第四章
第14話 魔法の国
「…よし、だいぶ動けるな」
早朝のトレーニングを終えた俺は、感触の良さを噛み締めるように拳を握る。
魔力不足による脱力感も解消され、体に違和感は全く残っていない。
ゼン先生に言われた通り、大きな傷跡が腹に残ったが、痛みは綺麗さっぱり無くなっていた。
真摯な治療に感謝しなければならない。
「ガルダさんを任せたぞ。ケニー」
庭の墓石への挨拶を済ませた俺に、もう心残りは無い。
俺たちがここを離れても、ケニーがガルダさんを守ってくれるはずだ。
そういう約束を交わしたことを、きっと彼も忘れていないだろうと信じている。
「ユータ!朝ご飯できたって!」
同じくトレーニングを終えたリリィが、声をかけに来た。
合流した俺たちは、庭先まで届く焼けた小麦の香りに誘われ、軽快な足取りでリビングへと向かう。
到着すると、既にガルダさんがテーブルの向かい側に座って待っていた。
「わあ、美味しそう!」
涎を垂らしたリリィの言葉に心の中で賛同する。
テーブルの上ではこんがりと焼けたパンを様々な手料理が囲んでおり、そこから立ち上る湯気に乗った匂いが俺の腹の虫の目を覚まさせてしまった。
「朝なのに凄い豪華ですね」
「そりゃあ二人とのお別れの日ですもの。気合も入るわよ」
席に着いた俺が聞くと、腕を捲ったガルダさんが嬉しいことを言ってくれた。
あれから数日経ち、今やガルダさんもすっかり元気を取り戻していた。
勿論繕っている部分はあるのだろうが、少しずつでも前を向けているようで安心する。
「「いただきます!」」
リリィと同時に手を合わせた俺は、まず最初にガルダさんの得意料理を手に取った。
煮込まれた野菜の入ったスープを一匙掬って口に入れると、予想通り、暖かい優しい味がする。
一週間も彼女に食事の面倒を見て貰っていたため、この味付けが舌に馴染んでしまっていた。
俺がしみじみと思い出に浸っていると、隣から鼻をすする間抜けな音が聞こえてくる。
「いぎだぐないでず師匠ぉ」
「もう行っちゃうのか、寂しくなるなあ」
リリィは大粒の涙を流しながら大きなパンを頬張っている。
頼むから、落ち着いて食べて欲しい。
しかし、そんなリリィの哀れな姿を見ても、ガルダさんは女神のように頬に手を当てて、優しく微笑んでいた。
病室で目を覚ました時には、既にリリィが彼女の事を師匠と呼ぶようになっていたが、どうやら倒れた俺が寝ている間に弟子入りしていたらしい。
例の戦いの翌日に鍛えて欲しいとお願いした、という行いをリリィの口から聞いたときは、図太いを通り越して最早狂気的に感じたが、ガルダさんは気が紛れて却ってよかったと言ってくれていた。
実際聞いていると、師匠呼びには特別感がある。
正直なところ、ちょっとだけ羨ましい。
少しの嫉妬を感じながら口を動かしていると、ガルダさんが俺の方に視線を移したのが見えた。
「そういえばユータ君、変なことを聞くのだけれど」
突然の名指しに、急いで口の中に入っていた肉を飲み込む。
すると、予想外の問いかけが続いた。
「魔法に自我を感じたことはないかしら?」
「…もしかして、ガルダさんも根源の意思と会ったんですか!?」
驚きのあまり、俺は質問を質問で返してしまった。
テーブルを揺らした俺の必死さを往なすように、ガルダさんは首を傾げる。
「そういうわけではないのだけれど、あの女との戦いの途中、心の中で『救済しろ』って何度も訴えかけられた気がしたの。その声が聞こえる度に、力に飲まれそうな感覚があったわ」
説明を聞きながら、俺は頭の中で記憶の引き出しを選んで開ける。
最初、深夜にステナが訪れた際には、ガルダさんの周囲に集まった魔素が緑色に発光し続けていたが、翌日の戦闘時、魔素は黒く染まっていた。
一度だけステナが魔法を使った時も、同じような現象が起きていたように思う。
記憶を辿っていった結果、俺は一つの結論に到達した。
「根源の意思は、転移者に平等に存在しているのか…?」
あの場にいた転移者三人全員に特異魔法が発現している以上、きっと根源も平等に存在しているはずだ。
