第19話 決別

「「着きました!」」


 俺とリリィはミロとキロに案内され、魔法学校の試験会場にやってきた。

 会場を見渡すと、二十名程の参加者が集まっている。


「思ったよりも人数が少ないな」


「入学試験は毎日行われていますから」


 俺が抱いた感想には、キロがすかさず答えてくれた。

 俺と似た様な年齢であろう青年から十個は年上に見える女性まで、様々な年齢の魔法使いが緊張した面持ちで待機している。

 どいつもこいつもローブを身に纏っているせいで、軽装の俺だけ少し浮いてしまっているのが小恥ずかしい。


「試験を受けるのは無料ただじゃないですが、手持ちは大丈夫ですか?」


 そう言ったミロの視線の方向に目をやると、確かに受験者が職員に金貨を一枚渡しているのが見える。


「問題は無いが、流石に受験料が高過ぎないか?」


「繰り返し受験されないようにする狙いもあるのでしょう。でも、入学した時点で人生の勝組が確定ですから悪くない投資です!」


 ミロはそう言うが、見ている限り合格者は一人も現れない。

 獣伐区の成人女性が十日間文字通り命懸けで働いて稼げる額を二分程度で回収できるのだから、学校が毎日試験を開くわけである。


「では、私たちは扉の中で待ってます!」


「ちゃんと受かってくださいね!」


 俺たちに手を振ったミロとキロは警備員に挨拶し、広場から学校の入口を繋ぐ階段を上ると、半透明の大きな扉を通り、そこから試験の様子を見下ろしている。

 学校に招待されているというのは嘘ではなかったらしく、二人の幼女は呆気なくリリィの先輩になってしまった。


 試験の内容はシンプルで、二メートル程の高さの石壁に向かって魔法を撃つだけの的当てである。

 魔法を五回撃って、五つ全ての壁を破壊すれば合格だ。


「…クソがッ!」


 また一人、大金をふいにして唾を吐いた。

 それでも現状、二枚壊した今の男が最高記録だ。

 どの魔法使いも動かない壁を狙うという、感情を込め辛いシチュエーションに苦しんでいるようだった。


「なかなか割れないわね。根性が足りないのよ根性が」


「…どいつもこいつも出力に意識を持っていかれ過ぎだ。狙いがアバウトすぎる」


 リリィは根性論を唱えたが、少し落ち着いて壁を見れば厚さが場所によって違うことが分かる。

 そもそも冷静に周りが見えていないのだ。

 

