第19話 決別

「「着きました!」」


 俺とリリィはミロとキロに案内され、魔法学校の試験会場にやってきた。

 会場を見渡すと、二十名程の参加者が集まっている。


「思ったよりも人数が少ないな」


「入学試験は毎日行われていますから」


 俺が抱いた素直な感想には、キロがすかさず答えてくれた。

 会場を囲うように配置された背もたれのないベンチには、俺と似た様な年齢であろう青年から十個は年上に見える女性まで、様々な年齢の魔法使いが緊張した面持ちで待機している。

 身内を含めてどいつもこいつもローブを身に纏っているせいで、軽装の俺だけが浮いてしまっているのが小恥ずかしい。


「試験を受けるのは無料ただじゃないですが、手持ちは大丈夫ですか?」


 そう言ったミロの視線の方向に目をやると、受験者が学校の職員に金貨を一枚渡しているのが見える。

 受験者の女性が平気な顔で金を払っていることに、違和感を覚えた。


「問題は無いが、流石に受験料が高過ぎないか?」


「繰り返し受験されないようにする狙いもあるのでしょう。でも、入学した時点で人生の勝組が確定ですから悪くない投資です!」


 ミロはそう言うが、見ている限り合格者は一人も現れない。

 獣伐区の成人女性が十日間文字通り命懸けで働いて稼げる額を二分程度で回収できるのだから、学校が毎日試験を開くわけである。

 ただ、何の躊躇いもなく金貨が払われているのを見るに、壁の外とは平均的な収入に差がありそうだ。


「では、私たちは扉の中で待ってます!」


「ちゃんと受かってくださいね!」


 俺たちに手を振ったミロとキロが職員に近寄って挨拶をすると、すぐに合格者のみに与えられる学生証を手渡される。

 それを首に掛けてから、広場から学校の入口を繋ぐ階段を小走りで上った彼女たちは、職員が一々開閉する仰々しい鍵の付いた半透明の大きな扉を通して、試験の様子を見下ろしている。

 どうやら、学校に招待されているという二人の話は嘘ではなかったらしく、二人の幼女は呆気なくリリィの先輩になってしまった。


 会場で行われている試験の内容はシンプルで、二メートル程の高さの石壁に向かって魔法を撃つだけの、言わば的当てである。

 自由に魔法を五回撃って、五つ全ての壁を破壊すれば合格、ということだ。


「…クソがッ!」


 また一人、大金をふいにして唾を吐いた。

 それでも現状、二枚壊した今の男が最高記録。

 どの魔法使いも、ものを言わない壁を狙うという、感情を込め辛いシチュエーションに苦しんでいるようだった。


「中々割れないわね。根性が足りないのよ根性が」


「…どいつもこいつも出力に意識を持っていかれ過ぎだ。狙いがアバウトすぎる」


 リリィは根性論を唱えたが、落ち着いて注視すれば壁の厚さが場所によって違うことが分かる。

 威力不足への不安に気を取られてしまい、冷静に周りが見えていないのだ。

 

 平穏な壁の中というぬるま湯に浸かって生きてきた受験者たちの、実戦経験の未熟さによる分析力と胆力の乏しさが、シンプルなテストによって露わにされていた。

 敷かれたレールの上で勉強漬けにされてきた学生が、社会に出ようとした途端個性を求められる元の世界と同じような、教育の噛み合いの悪さを感じる。


「私は別に、力を意識するのが悪い事だとは思わないけど」


 指先に小さな炎を作り出して暇を潰していた俺の横で、そう言ったリリィが杖を持って立ち上がる。

 遂に俺たちの順番が回ってきたらしい。


 リリィは暇を持て余した他の受験者の視線を一身に浴びても、自信満々に腰に手を当てて、強気な笑みを浮かべていた。


 彼女が構えた杖が魔力に反応して僅かに輝き出すと、岩石が空中に形成されていく。

 初めは小さかったそれがゆっくりと、確実に膨張していく姿に、今から何が起ころうとしているのか、その場にいた全員がなんとなく理解させられた。


「全力を込めるなら、これぐらいやれって話よ!」


 杖を振り下ろしたリリィの叫びに同調するように、杖の先端に取り付けられた魔石からは目が眩む程強い光が放たれ、それを合図に落下した岩は、三枚の壁を纏めて粉砕してしまった。

