください。神の導きがあるようお祈りしておきますね、ロビン」
「またね!アイディーさん!」
ロビンは嬉しそうに笑みを浮かべると教会を飛び出していった。
これでようやく彼女を外に出してやることができる。
「チッ…寒い事するもんだな、神様ってのは」
「そんな事を言ってはいけませんよ。神は貴方の事も見ています」
ひらひらと鬱陶しいヴェールを脱ぎ捨て悪態を吐き捨てた私を、もう一人の私が咎める。
布の奥に隠れていた巨大なピアスと共に閉じ込められていた私の表情は、娑婆の空気と純朴な青年が漂わせた瘴気を吸い込む快感に、自然と蕩けてしまった。
「そう。だったら神様、見ていて下さい!食べ頃になったあのガキをすぐに堕として御覧に入れます!…ギャハハハ!」
一人でふざけて悪魔のように笑う私を私が呆れて見ていたが、毛ほども気にならない。
私らしくここに在り、そして賢者様の役に立てれば、何の文句もなかった。
◇
「…ロビンはどこに行ったんですか?」
「さあな。最近たまに消えちまうんだよ。まあ家畜の世話はちゃんと終わらせていくし、晩飯には戻ってくるから別に問題はないんだが」
玄関にロビンの靴が無く畜舎にも居なかったため不思議に思った俺は、ベランダでタバコを吸っていたオーランドさんに尋ねたが、彼も行方には見当が付かないようだ。
「ちょうど良かった、お前に話があるんだ。少しいいか」
俺は言われるままに広いベランダに置かれた椅子に腰かける。
喫茶店を出た後に彼が勧める甘味処を何軒も回ったためいつの間にか時間は過ぎ、空は茜色に染まってしまっていた。
「………」
俺はオーランドさんが話し出すのを黙って待っていたが、彼は向かいの椅子に座ったまま挙動不審に態勢を変え、言い出せずにいる。
終いには吸っていた煙草を吸い終え、二本目の煙草を取り出そうとして空箱をひっくり返した。
「クソ、そういや今日は買い出しの日だったな…」
「…少し、くらいはもう経ったんじゃないですか?」
「あ!笑いやがったな!」
俺は緊張したオーランドさんの様子がおかしくて、堪え切れず噴き出してしまった。
彼はそれに対して心外だというポーズを取ってはいるものの、俺が初めて笑ったことを喜んでいるのが隠し切れていない。
ロビンは本当に幸せ者だ。
こんなに優しい父親と暮らせる人間が世の中にどれだけいるだろうか。
俺がそんなことを考えている間に、意を決したオーランドさんが煙草臭い息を吐き、真剣な眼差しをこちらに向けた。
「ユータ、この村で一緒に暮らさないか。俺はお前を息子として迎え入れたい」
「……は!?」
傷を負いもう開かないオーランドさんの左目もきっと俺のことを真っすぐに見ている。
予想もしていなかった提案に極限まで動揺し、ただ驚きの声を上げることしかできずにいた俺に構わず、彼は更に続けた。
「俺は、ロビンの育て方を間違えた。俺があの時…」
オーランドさんが話し終わる前に、リビングでパリンと何かが割れる音がした。
気になった俺が中を確認すると、窓のそばに飾り付けられていた花瓶が落下して粉々になっている。
その横でオーランドさんの吸っている銘柄の新品の箱が、花瓶の水を吸って黒く湿っていた。
「…なんだ?」
俺は何が起きたのかわからず、首を傾げる。
後ろからついてきたオーランドさんも、一人寂しく溺れていた煙草をただぼんやりと眺めるだけだった。
◇
一歩進む度に絡み付く雪の重さがまどろこしく感じ、靴を脱ぎ捨て素足になる。
普段は大好きな藁と獣の混ざり合った匂いでさえ、今は少しだけ不快に感じてしまっていた。
「ユータ、この村で一緒に暮らさないか。俺はお前を息子として迎え入れたい」
「俺は、ロビンの育て方を間違えた」
形振り構わず走る僕の頭の中で、盗み聞いたオーランドの言葉が何度もループする。
オーランドが、遂に僕を否定した。
ユータと僕を比べて、彼はユータの事を取ったのだ。
「どうして僕を選んでくれないの、オーランド」
息を上げた僕の口を突いた独り言は、虚しく夕焼けに溶けていく。
居場所を失った焦燥感に僕の足は縺れ、そのまま身体を雪の布団に投げ出してしまおうと思ったが、優秀な鉄の義足は神経中枢から直接流れた情報を元に、転びかけた僕の身体を正確に支えてしまった。
僕はオーランドに支えられ、今を生きていた。
「…クソッ!クソッ、クソッ!」
声に乗せて頑丈な義足を右手で何度も殴ると拳面は擦り切れて出血し、夕日を浴びた無傷の義足が血液を浴びて更に赤く汚れる。
