第18話 壁の中へ
道では夜をやり直そうとする人々が少しの賑わいを見せる中、俺はジェシカを負ぶって宿へと向かっていた。
視線を集めてしまうかと思ったが、町の空気と噛み合い酔っ払いを背負っているようにしか思われないのは都合が良い。
ただ、歩くだけの時間だ。
思考に自由が与えられたせいで、去り際のバルカンの言葉が頭の中を延々と渦巻く。
『その舐めたスタンスを捨てねえなら、周りの雑魚は殺されるぞ』
俺が殺しへの抵抗を捨て切れないことで、仲間の命を危険に晒してしまう。
碌でもない悪人からの説教だったが、それはきっと正論だ。
あのとき俺が殺せなかったバルカンが、いつか大切な人達を手にかけてしまうかもしれない。
そうなれば、俺は確実に後悔することになるだろう。
ただ、それを頭では分かった上で、バルカンを殺さずに済んだことを、今でも白髪の青年に感謝してしまっている程に、殺しという禁忌に対する抵抗は激しく、そのブレーキは理性の欠如した化け物たちの檻に踏み込んでいく上では、非常に重い足枷だ。
この厳しい世界では誰もが外している枷を未だに負い続けている俺には、仲間の命を気にかける事すら傲慢に思える。
どうしようもない情けなさに腹の奥を焼かれ、俺は無意識に唇を噛んでいた。
「面倒な喧嘩に巻き込んじまった。悪かったな」
自分の内側の方に集中していると、背中から声が降ってくる。
ようやく、気絶したジェシカが目を覚ましたのだ。
「良かった、目が覚めたか。自分で歩けるか?」
「絶対に無理だ。ちゃんと部屋まで運べ」
俺に容体を聞かれたジェシカは、そっぽを向きながら食い気味に命令した。
やはりまだ、瓶で殴られた頭が痛むのだろうか。
ジェシカを背負って歩くのは決して嫌ではなかったが、懸念していたこともある。
「別に構わないが…嫌じゃないのか?」
今までは転移者であることを伝えていなかったが、遂に俺は彼女の前で特異魔法を晒してしまった。
しかも、根源の意思を認識する以前よりも、更に自由に形を変えた炎は俺の怒りに反応し、誰もが恐怖する程に禍々しい姿を見せたのだ。
この大陸においての転移者への印象も含め、俺は気味悪がられて距離を置かれても仕方が無いと、腹を括っていた。
しかし、そんな予想に反して、俺の肩に掴まるジェシカの手に怯えた様子はない。
寧ろ、嫌われることを恐れて震えていたのは俺だった。
「…俺の身体は焼かなかった。ユータらしい、優しい魔法だ」
小さな声で言うと、ジェシカは更に強く俺の背中に抱き着いた。
優しいのは彼女だった。
夜風に冷えた心に移ってくるジェシカの体温を、尊く感じる。
受け取る熱に比例して、失うことが怖くなる。
リリィも、ジェシカも、薄氷の上に連れ出すには、あまりにも重い存在になってしまっていた。
「…ありがとう」
そうとだけ言った俺は、再度孤独を受け入れる決心を眉に集めると、帰り道の冷えた空気に向かって静かに息を吐く。
これまでにジェシカが与えてくれた、全てへの感謝を込めていた都合上、選ばれた感謝の言葉は至ってシンプルなものになってしまった。
◇
翌朝、俺たちは最後の三人での朝食を迎えた。
ジェシカは昨晩の怪我の影響を全く感じさせず、平然としている。
普通の人間なら即死してもおかしくない威力で殴られ、大きな傷が開いていたはずだが、それを痛がるような素振りは一切なく、食事の豪快さもいつも通りだ。
どうやら、戦闘中の動きだけではなく、回復力すらも獣並みらしい。
呆気なく食事を終えた俺たちはいつも通り腹ごなしもせず馬車へと乗り込み、そのまま数時間揺られると、昼を過ぎた頃には、中央を囲んだ壁を更に覆う、市街地の姿が見えてきた。
「やっと着いた!…とはいえ、まだ国の半分を移動しただけだけど。これで賢者が薬について何も知らなかったら、発狂ものね」
リリィは到着を喜んだかと思えば、これからの道のりを想像してげんなりしている。
感情のままに表情が転がる様は、見ていて楽しい。
街に視線を戻すと、そこには味気の無い石造りの四角い家が、所狭しと並んでいる。
言わば無個性の集合体であったが、遠くからそれを一望すれば、一周回って妙な迫力を感じてしまう。