 遠巻きに見ていた他の受験者たちは、今までの最高記録が塗り替えられるだけでなく、残った二枚の壁もあっさりと破壊される様を見せられ、全員呆然として立ち尽くしていた。


「す、凄すぎます!」


「て、天才です!」


 ミロとキロはリリィの暴力的な魔法を見てはしゃいでいる。

 なるほど、明確な実力差に驚いて動けなくなってしまった観衆と比べ、彼女たちは肝が据わっているようだ。


 横では職員がせっせと試験会場を復元し始めていたが、その中身を見ると、何より粉々になった岩の掃除が大変そうで、申し訳ない気持ちになる。


「どう考えてもやり過ぎだ」


「いいじゃない。ルールを違反しているわけでもなし」


 俺がリリィを窘めていると、今までは椅子の上でふんぞり返っていた試験官が、汗を額に浮かべながら駆け寄ってきた。


「ご、合格だ。本校と国への忠誠を誓うのであれば、結界門の通過を許可する」


「何を偉そうに。もう私は誰にも媚びないわ」


 職員の言い振りに対する不満を隠そうともしないリリィは、差し出された学生証を奪い取ると、片目を閉じたまま、俺が投げた鞄を受け取った。


 高くまで繋がる階段をゆっくりと上りきると、半透明の魔法の扉を通過したリリィは、ミロとキロに飛び付かれて大事な杖を落としてしまっている。

 あの二人のような、温かい存在が彼女の側にいてくれさえすれば、もう何も心配は無い。




 ◇




「次!お前だ!」


 試験官に呼ばれた優太が、回復した壁の前方へと移動する。

 彼が腕を上げて構えると、強者の匂いに周囲の注目が吸い寄せられていき、その場は独特な緊張感に包まれた。


 石の壁を壊す程度、転移者の特殊な力を武器とする優太にとっては造作もないことであり、彼の魔法に対する周囲の反応を心待ちにしていたリリィの口元は、緩みきって少し間抜けだ。


 そのまま長い静寂が訪れる。

 そして、何度か浅い呼吸を繰り返す内に、誰もが長過ぎる静寂に違和感を覚えた。


「おい、お前!早く撃たないか!」


 依然動きのない優太を、試験官が激しく急かす。

 その声が聞こえてから数秒後、遠くを見ていた彼は意を決したようにゆっくりと一度だけ瞬きをし、口を開いた。


「調子が悪いな。出ねえや、魔法」


「………え?」


 リリィの喉から呟きが漏れる。

 何が起こっているのか、混乱し状況が理解できなくなってしまった彼女は、その場で石像のように固まっていた。


「魔法が出せないだと!?何故そんな無能が壁の中に居るんだ!早くこいつをつまみ出せ!」


 試験官が声を荒げて指示を飛ばすと、すぐに二人の職員が優太を左右から囲んだ。

 窮地に立たされた彼は平然としている。

 高い階段の上に偉そうに鎮座する半透明の扉の向こうで、混乱して目を見開いたまま動かないリリィたちに、助けを求める様子はない。


 その光景を見て、ぼんやりと霞みがかっていたリリィの脳が、遂に結論にたどり着いた。


「嘘よ!彼は私よりも強い魔法を使えるわ!ユータは嘘を吐いているの!」


 急に狂ったように叫び出したリリィを見て、怯えたミロとキロの肌の上を冷たいものが流れた。

 大好きな子供を脅かすなど、リリィらしくない行為だったが、今の彼女には周りの目を気にしている余裕などない。


「待って、行かないで!私はこんなところに居たいわけじゃない!ユータの側に居たいの!」


 リリィの腹の底から発された悲痛な叫びは、確かに試験会場まで届いている。

 しかし、どれだけ彼女が声を上げても、優太だけは扉の奥に視線を向けてはくれなかった。


「開けて、扉を開けてよ!」


 結界門と呼ばれた半透明の魔法の扉には鍵がかかっているのか、その内側に居るリリィがどれだけ力を入れても開かない。

 素手で抉じ開けることを諦めた彼女は、壁に立て掛けていた杖を急いで掴むと、固く閉ざされた扉をありったけの魔法で殴り付けた。

 

