第17話 カマキリVSゴリラ
男の負傷をチャンスだと捉えたのか、怯えてその場に留まっていた客が、一斉にフロアから逃げ出した。
互いに殺気をぶつけ合う怒れる猛獣達は、周囲で巻き起こる喧騒になど全く興味を示さず、何ならフロアに残っている俺でさえも、完全に蚊帳の外だ。
「ああ…今日の俺は本当に不幸だ。クソバーテンどころか、顔も知らねえクソ女にまで舐められるとはなァ!」
胸中に募った苛立ちを解消するためか、彼は高圧的な物言いを更に加速させながら、折れた左腕をふらりと持ち上げると、それを鞭のように撓らせてカウンターへと叩きつける。
「ヒィ!」
「危ねえ!」
カウンターの中で悲鳴を上げたバーテンダーを、衝撃に巻き込まれる寸前に抱きかかえた俺は、戦場から距離を取る。
安全が確保できる場所まで連れ添ってから手を離すと、力に恐怖した彼は戦地と化した勤務先から大慌てで逃げ去った。
憤怒の餌食となったカウンターは、木くずをばら撒いて大破していたが、その代償として既に限界を迎えていた男の左腕の骨は粉々になり、様々な方向へと折れ曲がってしまっている。
常人であれば、あれ程までの傷を負った瞬間痛みに発狂しているはずだ。
「…おいおい、神経通って無いのかよ!?」
この男は、間違いなく頭の捩子が飛んでいる。
目の前に在る命の異質さに戦慄した俺は、無意識に一歩後ずさってしまった。
それと同時に、そのままの体勢で固まっていた男は何かに気付いたのか、買ったばかりのナイフのような目を大きく見開いた。
「おい、腕が
「……は?」
男が今更痛みに悶え始めたのを見て、俺を侵食していた恐怖が一気に冷めていく。
痛みという、生まれたその時から人を縛る枷を超越した、非科学的な存在なのかと思っていたが、ただアドレナリンが過剰に分泌されていただけだったらしい。
大虎になっていたところを咎められた程度で、骨が粉砕する痛みすら感じない程の、激しい怒りが湧いていたとでも言うのだろうか。
なんとも馬鹿げた話だ。
「お前、死んだぞ」
勿論その隙を見逃さなかったジェシカは、目にも止まらぬ速度で接近し、宣言と共に男の腹をぶん殴る。
しかし、男はまたも奇襲に反応して見せると、右手で衝撃を殺し、振るわれた拳をそのまま掴んでしまった。
最初のジェシカの一撃への対処といい、彼の大柄な見た目に受ける印象の数倍は機敏だ。
「弱い女には謙虚に生きていて欲しいもんだ」
気付けば、ぐにゃぐにゃに曲がった男の左手にはビール瓶が握られていた。
ぼそりと呟いた男は、それを捕まって動けないジェシカの側頭部に向けて、渾身の力で振るう。
厚手の瓶が頭蓋骨に衝突して割れる音と、俺の叫びが重なった。
「ジェシカ!」
どう見ても致命傷になる一撃であり、俺は最悪の事態を恐れていた。
しかし、豪快に殴られた彼女は頭の角度すら動かさず、口角を釣り上げる。
「…鍛え方が足りねえんだよ、グラサンカマキリ野郎!」
頭から鮮血を流したジェシカは、網膜の上に覆い被さってくる赤色を無視し、空いていた右腕を男の横腹に捻じ込む。
男は勝利を確信してしまっていたのか、遂に全く反応できず、背後のテーブル席まで勢い良く吹き飛ばされた。
「ガハッ!」
鮫のように尖った歯の間から噴き出した血液と、テーブルの上に残っていた高級そうなグラスが絨毯を汚し、その破片の上に、脱力した長い腕が重力に逆らえず垂れ落ちる。
男はテーブルにもたれたまま、ぐったりとして動かなくなっていた。
酒をきっかけとした化物同士の喧嘩は、得物に頼らず己の肉体の性能だけで上回った、ジェシカの完勝だった。
「ジェシカ!怪我は大丈夫か?」
ダメージが大きいのだろうか、俺が駆け寄って安否を確認しても、ジェシカは暗い表情で俯いたままだ。
後遺症や出血過多の可能性に焦った俺が肩を掴むと、ゆっくりと俺に視線を合わせた彼女は、瞳に悲壮感を露わにしながらやっと口を開いた。