そして、ガルダさんの言葉が本当ならば、根源の意思の目的は、力に溺れた宿主を飲み込むことなのかもしれない。
しかし、だとすれば、俺の前に現れた『優しさ』にそのような素振りが無かったのは何故なのだろうか。
黄金の扉を開いた先に居た別の意思は、いったい何者だったのだろうか。
様々な謎が脳内を回転していく。
自分なりに答えを出すために、更に思考を巡らせようと深く集中した瞬間、背後から勢いよく肩を組まれた衝撃で、意識が引き戻された。
「安心しなさい!あんたが悪い力なんかに飲まれそうになったら、全力で殴って引き戻してあげるわ!」
リリィの根拠のない自信に溢れた宣言が部屋に響くと、狭まっていた視界が開け、空気が明るくなったのを感じる。
鬱陶しい彼女の腕の重さは、同時にとても心地が良かった。
「…真面目に考えてるのが馬鹿みたいだ」
どうでもよくなった俺は少し笑ってから、切り分けられていないパンを、大きく口を開けて齧った。
◇
「これが紹介状よ。無くさないようにね。一応、私の養子ってことになってるから、向こうで話だけは合わせて頂戴」
玄関前まで見送りに来たガルダさんに、封蝋で閉じられた手紙を渡された。
ルーライトに不法入国する予定だった俺たちのために、ガルダさんが紹介状を書いてくれたのだ。
これがあれば、問題無く国境を越えられる上、国の中でもある程度自由に行動できる。
ガルダさんの説明にあった通り、紹介状の中では俺たちを彼女の養子という扱いにしてあるらしい。
ルーライトの法に則るため仕方のないことだが、なんとも皮肉なものだ。
「師匠、ありがとうございました…」
感謝を告げたリリィは、別れの寂しさに肩を落としてしまっている。
母親の居ない彼女にとっても、ここに滞在した時間は特別なものになったのだろう。
リリィの手は力なく地面に向かって垂れていたが、ガルダさんはその手に優しく触れ、拾い上げた。
「リリィ、あなたには才能がある。成長に対して貪欲で、飲み込みも早い。きっと良い魔法使いになれるわ」
「…頑張ります!」
ガルダさんの力強い言葉を受けると、覚悟が決まったリリィの表情は前向きなものに移り変わっていた。
師弟関係は十日程の若い関係だったが、それでも二人の間には敬意と愛情が窺える。
そして、ガルダさんはリリィの手をゆっくりと離し、数歩離れてから少しだけ俯いた。
ここ数日間、ひたすらに明るく振る舞っていた彼女の顔がやっと少しだけ陰ったことで、むしろ安心している自分がいた。
「ねえ、ユータ君。ステナはきっとまたあなたの前に現れるわ。今度はあなたを標的にしているかもしれない。…あなたには、色んなものを背負わせてしまったわね」
『色んなもの』が何を指した言葉だったのか、はっきりとはわからない。
ただ、たとえそれが何であっても、俺の気持ちは変わらなかった。
「俺くらいの歳になったら、親の荷物を背負うものじゃないですか。...全部終わったらまた帰ってくるよ、母さん」
俺が最後にそう言うと、駆け寄ってきたガルダさんは、俺とリリィを纏めて抱きしめてくれた。
こんなことをされたら、この廃れた街を離れるのが更に惜しくなってしまうが、これは今生の別れではない。
彼女の体温を大切に胸の内に仕舞った俺たちは、清々しい面持ちでルーライトへと歩み始めた。
決して美しくはない道を、爪先立ちで進んでみる。
再会するその時までに、少しでも背が伸びていることを祈って。
◇
魔法の国ルーライト。
国の南側を川が通っているため、国境には大きな橋が架かっており、その橋の向こうには排他的な民意を反映したかのような、分厚い壁が立ちはだかっていた。
壁には大きな門があり、ローブを纏った門番が左右に立っている。
門番でさえ魔法使いとは、流石魔法の国と言ったところだ。
勤務意識も高いようで、男達は鋭い眼光を放ちながら周囲を見張っている。
「これ、紹介状が無かったらどうやって入国するつもりだったんだよ」
「壁ぐらい突き破るわ」
