第31話 原動力

 昨日の大雪の名残が屋根に重くのし掛かり、家屋の側を歩くと水滴が頭上から落下してくる。

 それでも地面に積もっていた雪は邪魔にならない場所に搔き寄せられており、凍っている所で滑らないよう気を付ける程度で歩くことにそこまでの不便はない。

 道の中心に存在する四方から高く積み上げられた白い雪の山は、この村で暮らす人々の逞しさの象徴だ。


 オーランドさんの墓参りに付き合った俺とリリィは、その足でリープ村に立ち寄っていた。

 ここに訪れた当日とは全く違う景色だったが、自然の力により白く染まったこの瞬間を切り取れば、それがリープ村の代表的な光景なのだろう。


「この村の食い物は最高だぞ。ロビンの作る飯も負けてないがな」


 霊園で怒鳴りつけていた姿が嘘だったかのようにオーランドさんが白い歯を見せる。

 彼のブーツが固い地面を蹴る様はどこか軽やかで、全身から機嫌の良さが窺えた。


 少し歩くと、煉瓦造りの上品さを感じる店の前でオーランドさんが足を止める。

 取り付けられた木の扉を押した彼の背中について行くと、中は落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。


「いらっしゃい」


 店主だろうか、髭を蓄えた高齢の男性がカウンターの中から挨拶をして迎え入れてくれる。

 木製のテーブルと椅子が数卓用意されており、適当な席に座るとテーブルの立派な木目が俺の方を覗いていた。


「ずいぶんお洒落な店ね」


「そうだろうそうだろう」


 感心したリリィが店内を見回し感心していると、オーランドさんが自慢気に頷いた。

 様子を見るに、どうやらこの風情のある店は彼の行きつけのようだ。

 

 早速コートからライターを取り出して煙草に火をつけたオーランドさんは、目を閉じて煙を吐き出すと、急に大人な顔をして遠くを見る。


「…憑き物が取れた気分だ。俺はロビンを育てることで過去と決別した気になっていたが、実のところは目を逸らしているだけで長い間同じ場所で立ち止まっていた。お前たちと出会えたのは幸運だった」


 そう言ったオーランドさんのダークな肌に刻まれた大きな傷跡が煙草の煙に隠れて消えていく。

 冗談が好きな彼が白煙と共に吐き出した感謝の言葉に、彼に誠実に向き合おうと努めた俺の心は報われたが、同時に記憶を塗り替え、今も自分の中に住む魔物から逃げ続けている自らの弱さに更に嫌気が差す。


「俺は、感謝されるような人間じゃないです」


 俺が返事をすると、オーランドさんの言葉に水を差したのが気に喰わなかったのか、リリィに肘で脇腹を小突かれる。


「そんな辛気臭い顔をされるより、素直に甘えられた方がきっとオーランドさんも嬉しいわ」


 窘められた俺が困ってオーランドさんの方を見ると、彼はリリィの言葉に同意するかのようにへらりと口元を歪めながら今度は煙を細長く吐く。

 銀色の灰皿の縁に煙草を軽くぶつけて灰を落とした彼は、空いた口で俺に問いかけた。


「なあ、お前が何に苦しんでいるのか、俺に話してみないか?」


「…多分、オーランドさんには分かってもらえません」


「どんな恥ずかしい話が出てきても馬鹿になんてしないから安心しろ。突飛な話だって全部信じてやる」


 真正面から向けられた言葉がなんとも心地よく、心を閉ざした錠前が溶けていくのが分かる。

 オーランドさんの度々見せる包容力は、俺の中の親という存在に対する理想と強く重なった。

 ガルダさんを心の底から恨んでいた彼を、ガルダさんと似た対象として頼ってしまっている自分が居た。


「…突拍子もない話だと思います。あまり真に受けずに聞いてください」


 俺が俯いてお願いすると、オーランドさんはわざとらしく音を立てて煙を吐き捨てる。

 きっと彼は俺の言葉に同意しているわけではなく、無駄な前置きだと判断し無視しているのだ。


 その様子を見た俺は、全てを信用される前提で自分の話をするというあまりない状況に少し戸惑いながら、彼の吐き出した煙を少しだけ吸って覚悟を決めた。


「転移者の力は、意思を持っています」


「意思…ロビンの力もそうなのか?」


「おそらく。何故なのかは分からないですが、力の意思は宿主の精神を侵食し、乗っ取った身体で人間を殺すことを望んでいる」


 俺は極力冷静に、第三者的に説明するよう意識はしていた。

 しかし、自分の意思とは関係なく心が濁っていく恐怖は視界から外すには余りにも巨大であり、その冷たさに当てられた肩は自然と怯え始める。


「人として当然に存在する境界線が曖昧になり、きっと俺も最終的には人を殺すことに躊躇がなくなる。俺は力に飲まれた人間と何度も戦ったから、最終的にはみんな同じようになるとなんとなく分かってしまうんです」


 今ならばステナの心に何が起きたのか、彼女に説明を求めずとも理解できる。

 根源の意思は負の感情を元に作られた存在であり、それが自分の中でみるみる膨れ上がり、存在感を増していく。


 きっと今も口先では殺しを嫌がっていても深層心理では力を解放し、楽になってしまいたいと考えているのだ。

 この品のある木製のテーブルも、暖色のライトも、瘦せた老店主も、横に座る彼女でさえも。


 全てを青黒く燃やし尽くし、周囲の存在が塵となって消える。

 悪魔の高笑いが鼓膜に突き刺さったかと思えば、笑っているのは俺だった。


「やめて」


 声と共に肩を揺すられ、ハッとする。

 また悪夢へと旅立っていた俺の意識は、不安そうな表情をしたリリィに引き戻された。


 ここではないどこかに思考を持っていかれたのはたった数秒間だが、俺の腹の中に何かが潜み、息づいている事をオーランドさんは察したようで、繕うことなく深刻そうに一筋の汗を垂らしていた。