「ユータの初めての酒が、台無しになっちまった。せっかく二人で街に出て、こんなの俺も初めてだったのに…!」
ジェシカはそう嘆くと、膝を突いて泣き崩れてしまった。
彼女の初めて見せる姿に困惑し手を離してしまったが、俺は泣きじゃくる彼女をどうにかして慰めようと、肩に触れ直した。
「大丈夫、最初の酒の味はちゃんと覚えた。宿に帰って、一緒に飲み直そう」
「…おう」
涙を流しながら俺の言葉を飲み込んだジェシカは、ようやく少し落ち着いてくれた。
この世界に来てから、じいちゃん以外から与えられることのなかった、形の無い温もりを幾度となく貰っている。
今だって、目の前にいる友達が、自らの大怪我には見向きもせずに、俺との時間を大切に思い涙を流してくれているのだ。
このかけがえのない存在を、大切にしなければならない。
俺は心中で幸せを噛み締めながら、ジェシカの頬を濡らした涙を拭おうと人差し指を伸ばす。
しかし、俺の指が少し紅潮した肌に触れる直前、見えない何かに伸し掛かられるような感覚によって、二人の体が同時に床に叩き伏せられた。
「ぐあッ!?」
「何だよこれ…どうなってる!」
急な衝撃に傷が痛んだのか、ジェシカが苦しそうに呻く。
俺も文句を垂れながら筋肉に力を込めたが、体は思うように動かない。
足元に転がっていたワイングラスも、手持ち部分だけを残して無惨に潰れていた。
馬車でジェシカの殺気を受けたときの感覚に似ていたが、これはそういった心理的な圧力ではない。
物理的な重圧が、俺たちの体を上から押し潰そうとしているのだ。
「…力を使うなと指図されていたがもう止めだ。俺一人だけがクソ不幸なまま、黙っていられるかよ」
意識を失っていたように見えたグラサン男がふらりと体を起こすと、彼の意図を汲んだようにずたずたになっていた左腕が蠢き、刺さったグラスの破片を吐き出しながら、元の形状へと再生していく。
俺は似たような光景を目にしたことがある。
いや、忘れられるはずがなかった。
「外道が、人を食いやがったな…!」
人の道を踏み外した最悪を、俺は強く睨み付ける。
男の左腕の傷は、心臓を飲み込んだステナが有していた回復能力が発動する際と、全く同じ挙動をしていたのだ。
「ほう、随分物知りじゃねえかクソガキ。まあ、知ってたところで何になるわけでもねえがなァ!」
男が叫ぶと体は更に重くなり、腕の力で少しだけ持ち上がっていた上体が再度床に叩きつけられる。
あまりにも理不尽な魔法の力に、俺もジェシカも頬を床に擦りつけることしかできない。
すぐに特異魔法で抵抗することも考えたが、出掛かりの炎が降り注ぐ強大なエネルギーに負けてしまう可能性がある。
俺はジェシカの頑丈さを信用し、今は状況を打破するための一手を思案することに集中した。
そんな俺の気持ちを煽るように、男はゆっくりとした足取りで近付くと、足元に転がっていた割れた酒瓶を、此方に向かって蹴り飛ばしてきた。
絨毯を滑った瓶は俺の側まで辿り着いた瞬間、同じように床に向かって押し付けられ、重みに耐えられなくなったネックから下がぺしゃんこになる。
「その辺のゴミなら肺が潰れるか、最低でも骨に罅が入る。手前等、一体どんな鍛え方してんだ?…とはいえ、獣伐区の人間は動けなくなればゴミ同然。魔法の才能が無いってのは、哀れなもんだ」
ペラペラとよく喋る男に苛立ちが募り、言い返そうとした俺が精一杯の力で顔だけを上げると、男の額には大粒の汗が浮かんでいる。
その情報が目から脳に到達した瞬間、俺の頭の中に一つの仮説が組み上がった。
重力は、恒常的にそこにある力だ。
つまりこの男の特異魔法は『見えないがそこにあるものの出力を、器用にコントロールし続ける』力なのだ。
俺の特異魔法ですら、丁寧なイメージを怠れば上手く炎が発現しない。
となれば、重力という目に映らない力の操作に、どれだけの集中力を必要とするかは、計り知れない。
