第29話 暴走牧場

 閉まり切っていない蛇口栓を捻ると、少し間をおいてから唸った蛇口が勢い良く冷水を吐き出す。

 その水は石製の洗面台に落ち動きを止めた瞬間、きわから凍結し始め薄ら白く色を付けた。


「…寒いって言っても限度があるだろ」


 ここまで顔を洗うことを億劫に感じたことがあっただろうか。

 俺は目の前の光景に辟易してぼやき、仕方なく両手に水を掬って自らの顔に叩き付ける。

 水に触れた皮膚が悲鳴を上げ強張っていくことから必死に目を背けた俺が同じ動作を数回繰り返し蛇口を閉めると、きっと鳥肌の立っていた俺の背中に声が掛けられた。


「あ、水はほんの少しだけ出したままにしておいて下さい。凍って動かなくなってしまうので」


 タオルで顔を拭いている俺の横から手を伸ばし蛇口を緩めたのは俺より先に起きて既に支度を終えたロビンだった。


 彼は持っていたパンを一枚俺に渡すと、自分の分を小さい口に咥えてパクパクと食べ進める。

 決して行儀の良くない立ち食いの腹ごしらえに付き合うと、これから作業が始まるのだという実感が湧き俺の眠気は綺麗に吹き飛んだ。


 食べ終えた俺がロビンについて丸太小屋の外に出ると、リリィが畜舎の前で待っていた。


「起きれたのね。てっきり逃げ出すかと思ったわ」


「…あんな物騒な傷を付けた奴に恩を返せと言われたら逃げたくても逃げられねえよ」


 俺がリリィの軽口に返事をすると、それを聞いたロビンがクスリと笑った。


「確かに。オーランドは人相が悪いもんね」


 そう言ったロビンは冗談を楽しんでいるような笑い方だったが、俺にそんなつもりは全くない。


 しかし、考えてみれば見ず知らずの俺たちを庇うような男だ。

 きっとオーランドさんの強面から性格を想像することはあまり意味の無い行動なのだろうと思い直した俺は、ロビンの信頼を表す笑顔に負けて少しだけ笑みを返した。


「…で、私たちは何をすればいいの?」


 リリィに問われたロビンはすぐには答えず畜舎の扉を開き中に入っていく。

 俺たちが背中を追って建物の中に入ると、ずらりと並んだ馬房の中に入った馬たちが各々落ち着いた鳴き声を発して主張していた。


 俺が初めて間近で見る馬の姿に怯えていると、それを察したロビンが口を開いた。


「餌が貰えると思って喜んでるんだ。ここの馬はみんな優しいから怖がらなくて平気だよ」


 ロビンが馬房から首を出した馬の顔を撫でると、撫でられた馬は顔を更に彼に向かって近付ける。

 やっと馬を直視しその優しい目を見た俺は、彼らに敵意が無いことを理解して胸を撫で下ろした。


「じゃあ、乾草を餌入れの中に運んで貰おうかな」


 俺たちはロビンが指差した方に積まれた乾草を馬房ごとに置かれている餌入れに入れていく。


「上手くいかないな…おっとごめん」


「ブルルル…」


 乾草を餌入れに放り込むと馬の首が伸びてきて黙々と食べ始めるため、一度に入れないと馬の鼻に追加の干し草が当たってしまい申し訳ない気持ちになる。

 それを避けるために一度に入れようとすると今度は零してしまい、床に落ちた草を食べる馬の姿にまた申し訳なさを感じた。


 それでもどの馬も俺を煙たがるような素振りは一切見せず、唇で服を引っ張って甘えてくれる馬さえいる。

 彼らに触れ、固い皮の向こう側に受け入れられる度に心が温かく癒された。


 ロビンはというと俺たちが慣れない手つきで作業をしている間に馬の体調確認をしながら水入れの中身をてきぱきと替え、俺たちの餌やりが終わるのと同時に作業を済ませてしまっている。

 やはり初心者との実力差は歴然であり、彼の両手は輝いて見えてしまう。


「なんか乾草って美味しくなさそうよね。私はてっきり人参をあげるのかと思っていたわ」


「あげることもあるけど、冬は寒いからね。消化によって発生する熱で体温を上げるためにも乾草は食べさせないとダメなんだ。馬たちは体温が上がった状態で外に出て、そこでまた牧草を食べる」


「こいつら一生食べてるのね。羨ましいなあ」


 食事中の馬を眺めるリリィの疑問にロビンが答えると、それを聞いた彼女の口から羨望のため息が漏れた。

 草を食べているだけで幸せを感じられるとは、コスパの良い人生である。


「この村の牧草は特別強いから雪が降っても枯れないけれど、歩けなくなるほど雪が積もれば放牧できなくなっちゃうからね。今のうちに沢山運動して、沢山食べて、健康でいてもらわないと」