 しかし、硝子の様な見た目に反して頑丈な扉はびくともしない。

 壁と魔法が衝突する度に鳴り響いていた凄まじい音は、時間が経つに連れ音と音との間隔が開いていき、そして遂に静まった。


「私を捨てないで…」


 とうとう警備員に連れられた優太の背中が見えなくなった。

 縋るように伸ばした手を宙に彷徨わせたリリィは、周囲の目など気にする事無く、幼い子供の様に泣きじゃくっている。


 崩れ落ちたリリィに駆け寄ったミロとキロが何か声を掛けていたが、頭の中が五歳児の扱うパレットの様に混濁してしまっていた彼女には、もう何も理解することはできなかった。




 ◇




 約束の時間を迎え、境界街の中にポツンと立った時計台の鐘が鳴る。

 

「来ねえな」


 ジェシカはそう呟くと、ベンチに腰掛けたまま後ろまで首を上げ、逆様の時計を眺めた。

 秒針が一周し、長針が少し動く。

 それが暫く繰り返されるのを眺め、周囲を何度か見渡し、また時計を眺める。


 少しすると、曇り空から雨が降ってきた。

 街からは人の姿が消えていったが、ジェシカはベンチから動かず、身体が冷たくなっていくのも、そのせいで止まらなくなった体の震えも、全て受け入れていた。


 空の色が深く落ち込んできた頃、ようやくジェシカは重い腰を上げた。

 彼女は首に下げたペンダントトップを握ると、一度は力を入れ千切り取るような素振りを見せたが、思い止まって拳を解く。


「…クソッ」


 ジェシカが自らの様々な弱さに苛立ち水溜まりを踏み付けると、跳ね上がった雫は彼女の足を冷やかした。




 ◇




「ハァ、ハァ…クッ」


 俺は口の中や喉に残る気色の悪さを洗い流すために、嘔吐きの止まらない身体に向かって勢い良く水を浴びせていた。

 生きたミミズを飲み込むようなあの感触は、何度味わっても虫唾が走ってしまう。


 荒れた呼吸を何とか整えようとして、鏡に映っている惨めな姿を晒した男と目を合わせる俺の背中に、耳馴染みのある声が触れた。


「バルカン様、気持ちが悪いのであれば我慢なさらないで下さい。私がすぐに片付けます」


「黙ってろ、クソ奴隷」


 そう言った俺が強く睨みつけると、奴隷は異なる色を浮かべた奇怪な両の瞳を黙って閉じた。

 普段から強く当たり続けても尚、俺に対して歩み寄ろうとするこいつの態度は極めて不快だ。

 

 際限なく積み重なる苛立ちを暴力で解消してしまおうと思った俺は、濡れた足音を立てて無防備な奴隷に迫った。


「…うっ!」


 しかし、奴隷に手を上げようとした瞬間、俺の身体は強烈な吐き気に襲われ、逆流した胃液が抵抗虚しく床を汚した。


 大量に飲み込んだ誰のものかも分からない心臓が、腹の中で暴れている。

 どれが自分の鼓動なのか判別ができなくなってしまう程に、多重の心音は俺の足りない脳を強く揺らした。


 意思を越えて漏れ出した涙に視界が歪み、そしてホワイトアウトする。

 何もかもが分からなくなってしまいそうになったその時、俺の背中をさする手が、本物の心臓がある場所を的確に撫でた。


「あなたは此処にいます」


 手に触れられた場所だけが、自分の身体なのだと、自分の細胞なのだと理解できる。

 そこから波紋の様に安心感が広がっていき、徐々に四肢の制御が戻ってきた。

 