 簡単なテストによって、平穏な壁の中というぬるま湯に浸かって生きてきた受験者たちの、未熟さが露わになっていた。


「私は別に力を意識するのが悪い事だとは思わないけど」


 指先に小さな炎を作り出して暇を潰していた俺の横で、そう言ったリリィが杖を持って立ち上がる。

 遂に俺たちの順番が回ってきたらしい。


 リリィは他の受験者の視線を浴びながら、腰に手を当てて強気な笑みを浮かべていた。


 彼女が構えた杖が光ると岩石が空中に形成されていく。

 初めは小さかったそれがゆっくりと、確実に膨張していく姿に、今から何が起こるのかその場にいた全員がなんとなく理解させられた。


「全力を込めるなら、これぐらいやれって話よ!」


 リリィの叫びに応える様に杖が強く輝くと、落下した巨岩が五枚の壁を纏めて粉砕してしまった。

 その衝撃は凄まじく、遠巻きに見ていた受験者たちは全員呆然として立ち尽くしていた。


「す、凄すぎます!」


「て、天才です!」


 ミロとキロはリリィの暴力的な魔法を見てはしゃいでいる。

 なるほど、驚いて動けなくなってしまった観衆と比べて肝が据わっているようだ。


 横では職員がせっせと試験会場を復元し始めていたが、何より粉々になった岩の掃除が大変そうだ。


「どう考えてもやり過ぎだ」


「いいじゃない。ルールを違反しているわけでもなし」


 俺がリリィを窘めていると、ふんぞり返っていた試験官が汗を流しながら駆け寄ってきた。


「ご、合格だ。本校と国への忠誠を誓うのであれば、結界門の通過を許可する」


「何を偉そうに。もう私は誰にも媚びないわ」


 リリィは不満を隠さず口に出し、片目を開けて俺が投げた鞄を受け取った。


 高い階段を上ると、半透明の魔法の扉を通過したリリィはミロとキロに飛び付かれて杖を落としてしまっている。

 あの二人のような優しい存在が彼女の側にいてくれさえすれば、もう何も心配は無い。



 ◇



「次!お前だ!」


 試験官に呼ばれた優太が壁の前方に移動する。

 彼が腕を上げて構えると、強者の匂いに周囲の注目が吸い寄せられていく。


 壁を壊す程度の事など、優太にとっては造作もないことであり、それを見た周囲の反応が楽しみで仕方がなかったリリィの口元は緩んでいた。


 そのまま長い静寂が訪れる。

 そして、注視していた誰もが長過ぎる静寂に違和感を覚えた。


「おい、お前!早く撃たないか!」


 動きのない優太を試験官が激しく急かす。

 その声が聞こえてから数秒後、遠くを見ていた彼は意を決したようにゆっくりと瞬きし、口を開いた。


「魔法が出せません」


「………え?」


 リリィの喉から呟きが漏れる。

 何が起こっているのか、混乱し状況が理解できなくなってしまった彼女は、その場で石のように固まっていた。


「魔法が出せないだと!?何故そんな奴が壁の中に居るんだ!早くこいつをつまみ出せ!」


 試験官が声を荒げて指示を飛ばすと、二人の警備員が優太を左右から囲んだ。

 彼は何故か平然としている。

 半透明の扉の向こうで立ち尽くす三人に助けを求める様子すらない。


 その光景を見て、ぼんやりとしていたリリィの脳が遂に結論にたどり着いた。


「嘘よ!彼は私よりも強い魔法を使えるわ!ユータは嘘をついているの!」


 急に狂ったように叫び出したリリィを見て、怯えたミロとキロの身体の上を冷たいものが流れた。

 しかし、リリィには周りの目を気にしている余裕はない。


「待って、行かないで!こんなところに居たいわけじゃない!ユータの側に居たいの!」


 リリィの悲痛な叫びは確かに試験会場まで届いている。

 しかし、どれだけ彼女が声を上げても、優太だけは声の元に視線を向けてはくれなかった。


「開けて!扉を開けてよ!」


 結界門と呼ばれた半透明の魔法の扉は、鍵がかかっているのかリリィがどれだけ力を入れても開かない。


 素手で抉じ開けることを諦めた彼女は壁に立て掛けていた杖を急いで掴むと、固く閉ざされた扉をありったけの魔法で殴り付けた。

 しかし、頑丈な扉はびくともしない。

 壁と魔法が衝突する度に鳴り響いていた凄まじい音は、時間が経つに連れ音と音との間隔が開き、そしてついに静まった。


「私を捨てないで…」


 とうとう警備員に連れられた優太の背中が見えなくなった。

 縋るように伸ばした手を宙に彷徨わせたリリィは、周囲の目など気にする事無く、幼い子供の様に泣きじゃくっている。


 崩れ落ちたリリィに駆け寄ったミロとキロが何か声を掛けていたが、頭の中が五歳児の扱うパレットの様に混濁した彼女には、もう何も理解することはできなかった。



 ◇



 約束の時間を迎え、境界街の中にポツンと立った時計台の鐘が鳴る。

 