 ロビンは慈愛の目で馬房を見渡している。

 彼にとって家畜たちが特別な存在だということが伝わり、俺は馬たちが優しく育っている理由をなんとなく理解した。


「さて、そろそろ馬房を開けようか。ちょっと入口で待っていてくれるかな。馬房の掃除はオーランドが教えてくれるから」


 片目を瞑って伸びをしたロビンの言葉に従い俺とリリィは畜舎の外に出た。

 少しすると馬房から出た馬がぞろぞろと並んで畜舎の出入り口を通り、雪の溶け切った緑色の牧場に向かって歩いていく。


「モオ」


 最後の一頭が俺たちの目の前で足を止め、こちらを一瞥して一声鳴いた。

 馬の隊列にあまりにも馴染んだそれはゆったりと歩いて馬の尻について行き、一緒に牧草を食べ始めている。


「牛柄の馬なんているのね」


「いや、あれはどう見ても牛だろ」


 目を丸くしているリリィに思わず突っ込んでしまったが、確かに勘違いしてしまいそうになるほど馬たちの生活に溶け込んでいる。

 リリィか俺のどちらかは乾草を配ったはずだが、慣れない作業に集中していたこともあり乳牛が居たことに気付くことすらできなかった。


「いや、意外と豚…はたまた山羊かもしれん」


 背後からいい加減な発言が聞こえ俺たちが振り向くと、オーランドさんが真顔で腕を組んでいる。

 俺たちが呆れて黙っていると彼は何かを求める様に俺を見たため、ため息をついてから仕方なく言葉を返した。


「適当な事言ってないで掃除しましょう。掃除」



 ◇



「ふう、やっと終わった~」


 汗ばんだ額を拭き、敷き直した藁に倒れ込みながらリリィが嘆く。


 馬房の掃除の方法をオーランドさんから教わった俺たちは、時間を掛けつつもなんとか掃除を一段落させることができた。

 当然俺にも少しの疲労感はあったが、動物たちのために黙々と掃除をすることによって様々な負の感情を忘れることができ、心が少し軽くなったような気がした。


 一息つこうと思った俺が畜舎の外に出て設置されたベンチの上に座ると、俺の胸元に向かって瓶詰めの牛乳が飛んでくる。

 少し冷えたそれを落とさず受け取った俺の横に、煙草を咥えたオーランドさんが座った。


「ご苦労さん。どうだ、初めての牧場は」


「いい場所だと思います。何より大切にされているのが分かる」


 蓋を開けた瓶に口を付けると濃厚な味わいが広がり、つい牧場に立つ牛の方を見てしまう。

 牛が自慢気に笑ったように見え目を擦ると、勿論そんな事は無かった。


「ホープはまだ子牛だった頃、牧場の経営を止めることになった知り合いから引き取ったんだ。馬しか育てていなかった俺は断ろうと思ったんだが、ロビンが可哀そうだと言ってごねてな」


 ホープと名前まで付けられた乳牛はロビンに撫でられ満足そうに目を細めながら鳴いている。

 不思議な環境で育ったホープの事が気になった俺は、目を閉じて煙を吐いたオーランドさんに尋ねる事にした。


「馬と一緒でも大丈夫なんですか?喧嘩とかしそうなもんですけど」


「うちの馬たちは優しく育ってくれたからな、すぐに仲間として受け入れていたよ。もうホープは自分の事を馬だと思っているかもしれない。…ロビンもあれくらい安心してくれていいんだがな」