そんなド派手な不法入国に付き合わされては、たまったものではない。
どうやら俺はじいちゃんの死を、異世界の監獄で迎えるところだったらしい。
ガルダさんへの感謝を天に捧げながら橋を渡ると、門番の片方に声をかけられた。
「子供二人で何の用だ。ルーライトは他所者の入国を禁じている」
「子供は一人よ。偉そうにしないで貰いたいわ」
そうだ。
子供はこの女一人だ。
そう心の中で同意した俺は、鞄から手紙を取り出して乱暴に門番に渡す。
ふんと鼻を鳴らしてからその手紙を繁繁と見た男は、じっとりと脂汗をかき始めた。
「この紋は…我楽多の…!」
「なっ、なんだと!?」
男が怯えた声を出すともう片方の門番にも緊張が伝播し、仲良くカタカタと震え始めた。
この国において、我楽多の魔術師は侮蔑されるだけではなく、畏怖の対象にもなっているようだ。
戦地であれだけの力を振るっていたのであれば、当然と言えば当然だろう。
「中には母の紹介状が入っている。早く門を開けてくれ」
「し、失礼しました!」
丁寧に敬礼した門番たちは、急いで扉を開けに向かう。
数十秒前までの試すような眼差しが嘘のように、彼らの態度が従順になってしまった。
母の威を借りて少し気持ちよくなった俺は、耳障りな高い音を立てながら開いた門を、鼻を鳴らし返しながら通り抜けた。
◇
「ここが魔法の国…。なんというか…」
「魔法の国っぽくないわね」
門を潜ると、そこにはノスタルジックな街並みが広がっていた。
閑散とした街には薄汚れた木造の家屋が立ち並んでおり、とてもじゃないが魔法の国といった雰囲気ではない。
「とりあえず北に向かおう」
「ええ」
リリィに同意を取った俺は、大通りを北上していく。
足元を見ると道沿いのそこら中に、空き瓶や煙草の吸殻が転がっていた。
ダラク程ではないが、すれ違う人々の表情も疲れて見え、その身なりに違和感を感じた俺が呟く。
「魔法使いが少なくないか…?」
「言われてみればそうね。むしろ炭鉱夫さんとか戦士の方が目立つわ」
リリィの言う通り、肉体労働に向いていそうな筋肉質な人間がかなり多い。
細身の魔法使いが箒に跨り優雅に空を飛んでいるような風景を想像していたが、人々の姿も含めて真逆の光景だ。
「魔法で便利に生活してますって雰囲気でもないわよね」
「国境付近はどこも寂しいもんだな」
メドカルテの北部と似た様な状況なのだろうか。
国土の全てに力を尽くしている国家の方が、この大陸においては珍しいのかもしれない。
「あれ、駅馬車じゃない?」
リリィの指した方向を見ると、木造の宿に数台の大きな馬車が停車していた。
看板には大きく『中央行き』と書かれている。
馬車に近づくと、此方に気付いた馭者がぶっきらぼうに声をかけてきた。
「中央行きだ。予定通りなら十日で中央、払いは傭兵込みで金貨五枚」
「傭兵?なんでそんなものが要るんだよ」
料金設定の中の気になる単語に反応した俺を見て、馭者は怪訝そうに眉を顰める。
「…余所者は珍しいな。他の国では移動のための道が確保されていることが多いが、この国は魔獣が多過ぎるせいで、安全な道なんて存在しないんだ」
「魔獣か…戦ったことは一度も無いな」
「狩の経験が少ないなら、用心棒を連れていくべきだろう。金貨五枚。道中の宿代は無料だ」
俺は馭者の提案を受け入れ、金貨五枚を渡す。
馭者の手の中で金属同士が擦れ合う音が落ち着くと、見計らったかのように俺の背後で何者かの足音が止まった。
「五枚ってことは護衛付きだろ?私でどうだい、兄ちゃん」
声の方を見ると、赤髪の女戦士が腰に手を当てて堂々とした笑みを浮かべていた。
俺よりも少しだけ身長が高い彼女は、背中に身の丈に近い長さの大剣を背負っている。
ボディラインが強調された服装と関節にだけ着けた防具が、スタイルの良さと彼女の自信を際立たせて見せた。
戦士の実力を測れない俺としては、雇う相手が早く決まることに越したことはない。
断る理由はどこにも見当たらなかった。
「優太です。こっちはリリィ。是非よろしくお願いします」