彼が少しの移動ですら満足に行えていないのを見るに、俺の魔法よりもイメージが難しく、高度な集中力を必要としている可能性はやはり高い。
その上、俺の事を獣伐区の人間だと勘違いしているため、チャンスさえあれば魔法の直撃に繋がるだろうという、希望的観測も判断を後押しする。
これしかない。
俺はこの仮説と願望を根拠に、いつか訪れるであろう、男の集中の途切れ目を待ち続けることにした。
考えている内に、ようやくジェシカの真横までたどり着いた男は、ポケットから取り出した煙草に気怠そうに火を付ける。
「…おい、無様だなァクソ女」
ジェシカは殴られたダメージが大きかったのか、意識が朦朧としているようで、男の言葉に反応できてすらいない。
限界が近いことを察した男は、ジェシカに掛かる重力を弱める。
それから彼女の首を長い指で掴み、軽々と持ち上げた。
「よくもさっきはぶっ飛ばしてくれたなァ…言いたいことはあるか?」
「…俺とお前の喧嘩だ。こいつは関係ない。見逃がしてくれ」
ギリギリで意識を保ったジェシカは、閉められた喉から絞り出した声で、俺の命を乞い始めた。
自信に満ち溢れていた彼女の弱弱しい声に、今も尚機を待ち動かない自分に対する苛立ちが沸騰する。
それでも、男を討ち損じれば、ジェシカの命を失うことに繋がりかねない。
俺は衝動に飲まれないよう、奥歯を壊れそうなほどに噛み締め、必死に感情の波をせき止めていた。
「泣かせるねえ。だがな、お前には極限まで不幸になってもらわないと気が済まねえ。お前を殺すのは、目の前でクソガキを始末してからだ」
宣言した男が脱力したジェシカを足元に投げ捨てると、彼女の血が勢い良く絨毯に零れて染み込んだ。
「ゴミが歯向かうからこうなるんだ…。俺を不幸にする悪人は、当然皆殺しだァ!…あ?」
「行かせねえ…」
愉悦の表情を浮かべながら俺に近付こうとした男は、足首に違和感を覚えて振り返る。
そこでは、ジェシカが最後の力を振り絞って男の足にしがみ付いていた。
異常な握力で掴まれた男の足首からは、血液が跳ね飛び、メキメキと骨が折れる音がする。
ジェシカは俺を殺させないために、限界を超え、命の全てを吐き出そうとしていた。
そう、俺が心待ちにしていた瞬間は、結局のところ彼女が掴み取ってくれたのだ。
足首から神経を駆け抜けた想定外の痛みに気を取られ、俺を間接視野から外したその一瞬だけ、体を押し潰していた忌々しい重力が弱まった。
「お前は不幸だな」
男が背後の声に致命的なミスを自覚し、急いで振り向いたときには、俺の身体は完全に起き上がっていた。
感情のダムが決壊する。
はち切れそうな程に膨らんだ憤怒は青い炎となり、力尽くで起こした体から一目散に溢れ出た。
髑髏を
そして、今から男を襲う炎の温度を更に高めるために、俺は心を静かに燃やしていた。
「地獄の業火に焼かれても死ねないなんて、本当に不幸だ」
「このガキ…爪を隠してやがったか…!」
洞察の甘さを後悔した男の体は、為す術もなく青い髑髏に飲まれていき、彼が咥えていた煙草は一瞬で塵と化す。
炎の中から俺の首に向かって細長い腕が伸びてきたが、肌に届く寸前で関節から燃え尽きた。
「クソがああああ!」
男の体は骨になった部分から回復し、そのまま再度焼失していく。
無限かと思える様な痛みの連続に絶望した男の叫びは、ボロボロになったバーのフロアを包み込んだ。
夢を見る度に、この悲鳴を思い出すことになるのだろうか。
この厳しい世界で生き残るために、ある程度覚悟していたことではあったが、いざその時が来ると甘えた気持ちが芽生えてしまう。
人殺しという大きな罪を犯すことを、俺の心は未だに拒否していた。
葛藤する俺の前で男が八回目の蘇生を終え、その体が再び燃え始めた時、窓を突き破って一人の影が飛び込んできた。
「バルカン様!」