 この世界に来る前から俺の心を蝕んでいた孤独感が、一時だけどこかへ消え失せ、仄かに目の奥に熱を感じる。


 数秒経ち、鼻の奥を刺す胃液の匂いに目を覚ました俺は、自分が安心しきった表情を曝け出していたことに、やっと気付くことができた。


「…ッ離れろ!奴隷の匂いが移るだろうが!」


 突然俺に突き飛ばされた奴隷は、痛みや悲しみといった当然の感情を放棄して、優しく表情を緩めている。

 こいつにはどれだけ強い言葉を吐いても、思ったような反応が返ってこない。


「へらへらしやがって気持ちわりィ。クソ奴隷、会議までに掃除しておけ」


「はい」


 湿った床を蹴るように歩く俺とは対照的に、命令された奴隷は幸福感を巻き散らしながら返事をした。




 ◇




 時間より少し早く会議室に辿り着き、用意されていた円卓に音を立てて座った俺は、警備に当たる構成員をサングラス越しに睨んだ。

 食われるとでも思ったのか、小さい悲鳴を上げた男は自らの職務を放棄して部屋の外へと逃げていく。


「…あんなのが居た所で使い物になるのかァ?」


 俺はテーブルを蹴り、独り言を呟く。

 すると、背後から求めていない返事が返ってきた。


「使い物にならないのはお前も一緒だろ?半端野郎。やんちゃなのはいいですが、テーブルを壊さないで下さいね」


「半端はどっちだ、アイディー。気持ちわりい喋り方で話しかけてくるんじゃねえ」


 背後に現れた金髪の女、アイディーは清楚さの象徴のような紺色のシスター服を纏っているが、一転耳には巨大なピアスが開いている。

 

 あべこべなのはその身なりだけではなく、口を開く度に表情も口調も別人のように豹変する中身も同じ。

 所謂、多重人格者だ。


「負け犬がよく吠えるって話は本当らしいな?その辺に転がってる転移者のガキにボコられて逃げ帰ってきたバルカン君。お体の具合はよろしいのですか?」


「…クソが」


 舌に開いたピアスを見せつけられながら好き勝手に煽られるのも気に食わないが、直後に丁寧な口調で心配をされるのが更に癪に障る。

 同じ人間とは思えないような豹変っぷりに、風邪を引いてしまいそうだと、文句をぶつけてやりたくなってしまう。

 

