第8話 溶ける心
今にも倒れてしまいそうな足取りではありながらも、ユータは立ち上がった。
私は魔力不足と出血で今にも離れていきそうな意識を必死に繋ぎ止めながら、膝と杖を頼り体を支える。
「笑わせるじゃないか!何もできない無能のくせに、一丁前に立ち上がりやがった!」
完全に勝利を確信しているルークは、弱弱しいユータの姿を見て笑いが溢れて止まらないと言った様子だ。
私は何か言い返してやりたかったが、もうその余力は残っていない。
「ヘタレ野郎が、さっさと死ね!」
ルークが強い言葉を吐いた直後、ユータは何も言わずに青い炎を右腕の周囲に纏わせた。
揺れ動く炎のせいで、彼の腕は一回りも二回りも大きく見える。
青い炎が蝶の羽根の様に靡く姿はどこか神々しく、その姿を見た化け物が一瞬怯えたように見えた。
「グオオオ」
化け物は恐怖に抵抗するように唸ると大きく右腕を振るったが、その迫りくる拳にユータが正面から拳を突き合わせた瞬間、化け物の太い腕が轟音と共に消滅した。
「……は?」
ルークはなにが起こったかわからないといった様子で、ただ目を見開いたまま呆然としていた。
先程まで無力に喚くだけの青年だったユータが、窮地に追い込まれた途端に力関係を見事に逆転させてしまったのだから、こうなるのも無理はない。
「ぶっ飛ばす」
それだけ呟いて気合を入れたユータが、今度は痛みに騒ぐ化け物の腹に青い腕を突き刺すと、拳から吹き出した炎が化け物の腹部を貫通し、そこには大穴が開いた。
化け物はその穴から更に広がっていく炎に、残った筋肉を徐々に徐々に焼かれていく。
「グオオオ」
救済された命は火の粉と共に天に昇っていく。
顎を突き上げた化け物の叫びは、どこか安らかにも聞こえた。
教会で私を救ってくれた時のような優しい炎の光に、私はただただ見惚れてしまっていた。
そして消えていく最中、死に際の化け物が口を開いた。
「ア、が、と、オ。アリ、が、と、オ」
呻き声しか上げなかった化け物が、言葉を伝えようと必死になって足搔いている。
ユータは予想外のことに少しだけ眉をピクリと動かすと、悲しい笑顔を見せた。
「悪いな、墓までは作ってやれない」
「ガハ、ガハ、ガハ」
化け物は最期の冗談も豪快に笑い、塵も残さずに消え失せる。
それを見たユータが悔しそうに拳を強く握ったのと同時に、彼を取り囲む青い炎は気高く跳ねた。
「さっきみたいに笑ってみろよ、下種野郎」
肩に手を添えて首筋を伸ばしながら啖呵を切ったユータの奥で一部始終を見ていた悪魔は、炎よりも青ざめた表情を晒していた。
◇
罪を犯した元友人を殴れないような、腑抜けた炎はもう存在しない。
再び得ることになった初めての友達を守るために、目の前の悪魔をどうぶっ飛ばすか、俺はそれだけを考えていた。
「さっきみたいに笑ってみろよ、下種野郎」
怯えて真っ青になったルークを煽りながら、今度は俺から近付いていく。
さっき彼が俺の心を甚振るために行ったように、ゆっくりと一歩ずつ、敢えて攻撃の隙を与えながら前進した。
「来るな!化け物が!」
焦ったルークは破れかぶれに小さな火炎魔法を乱射してくるが、俺が胸の前まで持ち上げた右腕に触れた瞬間、消滅する。
赤い炎を飲み込んだ青い腕は、更に膨らみ満足気に大きく揺れた。
ルークは必死の形相で足搔き続けていたが、とうとう俺が目の前にたどり着いてしまうと、その場で失禁し膝から崩れ落ち、喚き出した。
「待ってくれ!君の目的に全面的に協力する!賢者様にだって紹介する!…僕たち、友達じゃないか!」
そうルークが言い終えた瞬間、俺の拳が彼の顎を容赦なく渾身の右アッパーが突き上げる。
骨や歯を粉砕した感覚を拳面に感じる程の威力によって、ルークの細い体は高々と宙を舞った。