「
「それならもっと美味しいご飯が食べれそうじゃない!」
リリィは真っ先に飯の事を考え、涎を垂らしながら言った。
お幸せな彼女と比べ、この街について説明するジェシカの顔は、どこか不満気だ。
「やっぱり、この街は嫌いか?」
「…この街は、壁に対する危険を事前に察知するために作られた、壁を守る壁だ。そんな場所に、生き方を知らないガキが放り出される。腐ってるぜ」
「…なるほどな」
分かりきったことを聞くと、蛆虫でも見るような目で壁の方を見ながらジェシカが答える。
確かにこの街が存在すれば、たとえ魔獣の大群が押し寄せたとしても、先に壁の外で騒ぎが起こるだろう。
この国の王は、壁の外の命を警報装置程度にしか見ていないのだということが分かる。
「…そんなことより、壁の中には入るのかよ?」
いつの間にか気を取り直していたジェシカは、俺の顔色を窺うように言った。
彼女は壁の中には入れない。
そのため、俺たちがルーライトの中央区へ向かうとなれば、ここでお別れなのだ。
つまり、俺から引き離すには打って付けのタイミングだ。
「…そうだな、情報集めも兼ねて入ろうかと思ってるよ」
「でもよ、それが終われば北に向かうんだろ?また俺を雇ってくれよ。文句はねえよな!」
俺たちの行き先を知っていたジェシカは、別れる流れになる前に、強引に話を進めてきた。
彼女の強引な性格を考えれば、俺と一緒にいる事がどれだけ危険か説明したところで、引き下がることはないだろう。
俺たちがジェシカとの旅を楽しんでいるのと同じように、きっと彼女も居心地の良さを感じてくれている。
その証明であるジェシカの提案を、この場で拒否することはできなかった。
「…ああ、頼むよ。三日後に壁の南側で落ち合うことにしよう。報酬は金貨一枚でいいか?」
「おう!この国を出るまでは俺に任せろ!」
俺は満面の笑みを浮かべたジェシカと果たされない約束を交わし、先払いで金貨を一枚渡した。
一方的に約束を破棄することへの、謝罪の気持ちを込めて。
街の入口に差し掛かり、馬車は徐々に減速する。
壁へと近付いていくに連れ、少しずつ沈んでいく気分からは、必死に目を逸らした。
◇
「じゃあな。三日後にここで。忘れるなよ!」
「ああ」
俺たちとジェシカは、検問所の手前にある時計台の前で別れた。
二人きりになった途端、リリィの表情は解れ、笑みが高頻度で零れるようになった気がする。
「…仲良くなったんじゃなかったのかよ?」
「それとこれとは別なの」
何が別なのか、全く分からない。
俺が頭の上にクエスチョンマークを浮かべているのを見ると、リリィは青い目を細めてクスリと笑った。
「あんたには一生分からなそうね」
悪戯に笑うリリィは、そう言って俺の手を掴む。
真っ白な細い腕に引かれるままに、俺は検問所へと向かった。
◇
進行方向を見ると、視界一面に広がる壁に、押し潰されてしまいそうな感覚になる。
それは誰も彼もを憂鬱にしそうなものだが、その場にいる誰も彼もが慣れてしまっているようで、嫌な顔をしているのは俺とリリィだけだ。
検問所には、目つきの悪い魔法使いが衛兵として数人構えており、その目の前で子供が二人、ぴょこぴょこと跳ねていた。
「通してください!ミロたちは招待されて来たんです!」
「通してください!キロたちは嘘吐いてません!」
「姉妹で揃って天才だなんて、最近の子供は面白い冗談を言うんだな。…さあ、さっさとママの所に戻りな」
大きなとんがり帽子を被った子供たちが駄々をこねているが、衛兵には全く相手にされない。
周囲に彼女たちの親らしい人物の姿は見えず、涙ぐんだ幼い魔法使いは更に小さく見える。
「何だあのちっこいのは…」
「ねえ、あの子たち困ってるわよ。助けてあげましょうよ」
平和な光景に俺が呆れていると、リリィが横から耳打ちしてきた。
完全に、リリィの子供好きが悪い方向に作用している。
無関係な問題にわざわざ関わりたくはないのだが、既に彼女の心は子供たちに奪われてしまっていた。
「…別にいいけど、どうするつもりだよ」