「来ねえな」


 ジェシカはそう呟くと、ベンチから首を上げ逆様の時計を眺めた。

 秒針が一周し、長針が少し動く。

 それが暫く繰り返されるのを眺め、周囲を何度か見渡し、また時計を眺める。


 少しすると、曇り空から雨が降ってきた。

 それでもジェシカはベンチから動かず、身体が冷たくなっていくのも、それに伴って止まらなくなった体の震えも全て受け入れていた。


 空の色が深く落ち込んできた頃、ようやくジェシカは重い腰を上げた。

 彼女は首に下げたペンダントトップを握ると、一度は力を入れ千切り取るような素振りを見せたが、思い止まり拳を解く。


「…クソッ」


 ジェシカが自らの様々な弱さに苛立ち水溜まりを踏み付けると、跳ね上がった雫は彼女の足を冷やかした。



 ◇



「ハァ、ハァ…クッ」


 俺は口の中や喉に残る気色の悪さを洗い流すために、えずきの止まらない身体に向かって勢い良く水を浴びせていた。

 生きたミミズを飲み込むようなあの感触は、何度味わっても虫唾が走ってしまう。


 荒れた呼吸を何とか整えようとした俺は、鏡に映っている惨めな姿を晒した男と目を合わせると、その背中に耳馴染みのある声が触れた。


「バルカン様、気持ちが悪いのであれば我慢なさらないで下さい。私がすぐに片付けます」


「黙ってろ、クソ奴隷」


 俺が強く睨みつけると、奴隷は異なる色を浮かべた奇怪な両の瞳を黙って閉じた。

 普段から強く当たり続けても尚、俺に対して近付こうとするこいつの態度は極めて不快だ。

 俺は際限なく積み重なる苛立ちを暴力で解消しようと、目を閉じた奴隷に濡れた足音を立てて迫った。


「…うっ!」


 しかし、奴隷に手を上げようとした瞬間、俺の身体は強烈な吐き気に襲われ、逆流した胃液が抵抗虚しく床を汚した。


 大量に飲み込んだ誰のものかも分からない心臓が腹の中で暴れている。

 どれが自分の鼓動なのか判別ができなくなってしまう程に、多重の心音は脳を強く揺らした。


 意思を越えて漏れ出した涙に視界が歪み、そしてホワイトアウトする。

 何もかもわからなくなってしまいそうになったその時、背中をさする手が俺の本物の心臓を撫でた。


「あなたはここにいます」


 手に触れられた場所だけが自分の身体なのだと理解できる。

 そこから波紋の様に感覚が広がっていき、徐々に四肢の制御が戻ってきた。

 

 この世界に来る前から俺の心を蝕んでいた孤独感が、一時だけどこかに消え失せ、仄かに目の奥に熱を感じる。


 数秒経ち、鼻の奥を刺す胃液の匂いに目を覚ました俺は、自分が安心しきった表情を曝け出していたことにやっと気付くことができた。


「…ッ離れろ!奴隷の匂いが移るだろうが!」


 突然俺に突き飛ばされた奴隷は、痛みや悲しみといった当然の感情を放棄して、安心したように表情を緩めている。

 こいつにはどれだけ強い言葉を吐いても、思った反応が返ってこない。


「へらへらしやがって気持ちわりィ。クソ奴隷、会議までに掃除しておけ」


「はい」


 湿った床を蹴るように歩く俺とは対照的に、命令された奴隷が幸せを巻き散らしながら返事を返した。



 ◇



 時間より少し早く会議室に辿り着き円卓に音を立てて座った俺は、警備に当たっていた構成員をサングラス越しに睨んだ。

 食われるとでも思ったのか、小さい悲鳴を上げた男は職務を放棄して部屋の外へ逃げていく。


「…あんなのが居た所で使い物になるのかァ?」


 俺は苛立ちを乗せてテーブルを蹴り、独り言を呟く。

 すると、背後から求めていない返事が返ってきた。


「使い物にならないのはお前も一緒だろ?半端野郎。やんちゃなのはいいですが、テーブルを壊さないで下さいね」


「半端はどっちだアイディー。気持ちわりい喋り方で話しかけてくるんじゃねえ」


 背後に現れた金髪の女、アイディーは紺色のシスター服を纏っているが、一転耳には巨大なピアスが開いている。

 