世界から孤立していた僕を唯一撫でてくれたオーランドを失い、僕が頼れるものはもう一つだけだった。
「…ホープ!」
僕は彼の名前を声に出し、脱力した心に鞭を打つ。
今すぐに彼を撫で、その愛を返してもらわなければどうにかなってしまいそうだ。
明確に打算的な考えを持って動物に触れようとする自分の醜さなど、ギリギリの所まで狭まった僕の視界には映りようもなかった。
「あああああ」
どうしようもなく漏れ出す声を地面に垂れ流しながら走り、遂に畜舎に飛び込むと、馬房は全て開け放たれ
雪がこれだけ積もっているというのにオーランドが放牧するとは考え辛かったが、推理を巡らせる余裕も無く、僕はすぐに放牧地の方に方向転換してまた走った。
馬の足跡は確かに錠の開いた柵の奥に続いている。
手がかりを見つけ更に加速すると、急激な負荷に熱を発した義足が雪を溶かし、地面まで到達した瞬間乾いた金属音が鳴り、小石を踏めば火花が散った。
僕という存在が、急激に人間から離れていく。
ぼんやりと抱いたそんな感覚を仕方ないと割り切りながら、放牧地の更に奥まで駆け抜けると、動物たちの群れがやっと姿を現した。
「モオオオ」
今までに聞いたことのないホープの野太い叫びが響き渡る。
異常を感じさせたのは集合していた馬たちも同様で、彼らは狂ったように嘶きながら、前足を高く高く持ち上げて筋張った体を大地に見せつけており、普段僕に見せている温厚さがまるで嘘の様だ。
「みんなどうしちゃったんだよ…?」
一度呆然としてしまった僕は、慎重に歩いて馬群の側までたどり着く。
僕の存在に気が付いたのか、急に大人しくなった馬の間を通っていくと、血塗れのホープが黒く濡れた雪の上でぐったりとしていた。
少しの間立ち尽くしてただそこにある悲惨を凝視することしかできなかった僕は、側に立っていた木に積もった雪が、落下してぶつかる音にやっと我に返ると、慌ててホープに駆け寄り小さい耳に向かって騒ぎ立てる。
「ああ…ホープ、しっかりして!」
先ほどの叫びは断末魔だったのだろうか、ホープの体を揺すっても何の反応も返ってこない。
彼の大きな体には、馬の蹄の痕がびっしりと刻まれ、僕が来るまでの間にどれだけ過酷な仕打ちを受けていたのか、想像するだけで刃で刺したような頭痛に見舞われた。
「結局、特異な存在は受け入れられないのです。一見優しい世界に見えたとしても、陰では弱者の命が散り続けている」
澄んだ声の方を見ると、いつから居たのか、僕の背後でアイディーが祈るように両手を重ねている。
いや、何故ここに彼女がいるのかなど、今の僕にはどうでも良い事だ。
救いを求めて叫んだホープに何もしてやれなかった自分の無力さに打ちひしがれ、もう僕の脳は何もかもを放棄してしまっていた。
「可哀想に…痛かったよね…辛かったよね…」
僕がそう呟きながらホープの亡骸にもう一度優しく触れるとそこに命の感触は無く、あるのは事実の冷たさだけだ。
それでも、僕は声をかけ続け、きっと無駄な時間を過ごした。
そうやって失くしたものを悔やみながら涙を流す度に、僕という器の中にどす黒い奔流が生まれ、僕の中に残っていた人間らしさという些末なものを押し流していくのが分かる。
「貴方が今すべきことは、分かりますか」
アイディーにそう問われたのをきっかけに、抽象的だった僕の中の意思が悪魔の瞳という形を取り、鉄の義足は赤黒い光を纏って怪しく輝いた。
「何もかもを壊して、生物の根幹から修正する。この世から差別という概念を完全に排除してやる」
僕は決意と共に両足を振り回し、何かを感じて逃げ出そうとしていた馬の心臓を的確に貫く。
鮮血を寒空に向かって噴き出した馬はその場に倒れ込み、それに躓いた馬をまた同じ要領で殺した。
「僕の希望を奪っておいて、逃がすわけが無いだろう?」
あれだけ愛を注いで育ててきた毛並みの良い馬たちの命を自らの手で天に帰しても、僕の心に痛みは一切及ばない。
ただ、噴水のように散っていく赤の中で、舞うように戦う自分の強さに愉悦を感じ、それでもなお飢える胸の奥に棲み付いた怪物に餌を与えるように、繰り返し命を奪った。
「最ッ高の喜劇だな」
少し離れた場所でアイディーが何か呟いたような気がしたが、全てを見通す赤い眼から脳に叩き込まれる夥しい数の情報に気を取られ、僕の耳はそれを聞き取ることができなかった。
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