「ジェシカ・グリーンウッドだ。敬語は要らないよ、ユータ」
爽やかに挨拶したジェシカは、明らかに意図的に、俺とだけ握手を交わした。
そのせいで、リリィの伸ばした腕だけが行き場を失くして宙を彷徨ってしまっている。
「…決まりだな。日没まで進むとしよう」
俺が握手を交わしたのを確認すると、馭者は馬の背中に跨って言った。
続いて俺も馬車に乗ろうとしたが、目が据わったリリィに肩を叩かれる。
「なんだよ」
ろくなことを言わないと分かっていたが、リリィの機嫌をこれ以上損ねないために渋々俺が耳を貸すと、横目でジェシカを品定めしながら耳打ちされた。
「何を食べたらあんなに大きくなるのかしら。…胸も態度も」
知った事ではない。
◇
馬車が寂れた町を出ると、一気に視界が開ける。
そこには少し赤みがかった日に照らされる、広大な荒野が広がっていた。
全方位を砂と薄く茂った緑に囲まれており、壮大な自然に叩きつけられる無力感がなんとも心地よい。
「すげえ」
荷台に近い造りの広い馬車の中で、大自然の姿に感動する俺とリリィとは対照的に、向かい側に腰を下ろしたジェシカの表情は浮かない。
「強い魔獣は鉱山の魔石を食って生きているからな、この辺りは格好の餌場なんだ。獣伐区の人間の半分は、炭鉱夫と炭鉱夫を守るための傭兵さ」
「獣伐区?この辺りをそう呼んでるのか?」
俺が聞き返すと、ジェシカは飽きれたような仕草を隠さない。
つまり、これはルーライトの人間にとって、一般常識だということだ。
「本当に何も知らないんだな。…いいか?この国は国土の中心に位置する中央区と、中央区を囲んだ城壁の外側にある獣伐区に分かれている。魔法の才能がある奴は中央で魔法を学び、それを中央の繁栄と国家の防衛に役立てる。才能の乏しい奴は壁の外に追い出して、魔獣狩りや炭鉱夫なんかの危険な仕事をさせるわけさ」
ジェシカは慣れたことだとでも言うように淡々と語る。
それでも、悔しさや憤りのような薄暗い感情が、鋭い眼光の奥に見て取れた。
「ジェシカさんも子供の頃は中央に居たんですか?」
「おい止めとけ…」
リリィは瞳の奥の蛇に気付いていないのか、当然のように彼女の過去について尋ねる。
俺がそれを咎めようとした瞬間、突風に似た音を立ててジェシカの体が跳ねた。
「「………!」」
制する間もなく、ジェシカの大剣がリリィの首元に触れている。
秒速三百四十メートルを超えてしまいそうな速さを見せた彼女を追いかけるように、急激に解き放たれた殺気が空間を支配した。
「魔法使い風情が。土足で他人の心に踏み込んでくれるな」
油断していた俺も、身動きが取れなかった。
ジェシカの威圧感に圧倒されそうになるが、ステナとの戦闘の経験が頭を過り、硬直しそうになった体にどうにか力を取り戻す。
俺は重力のように伸し掛かる殺気に抗いゆっくりと腕を上げ、大剣を構えたジェシカの右手を掴んだ。
「悪かった。今回だけ許してくれ」
「へえ…その歳で
真っ直ぐに目を見て謝罪する俺の瞳を見返して、ジェシカは殺気を放ったまま口角を上げた。
何かを間違えれば、確実に壊れてしまう一触即発の空気に閉じ込められ、時間が止まったような錯覚に陥る。
無言のまま数秒経ち、俺の頬を流れた汗が床に落ちた瞬間、その場にいた全員が急ブレーキの衝撃に襲われた。
「ジェシカ!魔獣だ!」
馭者の破裂音のような叫びを皮切りに、身体に自由が戻ってくる。
ジェシカは渋々大剣を下ろすと、太い足で豪快に馬車の扉を蹴破った。
「命拾いしたな」
ジェシカが捨て台詞を吐いて外に飛び出したのを確認すると、俺とリリィは腰の抜けた身体を床に投げ出した。
「なんなのよあの女」
理由は分からないが、魔法使いに対しての並々ならぬ憎しみを感じる。
ジェシカの過去を詮索するのは、止めておいた方が良さそうだ。
数秒経ち、やっと感覚が戻ってきた俺の口からは、藪をつついたリリィへの文句が漏れた。
「お前は反省しろ」
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