 しかし、どれだけ言い合いを続けても、失態を犯した人間に勝ち目がないことを理解していた俺は、一言だけ床に吐き捨てて敗北を受け入れた。


「こいつ、何も言えなくなってるよ!負け犬どころか、牙が抜けて子猫ちゃんか!?」


「唾を飛ばすな小娘」


 スイッチが入ったアイディーの激しい罵声を、やけに落ち着いた声が上書きする。

 革靴の音に目をやると、貴族だと一目で分かるような、華麗な装飾に彩られた赤いコートを着た男が、アイディーの背後から現れた。


「お、怒るなよ。雑魚の躾をしてただけさ。…ごきげんよう、グレイド」


「私が怒る?勘違いをするな。貴様の振る舞いを正しただけだ」


 強制的に冷静になったアイディーは淑やかに挨拶すると、大人しく椅子に座った。

 グレイドの声には周りを見下したような威圧感があり、その上から冷徹な印象を付け足すのは、腰に下げた細身の刀と、黒い髪の隙間から覗く赤い瞳だ。


「あの化け物はまたサボりかよ?」


「いつも通りどこかでフラついてんだろ。三人しか集まらねえのに、わざわざ会議をする意味はあんのか?」


 アイディーの問いに適当に答えた俺は、肩を竦めて見せる。

 しかし、実のところ、この会議が開かれた理由は俺が一番分かっていた。


「間違いなくあるだろう…今回に限ってはな。賢者様の崇高な目的を支えるための幹部に、無能が居ることは許されない」


 グレイドは俺の惚けた態度を冷静に断じると、凍り付くような鋭い目付きで俺を見据え、それに伴い室内の緊張感が一気に張り詰めたのを感じる。


「バルカン様は無能などではない!発言を撤回しろ!」


 意見に対して俺が口を挟む間もなく、背後に立っていた奴隷が即座に抗議した。

 気の大きい俺ですら返事を躊躇う程の厳しい空気だったが、奴隷はそれを憚ることなく切り裂いてしまっている。


 その様子が気に食わなかったのか、アイディーが机を叩いて否定の意を示す。


「負け猫の飼い犬は黙ってな!…未だに心臓をいくつか飲み込んだ程度で拒否反応を起こすような弱者を、いつまでも幹部の座に置いておくわけにはいかないのです!」


「何より、愛されし者の幹部が有象無象に敗北するなど、言語道断。そうは思わないか?バルカン」


 状況は至って不利。

 幹部の中でも賢者を心から崇拝している二人に、明確な失態を知られたのだから、当然の展開だ。

 このままでは、金払いのいい仕事から降ろされるだけではなく、俺の心臓も全て彼らの弾にされてしまう。

 

 とはいえ、正直に言えばこの集団自体への執着は薄れ始めていた。

 いつか賢者からの褒美で不老不死になり、幸せな生活を無限に繰り返すという望みがあったが、最近ではこの誰もが描くような理想にも魅力を感じなくなってきている。


 思えば、この世界に来てから約二十年も一匹狼だったのだ。

 大勢で群れるのは向いていなかったということなのかもしれない。


「…有象無象ねえ。あのガキの炎は手前の炎より幾分巧く動いてたぜ。グレイド」


 俺らしい姿を思い浮かべた瞬間、煽り言葉が油の上を滑るように喉から溢れ出す。

 それが引き金となり、グレイドの座った席から細く枝分かれした、氷柱の様に硬い殺気が俺に襲い掛かってきた。

 今度こそは無様に飲み込まれないよう、俺は口を横に開き、不細工な笑みを浮かべて応戦する。


 こうなってしまえば、この場から俺だけでも逃げ切れるよう、どうにかして機を生み出すしかない。

 永遠の命はもう要らないが、ここで鼻の伸びた鉄仮面に殺されるのは真平御免だ。


 「喰らっとけクソが!」


 先手必勝。

 ずれたサングラスをかけ直した俺は重力を操作し、会議室の天井の一部を破壊した。


 狙い通りグレイドの脳天を目掛けて瓦礫が降り注いだが、彼は居合切りからの流れで数回素早く刀を振り、コンクリートの塊すらも斬り刻んでしまう。

 砂埃の奥で何事もなかったかのように美しく立つ影の手元に、抜き身となった刀が怪しく光っていた。


「弱過ぎる貴様は確かに罪人だ、バルカン。しかし、更に劣った分際で我々に楯突いた貴様の犬は、最も罪深い」


 面倒な言い回しをしたグレイドは刀を振った風圧で周囲の埃を払うと、一直線に奴隷に向かって駆け出した。

 

 俺にしては幸運だ。

 奴が奴隷を手にかけている隙に、間にある天井を破壊してしまえば、逃げ切ることができるかもしれない。


 そう思い口元を緩ませた俺が斜め後方を見ると、奴隷は自らの役割を受け入れたかのように、瞼を閉じて安らかに微笑んでいた。

 