 そう言ったオーランドさんの声色に変化を感じた俺は彼の表情を窺ったが、傷を負って開かない左目のせいで横顔からでは上手く感情を読み取れない。


 俺が何を言えばいいか躊躇していると、オーランドさんは切り替える様に煙草を踏み潰して今まで通りの笑顔を作った。


「よし、掃除が終わったなら今度はロビンの相手をしてくれ」


「ロビンのですか?」


 言葉の意味が分からず俺が首を傾げると、オーランドさんは更に楽しそうに白い歯を見せ付けた。


「お前、相当鍛えてるだろ。期待してるぞ」



 ◇



「極力寸止めするようにはして欲しいが…まあ俺が止めるか満足するまで好きにやってくれ。死なないように加減はしろよ」


 向かい合う俺とロビンにオーランドさんが簡単な説明をすると、口をへの字に結んだロビンが柔軟運動しながら息を吐きまた気合を入れる。


 オーランドさんの頼みを聞き入れロビンの組手相手を務めることになった俺は、羽織っていたコートを脱ぎ寒さを受け入れた。


「ちょっと、大丈夫なの?暫くは大人しくしておいた方が良いんじゃない?」


 酒場で無防備に殴られた俺の様子に違和感を感じていたのだろう、心配したリリィが声を掛けてくる。

 しかし、オーランドさんの頼みを極力断りたくなかった俺は、炎を使おうとさえしなければ問題は起こらないと踏み彼女の言葉を聞き流した。


 一歩前に出た俺がいつでも来いと顎を上げて伝えると、ロビンは体勢を低く落として構える。


「…いくよ!」


 ロビンは宣言と共に大きく前に踏み込んだ。

 見たことのない奇妙な構えから一気に飛び跳ねたかと思うと上段からの蹴りが俺を襲う。

 少し面食らったが、すぐに体を捻ってそれを躱した俺は軸足をそのままに右回転し裏拳を寸止めした。


「まずは一本だ」


「僕の蹴りを初見で…!?」


 驚きを見せたロビンはすぐさま距離を取り直す。


 戦士の国で育った彼は、幼い顔をしていながらも戦いのための技術をしっかり教え込まれているようだ。

 大胆な動きは既に洗練されており彼に素晴らしい素質があるのは確かだったが、努力と経験ならば俺も負けてはいない。

 突飛な動きや奇襲への対処はステナとの戦闘で体に染みついており、脳で考えずとも筋肉が勝手に動いた。


「若者には負けん!」


「クッ…!歳なんてほとんど変わらないくせに!」


 今度は俺から距離を詰めると、密着を拒否するための足払いが飛んでくる。

 その予備動作が見えていた俺は足払いに対して足払いを重ねながらロビンの腕を掴み、彼の体を地面に引き倒した。


「ほう…」


 ここまでの組手の一部始終を見たオーランドさんがにやにやと笑みを浮かべながら呟く。

 声に釣られて狭まっていた視野が少し広がった俺は戦う度にあの悪夢を見るわけではないのだと分かり、安堵と共に集中を解く。


 その刹那、地に伏せていたはずのロビンの体が独楽のように素早く回転し、そこから伸びてきた脚が俺の首を捉えていた。


「なッ…!」


 ロビンの独特で素早い動きそのものに対して驚いたわけではない。

 表情や仕草に出さなかったはずの俺の心の隙を完璧に捉え切った彼の洞察力と、俺の首にギリギリまで近づいた彼の冷たい脚への違和感が、俺の口から驚愕の声を引きずり出していた。


「油断したね、ユータ」


 ロビンの薄水色の瞳は緑色の光を放ちながら、俺を見透かしている。

 その光には見覚えがあり、俺の抱いた違和感の半分はすぐに理解することができた。


「転移者か…!オーランドさん、魔法は反則じゃないのか!?」


 不満の込もった俺の声を聞いたオーランドさんは、へらへらと両手を広げる。


「言ったろ、好きにやれって」


 俺が審判の介入を諦め視線を戻すとすぐに風を切ったロビンの脚が俺の顔目掛けて振るわれる。

 むきになっているのか寸止めをする気は微塵も感じられず、踵下ろしを躱すと金属音を響かせながら地面が抉られた。


「鉄板でも入れてんのかよ…!」


 人間離れした威力を見てつい愚痴が零れる。

 

 ロビンは理性を失ったかのように直撃する勢いの打撃を繰り返しており、一撃でも喰らえば意識を保っていられる自信がない。

 とはいえ攻撃に転じようとすると予備動作に対して的確に蹴りが飛んでくるため自然と防戦一方になり、窮屈な展開にストレスが溜まっていた。


 そして、集中力の限界は唐突に訪れる。

 大振りの横蹴りを仰け反って回避した拍子に足を滑らせた俺は、尻餅をついてしまった。


「獲った…!」


 機と見たロビンがすぐに追い打ちを狙い地面を蹴る。

 これ以上何の手立ても無かった俺は降参し、オーランドさんの制止を要求するために声を上げようとした。


 しかし、目を閉じた俺の顎を何かがそろりと撫でた。


「こんな雑魚に見下されていいわけがないだろう?なあ、優太」


 その思い出したくもない気味の悪い声が鼓膜に届くと、俺の身体に電撃のように黒い衝動が走り、魔力を煮え滾らせる。


 体の操縦が効かず固まった俺の肩に手を添えていたのは、根源の意思だった。


「ロビン、逃げろ…!」


 危険を察知した俺は乗っ取られかけている神経に必死に抵抗し声を上げたが、掠れた声は暴走したロビンの耳には届かない。

 人の形を模した根源の意思の姿はやはり俺にしか見えていないのか、周囲の誰も違和感を抱かずに時が進んでいく。


「そろそろ素直になれよ、人殺し」


 根源の意思にそう囁かれると、ロビンを骨まで溶かした俺が悪魔のように高笑いしている最悪の光景が俺の頭の中に鮮明に浮かび上がる。

 呼吸を荒げた俺の周囲には黒く染まった魔素が集合し、翼の姿に歪み始めた。


「「………ッ!」」


 ようやく異変を感じたオーランドさんたちの表情に一気に焦りが浮かんだが、彼らが行動を起こすまでの時間的余裕はない。

 もう俺の魔力は溢れる寸前のところまで登ってきてしまっていた。


「クソ、クソオオオ!」


 やっと動き始めた喉から俺の叫びが漏れ出したその時、鉄が弾けるような音と共にロビンの体が俺の視界から消え失せた。

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