 身なりだけではなく、口を開く度に表情も口調も別人のように豹変する中身も同等にあべこべな人間、所謂多重人格者だ。


「負け犬がよく吠えるって話は本当らしいな?その辺に転がってる転移者のガキにボコられて逃げ帰ってきたバルカン君。お体の具合はよろしいのですか?」


「……クソが」


 舌に開いたピアスを見せつけられながら好き勝手に煽られるのも気に食わないが、直後に丁寧な口調で心配をされるのが更に癪に障る。


 しかし、言い合いを続けても勝ち目がないことを理解した俺は、文句を床に吐き捨てて敗北を受け入れた。


「こいつ、何も言えなくなってるよ!負け犬どころか、牙が抜けて子猫ちゃんか!?」


「唾を飛ばすな小娘」


 アイディーの罵声を妙に落ち着いた声が上書きする。

 革靴の音に目をやると、貴族だと一目で分かるような装飾の多い赤いコートを着た男が、彼女の背後から現れた。


「お、怒るなよ。雑魚の躾をしてただけさ。ごきげんよう、グレイド」


「私が怒る?勘違いするな。貴様の振る舞いを正しただけだ」


 冷静にさせられたアイディーは淑やかに挨拶すると、大人しく椅子に座った。

 グレイドの声には周りを見下したような威圧感があり、腰に下げた細身の刀と黒い髪の隙間から覗く赤い目が冷徹な印象を振り撒いている。


「あの化け物はまたサボりかよ?」


「いつも通りどこかでフラついてんだろ。三人しか集まらねえのにわざわざ会議する意味はあんのか?」


 俺はアイディーの問いに適当に答えてから、文句を吐いて肩を竦めて見せる。

 しかし、実のところこの会議が開かれた理由は俺が一番分かっていた。


「今回に限ってはあるだろう。賢者様の崇高な目的を支えるための幹部に、無能が居ることは許されない」


 グレイドが冷静に断じると、凍り付くような鋭い瞳で俺を見据え、それに伴い室内の緊張感が一気に高まったのを感じる。


「バルカン様は無能などではない!発言を撤回しろ!」


 すると、俺が口を挟む間もなく背後に立っていた奴隷が強く抗議した。

 俺ですら返事を躊躇う程の冷たい空気だったが、それを憚ることなく切り裂いてしまっている。


 その様子が気に食わなかったのか、アイディーが机を叩いて音を鳴らす。


「負け猫の飼い犬は黙ってな!未だに心臓をいくつか飲み込んだ程度で拒否反応を起こすような弱者を、幹部に置いておくわけにはいかないのです!」


「有象無象に敗北するなど言語道断だ。そうは思わないか?バルカン」


 状況は至って不利だ。

 このままでは愛されし者の幹部の座から降ろされてしまう。

 中でも賢者を心から崇拝している二人に、明確な失態を知られたのだから当然の展開だ。

 

 とはいえ、俺のこの集団への執着も薄れ始めていた。

 いつか神に近付くであろう賢者の力で不老不死になり、幸せな生活を無限に繰り返すという望みがあったが、最近はこの誰もが描くような理想に魅力を感じなくなってきている。


 思えば、この世界に来てから約二十年も一匹狼だったのだ。

 やはり群れるのは向いていなかったということなのかもしれない。


「有象無象ねえ。あのガキの炎は手前の炎より幾分巧く動いてたぜ。グレイド」


 俺らしい姿を思い浮かべた瞬間、煽り言葉が油の上を滑るように喉から溢れ出す。

 それが引き金となり、グレイドの座った席から細く枝分かれした氷の様な硬い殺気が俺に襲い掛かってきた。

 今度は飲み込まれないよう、俺は口を横長に開き、強い笑みを浮かべて応戦する。


 こうなってしまえば俺だけは逃げ切れるようどうにかして機を生み出すしかない。

 永遠の命はもう要らないが、ここで鼻の伸びた鉄仮面に殺されるのは真平御免だ。


 「喰らっとけクソが!」


 先手必勝。

 俺は重力を操作し、グレイドの真上にある天井を破壊した。


 狙い通りグレイドの脳天を目掛けて瓦礫が降り注いだが、彼は居合切りから数回素早く刀を振り、大量の瓦礫を粉々に破壊してしまう。

 砂埃の奥で何事もなかったかのように美しく立つ影の手元に、抜き身となった刀が怪しく光っていた。


「弱過ぎる貴様は確かに罪人だ。しかし、更に劣った分際で我々に楯突いた貴様の犬は、最も罪深い」


 面倒な言い回しを見せたグレイドは刀で埃を払うと、一直線に奴隷に向かって駆け出した。

 