 その時、俺の身体を動かす歯車が狂い出す、耳障りな音がした。


「…血迷ったか、バルカン!」


「おいおいおい、いったい何をやってんだ俺は…!」


 赤い瞳を見開くグレイドの腕から伸びた、刃毀一つない美しい刀は、見事に俺の肺を貫いた。

 いや、実際は俺がわざわざ貫かれに行ったのだ。


 馬鹿なことに、理性が下した指示を無視した体が、勝手に動いてしまっていた。


「バルカン様、どうしてッ…!」


「黙って失せろ!シャッツ!」


 俺は薄汚い奴隷、シャッツが発した意味のない質問を叫んで制す。

 名付けて以来呼ぶことのなかった彼の名前が口から洩れる程に、俺は自らの死を間近に感じ、必死になっていた。


 火事場の馬鹿力で刀身を握り締める俺を鬱陶しく感じたのか、遂にグレイドの周囲には黒い魔素が集まり始める。

 そしてじわじわと形を変えたそれは、熱を放っていた。


「貴様程度の存在に力を使うとは、何たる屈辱か」


「があああ!」


 グレイドが歪んだ顔で不満を吐き捨てると、俺の体を邪悪な紫色の炎が焼いた。


 しかし、先の彼の言葉通り、力を使うことが本意では無いのだろう。

 炎は大した燃え方をせずすぐに収まり、スライムの様に溶けた俺の体がみるみるうちに再生する。


「温いぜグレイドォ!あのガキの青い炎の方が数倍熱かったぜ?高慢ちきなだけで、大したことねえなァ!」


「その言葉、地獄で後悔させてやる…!」


 怒りに震えたグレイドの赤いコートが、汚れた魔素で更に黒く染まっていく。

 まだまだ余力を残す彼の攻撃は、暫く止みそうになかった。


 俺の背後で涙を堪えるシャッツに、ここから逃げ出そうという気配は一切ない。

 無意味な忠誠心だけが、俺の知らないところでいつの間にか大きく育ってしまっていたようだ。


「地獄にまで付き纏うなよ」


 罰を受けるのは俺だけでいい。

 シャッツと向こうで再会しない事だけを祈り言い残した俺は、サングラスに隠れて目を瞑った。

 

 しかしその瞬間、大蛇に睨まれた様な恐怖が俺の背筋を撫でる。

 閉じたはずの瞳は、体を駆け巡る電流によって無理やりに抉じ開けられた。


「猛犬ちゃん、さっきの話、私にも聞かせてくれないかしら」


「「「………!」」」


 俺を囲んだ全員が、突如現れた異質な気配に思わず息を飲む。

 一方的に場を支配する女の正体には、会議室の全員が気付いていた。

 此処まで圧倒的な力を持つ人間は、賢者の他に一人しか存在しない。

 

 毒をはらんだ花のように咲く紫色の髪が、周囲で硬直する矮小な存在を嗤い、ゆらりと揺れていた。


 蚊帳の外で遠巻きに見ていたアイディーは、両手で神に身の安全を祈りながら、恐る恐る現れた女の名を呼ぶ。


「ステナ…!貴方が此処に来るなんて、今日は雨でも降るのでしょうか?」


 珍しく会議に姿を見せたステナに、アイディーは震える声でそう言った。


 残念ながら、アイディーが冗談として選んだ、雨がどうのこうのなどという話は的外れ。

 何故なら、この女は嵐そのものだからだ。

 