「私に任せなさい」
不安を表情の前面に出したが、自信満々のリリィはそれを気にも留めてくれない。
彼女は垂れ下がった俺の手から紹介状を奪い取ると、ずかずかと子供と衛兵の間に割って入ってしまった。
「おい、今度は小娘かよ。今日はいったい何なんだ」
「有象無象魔法使い共!さっさと私たちを通しなさい!」
もっともな文句をぼやく衛兵の胸に紹介状を押し付けたリリィは、偉そうに命令口調だ。
衛兵が渋々紹介状に目をやると、ものの数秒で国境に居た門番と同じ反応を見せる。
「こいつ、我楽多の娘じゃねえか…!」
あまりの衛兵の怖がり方に、ガルダさんの困った顔が脳裏に浮かぶ。
そしてリリィは彼らの怯えに畳みかけるように、胸を張れるだけ張って言い放った。
「早く、私たちと従者の二人を通しなさいって言ってるの!」
「「え、えぇー!!」」
突然現れた女に従者呼ばわりされたとんがり帽子たちが、驚きをバネにして飛び上がっている。
リリィも善意で下手な芝居を打っているのだから、もう少し足並みを揃えて欲しいものだ。
◇
衛兵たちには怪しまれたものの、それを何とか誤魔化しきることに成功し、無事全員で検問所を抜けることができた。
検問所では魔力の低い人間を検知する魔石の前を通ったが、俺とリリィは勿論、子供たちにも反応を見せなかった。
どうやら彼女らが被っているとんがり帽子は、コスプレというわけではなさそうだ。
「「お姉さん、ありがとうございます!」」
「やっぱり超かわいい…!」
リリィは子供たちの純粋な感謝を受け取り、うっとりとしている。
いつかどこかでその手の犯罪に手を染めないか、俺は非常に不安だ。
「ミロの名前はミロです!双子の姉です!」
「キロの名前はキロです!双子の妹です!」
「私はリリィよ。こっちはユータ」
子供たちは元気に手を上げて名乗り、紹介された俺も首を傾げて応える。
ミロと名乗ったほうは緑の帽子に緑の髪を、もう一方は黄色い帽子に黄色い髪をしている。
小学校低学年程の年齢だろうか、サイズの合っていないローブに着られている感じが、見た目に受ける幼さを更に加速させた。
「…で、お前等はなんで通れなくなってたんだよ?」
「ミロたちはルーライトの国立魔法学校に招待されて来たんです!」
「でも、キロたちが小さすぎて信じてもらえませんでした!」
質問には、あまりにも哀れな回答が返ってきた。
衛兵があの調子ということは、この年齢の子供が招待されるのはきっと珍しい事なのだろう。
だとすれば、彼女らには特別な才能があるのかもしれない。
「ほおん、二人とも頭いいんだな」
「わかってしまいますか!ミロたちは天才なので、入学試験も免除なんですよ!」
「わかってしまいますか!」
二人はえっへんという声が聞こえてきそうな程、無い胸を突き出している。
立ち振る舞いはやはり幼さに溢れており、聡明な印象とは程遠い。
そのため俺が心中で彼女たちの言葉を怪しんでいると、ミロのとんがり帽子が小さく跳ねた。
「そうだ!特に手続きも必要ないですから、お二人も試験を受けてみてはどうですか?公での単純な実技試験ですし、その場で合否が出るので気軽に受けられますよ!」
「名案です!寮でリリィさんとパジャマパーティーしたいです!」
ミロとキロはすっかりリリィに懐いてしまった様子で、彼女のローブにしがみ付いている。
急なお願いに困った彼女は、二人に聞き返した。
「でも、学校に受かったら暫くここにいなきゃいけないのよね?」
「そうですね、多分数年間は中央から出られないです」
「でもここには何でもありますし、不自由に感じることはきっとないですよ!」
二人の説明を聞いて、リリィが申し訳なさそうに口を開きかけたが、俺がそれをすぐに遮った。
「それなら是非受けてみよう。ミロ、キロ、良ければ明日案内してくれるか?」
「「もちろんです!」」
良い返事を聞いた二人は、手を合わせてはしゃいでいる。
予想外の展開に納得がいかず、目を据わらせたリリィが俺の脇腹を肘で突いた。
「…どういうつもり?賢者探しはどうすんのよ」
「学校の中で万能の薬について調べたい。用が終わったらばっくれればいいさ」