 俺にしては幸運だ。

 奴が奴隷を手にかけている隙に、間にある天井を破壊すれば砂埃に紛れて逃げ切れるかもしれない。


 そう思い口元を緩ませた俺が斜め後ろを見ると、奴隷は自分の役割を受け入れたかのように目を閉じて微笑んでいた。

 

 その時、俺の身体を動かす歯車が狂い始める音がした。


「…血迷ったか、バルカン!」


「オイオイオイ、いったい何をやってんだ俺は…!」


 グレイドの腕から伸びた美しい刀は、見事に俺の肺を貫いていた。

 いや、俺がわざわざ貫かれに行ったのだ。


 馬鹿なことに、理性が下した指示を無視した身体が勝手に動いてしまった。


「バルカン様!どうしてッ…!」


「黙って失せろ!シャッツ!」


 俺は薄汚い奴隷、シャッツが発した意味のない質問を叫んで制す。

 名付けて以来呼ぶことのなかった名前が口から洩れる程に、俺は死を間近に感じて必死になっていた。


 火事場の馬鹿力で刀身を握り締める俺を鬱陶しく感じたのか、遂にグレイドの周囲に黒い魔素が集まり始める。


「貴様程度の存在に力を使うとは、何たる屈辱か」


「があああ!」


 グレイドが歪んだ顔で不満を吐き捨てると、俺の身体を邪悪な紫色の炎が焼いた。


 しかし、先の言葉通り力を使うことが本意では無いのだろう。

 炎は大した燃え方をせずすぐに収まり、スライムの様に溶けた俺の体がみるみるうちに再生する。


「温いぜグレイドォ!あのガキの青い炎の方が数倍熱かったぜ!高慢ちきなだけで大したことねえなァ!」


「その言葉、地獄で後悔させてやる…!」


 怒りに震えたグレイドの身体が更に黒く染まっていく。

 俺の後ろで涙を堪えるシャッツに、ここから逃げ出そうという様子は一切見られない。

 意味のない忠誠心だけが、俺の知らないところで大きく育ってしまっていた。


「地獄にまで付き纏うなよ」


 俺がシャッツと向こうで再会しない事だけを祈り、サングラスに隠れて目を瞑ろうとしたその瞬間、蛇に睨まれた様な鋭い恐怖が俺の背筋に走り抜けた。


「猛犬ちゃん、さっきの話、私にも聞かせてくれないかしら」


「「「………!」」」


 俺を囲んだ全員が、突如現れた異質な気配に思わず息を飲んでいた。

 毒をはらんだ花のように咲く紫色の髪が、周囲で硬直する矮小な存在を嗤いゆらりと揺れている。


 蚊帳の外で遠巻きに見ていたアイディーは、両手で神に身の安全を祈りながら恐る恐る口を開く。


「ステナ…!貴方が来るなんて今日は雨でも降るのでしょうか?」


 雨がどうのこうのなど阿呆な話だ。

 この女の存在が嵐そのものなのだ。


 ここがこの大陸で一番危険な場所だと全神経が警報を鳴らし、俺の体の至る所から汗が噴き出していた。


「随分な言われようね。私が来るのがそんなにご不満?」


「そ、そんなわけ無いじゃないですか!」


 命の危機だと理解したのか、アイディーの裏人格ですら敬語を使っている。

 この部屋のルールは、この女になった。


「猛犬ちゃんに話を聞きたいの。あなた達は外してくれる?」


「そんな、この雑魚は殺させて下さいよ!大きな失態を犯した上ふざけた態度を取る愚か者を許しては置けません!」


 アイディーの二つの人格が器用に入れ替わり、ステナになんとか食い下がろうとする。

 刹那、離れた場所にいたはずのステナが、抗議するアイディーの背後を取って両手を広げていた。


 空間ごと丸吞みにされてしまっているせいで、誰も彼女の動きを目で追い切ることができていない。


「何もって言ってるわけじゃないのよ?子猫ちゃん」


 同じトーンの声に死の恐怖をはらませたステナは、細い指でアイディーの頬を撫でた。

 赤黒いネイルが顔の上でゆっくりと線を描くと、心が完全に圧し折れたのか、アイディーは長いスカートを巻き込んでその場にへたり込んでしまった。