 船の上に居る俺たちは、既に大雨と暴風に襲われており、運が悪ければ死ぬ。

 今の状況を例えるなら、そんなところだろう。


「随分な言われようね。私が来るのがそんなにご不満?」


「そ、そんなわけ無いじゃないですか!」


 命の危機だと理解させられ、アイディーの裏人格ですらも敬語を使っている。


 それも当然、この会議室のルールは、この女になったのだ。


 それでも、一番間抜けな顔をしていたのは俺だったかも知れない。

 ここがこの大陸で一番危険な場所だと全神経が警報を鳴らし、体の至る所から、粘度の高いじっとりとした汗が噴き出していた。


 ステナの毒牙が標的としていたのは、間違いなく俺だった。


「猛犬ちゃんに話を聞きたいの。あなた達は外してくれる?」


「そんな、この雑魚は殺させて下さいよ!…大きな失態を犯した上、ふざけた態度を取る愚か者を許しては置けません!」


 アイディーの二つの人格が器用に入れ替わりながら、ステナの我儘になんとか食い下がろうとする。

 しかしその刹那、そこからは離れた場所にいたはずのステナが、抗議するアイディーの背後を取って、両手を広げていた。


 空間ごと支配されてしまっているせいで、誰も彼女の動きを目で追い切ることができていない。

 全員が、とぐろの中に閉じ込められていた。


「何もって言ってるわけじゃないのよ?子猫ちゃん」


 変化のないトーンの声に死の恐怖をはらませたステナは、細い指でアイディーの頬を撫でた。

 赤黒いネイルが顔の上でゆっくりと線を描くと、心が完全に圧し折れたのか、アイディーは長いスカートを巻き込んで、その場にへたり込んでしまった。


 そのやり取りを見ていたグレイドは、諦めたように鼻から少量の息を吐く。

 彼は俺の身体から刀を引き抜き、刃に乗った血液を振り落とすと、輝きを鞘へと収めた。


「二度と私の前にその姿を見せるな。拾った命を捨てたくなければな」


 いつもの調子に戻りそう言ったグレイドは、徐に会議室を後にした。

 革靴の音が聞こえて我に返ったアイディーも、表情だけで俺を煽ってから、逃げるように消えていく。


 そうして、部屋には三人だけが残った。

 いや、一人と二匹の方が正確かもしれない。


「猛犬ちゃん。あなた、青い炎を使う転移者を見たのね?」


 命運を分けるであろう問いに、再度汗が浮かぶ。

 上手く切り抜けたいところではあったが、どう答えるのが正解なのかが分からなかった俺は、ありのままを言ってステナの判断を祈るしかなかった。


「…ああ、そうだ。壁から南に少し離れた町のバーで、ユータとかいうガキを見た」


「ユータがそんなに近くに来ているのね!この前教えたでしょ?一番のお気に入りなの。早く約束のデートに行かなきゃいけないわ!」


 ステナは相当嬉しかったのか、体をくねらせながら少し早口になっている。

 その姿を見てようやく、俺の中で張り詰めていた緊張感が、ほんの少しだけ緩んでくれた。

 

「そりゃ良かったな。悪いが、これ以上知ってる事は無い。俺たちも消えさせて貰うぜ」

 

 動けるうちに動かなければならない。

 そう思った俺がステナの気に障らないよう挨拶をしてから扉の方へと歩き出すと、少し遅れてシャッツが後ろを追いかけてくる。

 

 早足になってしまいそうになる足をどうにか抑え、自分の中の感情の匂いを誤魔化しながら、ステナの横を通りすがろうとした、その時だった。


「そういえば、あなた達はユータをなのかしら?」


 俺たちはステナの冷めた声に、肩をがっちりと掴まれた。


 嫌な所に目を付けられた。

 俺はこの化け物のお気に入りを、手に掛けようとしたのだ。


 絶対に表情に出してはならない。

 絶対に相手の表情を見てはいけない。

 

 頭の中で何度も己にそう言い聞かせながら、声が上擦らないよう必死に声帯をコントロールして、俺は聞き返す。


「…どういう意味だ?」


「分からないの?何でバーに居ただけのあなたが、ユータの炎の威力を知ってるのかを聞いてるの」


「俺が店員に絡んでいたら、あの気色の悪い炎で割って入られたんだ。それを見て、お前の話を思い出したからすぐに手を引いた。…何か問題でもあるかよ?」


 一世一代の大噓だ。

 早く返事を聞いて楽になりたかったが、時が止まっているようにすら感じ、息が詰まって仕方がない。

 

 そんな俺の苦しみなど露知らず、ステナは少しの間思案する素振りをして、俺を限界まで苦しめてからやっと微笑んだ。


「そう、それならいいの!猛犬ちゃんも、いつか惚気話を聞いて頂戴ね?」


 ステナの言葉に安堵のため息を吐きかけた俺は、それをどうにか引き留めて飲み込む。

 最大の危機を乗り越えたのだから、下らない失敗で命を失うわけにはいかない。


 そうして返事をせず数歩歩き、遂に俺が部屋の扉に触れる。

 

 遂にこの監獄から脱出できると安堵したその時、ステナの甘ったるい声が至近距離で俺の耳を撫でた。


「機嫌が良いから一度の嘘は見逃してあげる。またどこかで会いましょう」


「「………ッ!」」


 見透かされた俺とシャッツは咄嗟に振り返ったが、ステナの姿はもうどこにも無い。

 残されていたのは、ボロボロになった会議室と、二人分の鳥肌だけだった。


 完全に上位の生命体だと理解させられ暫く啞然としていた俺は、ふとアイディーが崩れ落ちた場所に出来上がった水溜まりを見つけてしまった。

 

 自分よりも怯えていた人間がいる証拠が残っていたお陰で、やっと気を持ち直すことができた俺は、最後に冗談を言った。


「…危うく俺も漏らしかけたぜ」


「大丈夫です。私がすぐに片付けて、着替えもお手伝いいたします」


 つまらない冗談を重ねたシャッツの頬を抓りながら、俺は部屋を後にした。

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