現れたのは、この店の入り口ですれ違った、黒いローブの男だった。
彼は躊躇なく青い炎の中に飛び込むと、素手で巨大な髑髏の口を無理やりこじ開ける。
「ぜああああ!」
強く声を吐き痛みを紛らわせると、彼はその身を焼きながらも中で藻掻いていたグラサン男に手を伸ばし、そして強引に引きずり出した。
「バルカン様!しっかりして下さい!」
「なんだ、
救い出されたバルカンと呼ばれた男の傷は、もう上手く回復できていない。
彼が逆恨みしてジェシカや俺の命を狙う可能性を考えれば、今ここで殺しておくべきなのだろう。
気絶したジェシカをそのままに、俺がバルカンへ近付こうとすると、黒いローブの男が両手を広げて立ちはだかった。
「絶対に殺させない」
男の存在を億劫に思った俺は、彼の言葉を遮るように、即座に炎を撃つ。
しかし、男は顔の真横を炎が横切っても微動だにしない。
青い炎に燃やされたフードが脱げると、中から現れたのは美しい顔立ちをした褐色肌の青年だった。
白髪の下に見える赤と青のオッドアイはまるで人形の瞳の様で、正直なところ、その美しい風貌に俺は面食らってしまっていた。
それでもなんとか気を取り直して、もう一度青年を睨む。
「…そんな奴のために死にたいのか」
「この人の側にいられないのなら、死んでいるのと同然だ」
俺の問いかけに答える青年の瞳は、左右でちぐはぐな色をしていたが、同じものを見据え、強く否定している。
命を奪うことへの恐れを隠しきれない、俺の怯えた目とは対照的なものだった。
勝ち目の無い中で少し粘りはしたものの、俺が遂に目を逸らすと、様子を見ていたバルカンが床に向かって唾を吐いた。
「ったくこんな甘えた奴に半殺しにされるとは…おい、名乗れクソガキ」
「…優太だ」
「………!」
敗北感に言いなりになった俺が渋々名乗ると、それを聞いた青年が身震いした。
「バルカン様、もしかしてこいつあの化け物の
俺の力や名声に恐れをなした、といった雰囲気ではない。
それでも動揺した青年の言葉に、あのバルカンですらも若干の冷や汗を浮かべている。
「なるほど、確かに聞いていたのと同じ力だ。勢い余ってこのガキ殺したら死んでたってわけか。…俺にしては、珍しく運がいいじゃねえか」
「お気に入りって何のことだ!…いや、聞きたいのはそれだけじゃねえ。賢者についても、全部吐いて貰うぞカマキリ野郎!」
会話に置いて行かれてしまい僅かな焦燥感を抱いた俺は、乱暴な言葉を使ってバルカンに情報を要求する。
だが当然、強制力の無い俺の問いに彼が真面に答えるわけがない。
代わりに返ってきたのは、忠告だった。
「クソガキ、どうやらお前はバカじゃねえし地力もある。…だがな、その舐めたスタンスを捨てねえなら、周りの雑魚から死んでいくぞ」
「説教なんて頼んでねえんだよ、黙って質問に答えやがれ!」
語気を荒げた俺の目を見たバルカンは、目の前の憤りを愉しむかのようにニヤリと笑った。
刹那、脆くなっていた天井が突然崩れる。
瓦礫の落下地点には、意識を失ったジェシカが倒れていた。
「…ジェシカ!」
叫びながら駆け出した俺はジェシカを抱きかかえ、勢いのまま瓦礫から身を躱すと、結果、バルカンとの間には瓦礫が積み上がって壁が生まれてしまう。
この鬱陶しい壁が、バルカンの魔法で生み出されたものだということは明らかだった。
「クソ、逃げてんじゃねえ!」
「お友達が大事なら、深い闇には関わらない事だな。あばよ、クソガキ」
青年に肩を貸りながらそう吐き捨てたバルカンの姿は、天井が落下した衝撃で舞い上がった、白煙の奥へと消えていく。
またも指の間からすり抜けていく手掛かりに、追い縋るように手を伸ばす。
しかし、俺の手はただ虚しく空を切るだけで、何を掴むこともできなかった。
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