俺の答えに納得したのか、リリィはミロとキロに近付いて、たわいもない会話をし始める。
突如始まった計画について、全く疑う素振りが無いあたり、リリィは俺に対して全幅の信頼を置いてくれているのだろう。
しかし、ガルダさん程の魔法使いが十年かけて力を証明することで、やっと壁の外で暮らすことができたのだ。
ここで学ぶ魔法使いたちにとってこの巨大な壁が、簡単に逃げ出せるようなものでないことを俺は理解していた。
思えば、俺との旅はリリィがそれまでに依存していたものの代わりになっていたのかもしれない。
そうであるならば、最初は別れに絶望してしまうだろう。
それでも、学校に入れば明るい彼女にはきっと新しい友達ができる。
将来の選択肢も無限に広がっていくだろう。
真面な教育機関であれば、精神的に自立するためのサポートだって行ってくれるはずだ。
全てが上手くいく。
リリィのためを思えば、これが最善の選択だ。
俺はそう唱え続けることで、自らの心の軋む音から耳を塞ぎ続けていた。
◇
最後の夜だ。
どうしても心の中を駆け回る寂しさを抑えつけるために、俺は夜遅くに宿から抜け出し、ありふれた風貌の酒場に足を運んだ。
「定番の酒を」
酒について何も知らない俺は、カウンターに座って店主に適当な注文をした。
少しも経たないうちに、泡の乗った酒が目の前に差し出される。
これは、ジェシカが宿の酒場でよく飲んでいた酒だ。
彼女が美味しそうに喉を鳴らしていたのを、ハッキリと覚えている。
俺が記憶の中のジェシカを真似て大きくジョッキを煽ると、脳を酒の苦みが襲い、泡が口周りに張り付いた。
「…なんだ、不味いのかよ」
豊かな麦の香りと共に広がる強い苦みは、俺の口に全く合わない。
それでも炭酸の弾ける爽快感が俺の心を洗い流してくれるかもしれないと、数杯同じ酒を頼んだ。
並んだジョッキを一つずつ空にしていく。
最期の一杯を一気に飲み干すと、急激な吐き気に襲われた。
口を押えたままカウンターに金を置き、走って外に出た俺は、急いで近くの路地裏に入り、胃の中の物を全て吐き出した。
「…うおぇっ…」
金を払って、味を我慢してまで飲んだものが、全て地面にぶちまけられる。
食道と味蕾を走り抜ける最悪の感覚に苦しみながら、俺は意味のないことをしていたのだと強く実感した。
吐瀉物には、数匹の鼠が集まってくる。
鼠ですらも群れていた。
それから俺は何かから逃げ出すようにふらふらと人気のない道を歩き、噴水の水で汚れた口と手をすすいでから、暫く外のベンチで眠ったが、目が覚めてもまだ空は暗い。
「…終わってさえくれないのかよ」
馬鹿な自分を少しだけ嗤うと、感情の解決を諦めた俺は、宿に戻ることにした。
自分の部屋の前に立つと、扉の小窓から中に弱い灯りが見える。
俺が恐る恐る鍵の開いた扉を開けると、小難しそうな題の大きな本を抱えたリリィが、ベッドの上で丸くなって眠っていた。
ランプの明かりが仄かに広がる無音の部屋に、彼女の寝息だけが微かに響く。
銀の長い髪は、薄い光を吸って微かに輝いていた。
こうして黙っていると、溶けて消えてしまいそうな儚さがある。
普段の騒々しい姿とは正反対だ。
リリィの寝顔をよく見ると、目の下が少しだけ赤く染まっていた。
帰らない俺を待っていたのだろうか。
メドカルテの時のように、不安にさせてしまったのかもしれない。
「ごめんな」
起こさないよう小さな声で謝った俺は、初めて自らの意思でリリィの美しい髪に触れる。
サラサラとした感触に固まっていたはずの決意が揺らぎそうになるが、それでも、じいちゃんにもう一度会うという夢は捨てられなかった。
初めての友達だ。
俺を絶望の底から引き上げてくれたこともあった。
一緒に歩いた旅の思い出はどれも鮮やかに色付き、記憶に深く刻まれている。
「俺に『友達』を教えてくれてありがとう」
眠りから覚めない彼女に向けた感謝の言葉を手放すと、自然と少しの涙が頰を流れ落ちていった。
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