「ロビンも組手や戦闘中にまるで獣のように冷静さを失うことがある。単に性格や経験値の無さからくるものかと思っていたがあれは…」


「…わかりません。けれど、否定はできない」


 俺がずるい答え方をすると、最悪の事態を想像したオーランドさんが息を呑む。

 恩人である彼を安心させてやれるような嘘を吐いて、俺だけが楽になるわけにはいかない。


 一瞬の沈黙の後、オーランドさんは吸殻を灰皿の中に捨てるとなんとか笑って見せた。


「ホープには感謝しなきゃいけないな」


「確かに昨日の組手の時は凄かったわね。ユータもロビンも一度に救ったヒーローだったわ」


 リリィが納得して頷くと、オーランドさんは首を横に振る。


「それだけじゃない。きっとあいつはロビンの心の支えになっているんだ」


 そう言ったオーランドさんは少し寂しそうな表情を浮かべている。

 理解が進まない俺とリリィが何も言えず困っているのに気が付いた彼は、丁度運ばれてきた珈琲に口を付け、息を吐いてからもう一度口を開く。


「小さい頃、ロビンは村で虐められるたびに畜舎に籠っていた。俺だけがロビンの事を理解してやればいいと思っていた俺は、慰めるだけで周りに掛け合うようなことはしなかった。俺自身もガルダ・ベイリーを強く憎んでいたからな、村人たちの差別感情を否定することを心のどこかで避けていたんだ」


 オーランドさんは窓の外を眺めている。

 外景の色を映した彼の瞳を見ると、開示した行いに罪悪感を抱いていることが伝わり、こちらも目を逸らしたくなってしまう。


「きっと孤独を感じていただろう。唯一の味方であるはずの俺の中にも似たような形をした感情が渦巻いているんだからな」


「そんなこと…!」


 俺はとっさにオーランドさんの言葉を否定しようとしたが、彼が涙を一筋だけ流したように見えて口を噤んだ。

 それが気のせいだったのか、確信は得られなかったが、彼の心から滲み出る後悔の念に胸を締め付けられ、口を挟むべきではないと感情を押し留める。


「それでもな、乳牛のくせに馬の群れにすぐに馴染んで、幸せを謳歌しているホープがロビンの希望で居続けてくれた。あの光景はきっと、ロビンにとっての理想であり、希望なんだ」


 オーランドさんの言葉を聞いた俺は、牧場でロビンがホープに向けていた笑顔を思い出した。

 境遇の重なるホープの存在はきっとロビンにとっての原動力であり、あの尊い命たちの間にある繋がりを守るために、真摯に世話に取り組んでいるのだと納得する。


「希望…」


「お待たせ、パンケーキ三つだ」


 俺が呟くと同時に、老店主がお盆にパンケーキを乗せてやってきた。

 テーブルの上に並んだ焼きたてのパンケーキの上には生クリームがふんだんに乗っており、見ているだけでも口の中が甘ったるくなる。


「…美味しそう!」


「マスターの腕は本物だ。伊達に長生きしてねえ」


 目を輝かせたリリィを見てオーランドさんが組んだ太い腕の下で胸を張った。


 待ちきれないといった様子でフォークとナイフを手にしたリリィは、パンケーキを頬張り満足そうに唸り、それを見た俺は自分の前に鎮座した砂糖の塊に視線を移す。


 俺の原動力は何だっただろう。

 これから、何を目的にこの世界を生きていけばいいのだろう。


 俺は雪のように柔らかい生クリームと共に少しだけ焼き痕の付いた生地を切り分けながら、あの偽りの記憶の他に何かないかと頭の中を隅々まで探したが、それらしいものはどこにも見つからなかった。



 ◇



 墓石の前でガキ共の背中を見送った俺は手袋越しに雪を強く握り、感情が落ち着くまで数回呼吸する。


 そうしてある程度冷静さを取り戻してから、嫁の墓の前で空を見上げた。


「俺が許すことを、許してくれるか」


 勿論、答えは返ってこない。

 それでも良かった。


 やっと立ち上がって前を向いた俺の尻を、彼女に強く叩かれたような、そんな気がしたからだ。


「こんなところに居たのかよ。風邪引くぞおっさん。あと、腹減った」


 女の声が清々しい気分に水を差す。

 頭に血を上らせながら声の先を見ると、真っ白な雪の上に赤い髪が堂々と靡いている。


 俺は大切なこの場所を誰にも教えるつもりはなかったが、この女は村中虱潰しに走り回り、結果ここに辿り着いてしまったのだ。


「…このじゃじゃ馬が!腕が定着するまで安静にしてろと何回言わせるつもりだ!」


「俺にそんな暇はねえんだよ。どんだけ暴れても痛くも痒くもねえから安心しろ」


 俺が怒鳴りつけても、女は飄々と肩を回している。

 たっぱもケツも態度もデカい、俺の医者人生史上、間違いなく最悪の患者だった。


「手前の心配してるんじゃねえ、義手の方の心配してんだゴリラ女!」

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