 グレイドはそのやり取りを見ると、諦めたように少し鼻から息を吐く。

 彼は俺の身体から刀を引き抜き刃に乗った血液を振り落とし、輝きを鞘に収めた。


「二度と私の前に姿を見せるな。拾った命を捨てたくなければな」


 グレイドはいつもの調子に戻り俺に言い残すと、部屋を後にした。

 革靴の音に我に返ったアイディーも、表情だけで俺を煽ってから逃げるように消えていく。


 そうして部屋には三人だけが残った。

 いや、一人と二匹の方が正確なのかもしれない。


「猛犬ちゃん。あなた、青い炎を使う転移者を見たのね?」


 命運を分ける問いにじっとりと汗が浮かぶ。

 上手く切り抜けたいところではあったが、どう答えるのが正解なのかが分からなかった俺は、ありのまま答えてステナの判断を祈るしかなかった。


「あ、ああ、壁から南に少し離れた町のバーで、ユータとかいうガキを見た」


「ユータがそんなに近くに来ているのね!この前教えたでしょ?一番のお気に入りなの。早く約束のデートに行かなきゃいけないわ!」


 ステナは相当嬉しかったのか、体をくねらせながら少し早口になっている。

 その姿を見て、ようやく俺の中で張り詰めていた緊張感がほんの少しだけ緩んでくれた。

 

「そりゃ良かったな。悪いがこれ以上知ってる事は無い。俺たちも消えさせて貰うぜ」

 

 動けるうちに動かなければならない。

 そう思った俺はステナの気に障らないよう挨拶をして扉の方へ歩き出すと、少し遅れてシャッツが後ろを追いかけてくる。

 

 早足になってしまいそうになる足をどうにか抑え、自分の中の感情の匂いを搔き消しながら、ステナの横を通りすがろうとした、その時だった。


「そういえば、あなた達はユータをなのかしら?」


 俺たちはステナの冷めた声に、肩をがっちりと掴まれた。


 嫌な所に目を付けられた。

 俺はこの化け物のお気に入りを殺しかけてしまっている。


 絶対に表情に出してはならない。

 絶対に相手の表情を見てはいけない。

 

 頭の中で何度も自分に言い聞かせながら、俺は声が上擦らないよう必死に声帯をコントロールして聞き返した。


「…どういう意味だ?」


「分からないの?何でバーに居ただけのあなたが青い炎を見たのかを聞いてるの」


「俺が店員に絡んでいたら、あの気色の悪い炎で割って入られたんだ。それを見てお前の話を思い出したからすぐに手を引いた。何か問題でもあるかよ?」


 一世一代の大噓だ。

 早く返事を聞いて楽になりたかったが、時が止まっているようにすら感じ、息が詰まって仕方がない。

 

 そんな俺の苦しみなど露知らず、ステナは少しの間思案する素振りをして、俺を限界まで苦しめてからやっと微笑んだ。


「そう。それならいいの!いつか惚気話を聞いて頂戴ね?」


 ステナの言葉に安堵のため息を吐きかけ、それをどうにか引き留めて飲み込む。

 最大の危機を乗り越えたのだから、下らない失敗で命を失うわけにはいかない。


 そうして返事をせずそのまま数歩歩き、俺が部屋の扉に触れた刹那、ステナの甘ったるい声が耳を撫でた。


「機嫌が良いから一度の嘘は見逃してあげる。またどこかで会いましょう」


「「………ッ!」」


 鳥肌を立てた俺たちは即座に振り返ったが、ステナの姿はもうどこにも無い。


 完全に上位の生命体だと理解させられ暫く啞然とした俺は、アイディーが崩れ落ちていた床に出来上がった水溜まりを見つけてしまった。


「…危うく俺も漏らしかけたぜ」


「大丈夫です。私がすぐに片付けて、着替えもお手伝いいたします」


 俺は冗談につまらない冗談を重ねたシャッツの頬を抓った。

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