纏った青い炎は顔に触れる直前に消滅させたため致命傷ではないが、化け物のように消し飛ばされる恐怖を目前にして、彼は哀れに気絶してしまっていた。
「ビビって立ってることもできないような奴が、俺の友達語ってんじゃねえ」
「めそめそ泣いてたやつがよく言うわね」
「…断じて泣いてねえ」
安心感を求め下らないやり取りをした俺とリリィは、お互いの悲惨な姿を見て笑い合った。
どれだけボロボロになろうとも、俺が生き残り、そして友達である彼女が生き残った。
その事実だけで十分だと、今は心の底から思える。
「…で、暴れすぎちゃったけどまた逃げる?それともこいつを警察に突き出す?」
リリィは一笑いすると、ボロボロになった部屋を見て提案した。
確かに彼女の言う通り今回は残った証拠も多く、俺たちが被害者であることを証明することは容易だろう。
しかし、ただルークが捕まるだけでは襲われ損だ。
「もっといい方法がある」
そう言ってにやつく俺を見ると、リリィは心底不安そうに目を細めた。
◇
「第二王子を返却しに来ましたァ!」
「ガハッ」
清々しい笑顔で叫んだ俺は、見るからに高級そうな赤いカーペットの上に、薄汚れたずた袋を放り捨てた。
ずた袋から声が漏れたのを見て、第一王子のパトリックは冷や汗をかきながら、丸々と肥えた自らの腹部を擦っている。
メドエストでの戦闘後、俺たちは拘束したルークを引き摺りながら王城に向かった。
王城の門番に『メドエストの地下室について王子に話がある』と伝えたところ、簡単に城に入ることができた。
そのまま内密に話す時間を頂いた俺たちは、国家機密を人質にして、パトリックを強請っているわけである。
「まさか第二王子がここまで非人道的な行いをしているなんてビックリです!どうやらお兄様からは黙認されていたようですが…」
わざとらしく振舞う俺の姿を見てリリィが冷めた表情を浮かべているが、気にする必要などない。
俺はもう、ぎらつく太陽の下を歩いて移動するのは絶対に嫌だ。
この大陸の主要な移動手段である馬車を借りるためには、持ち合わせが要るのだ。
「…何が目的だ」
「もちろん、国の脅威を摘み、それを内密にしておいたことへのお気持ちが欲しいなと」
「内密?一階は重症患者用の医療施設だったんだぞ。患者共にはバレていないのか?」
「勿論、事を上手く処理できるかはあなた方の努力次第です。我々の知った所ではございません」
「ぐぬぬ…」
メドエストの惨状を見れば何かがあったことは間違いなく気付かれるだろうが、漏れる可能性がある情報など、握り潰そうと思えばどうにでもなるはずだ。
しかし、研究用の生物を監禁していた地下室に関しては、俺たちが公開すれば間違いなく、国家が揺らぎかねない程の問題になる。
国の王になる人間が、その重圧に耐えられるわけがなかった。
「…わかった。金貨三百枚だ」
やっと諦めが付いたのか、苦い表情をしたパトリックが俺に渋々提案してきた。
この国や大陸においての金貨の相場が全く分からなかったが、兎に角俺は強気に吹っ掛ける。
「よし、この国を終わらせに行こうリリィ!」
そう言い切った俺が勢い良く振り返った途端、後ろでガタっと椅子が動いた音がする。
首だけを捻ってみると、パトリックが権高な椅子から降り、膝と手を床に突いて懇願していた。
「金貨五百枚!これが俺の出せる限界だ、頼む!」
「…しょうがないなあ」
困ったことに、壊れた蛇口の様になってしまった俺の顔面に笑みが溢れて止まらない。
その様子を見たリリィは呆れかえってしまい、先程から細まっていた彼女の目は限りなく線に近い形状にまで辿り着いてしまっていた。
パトリックが部下に命じ暫くすると、訝そうな表情をした部下が嫌々重たい袋を俺に差し出してきたため、満面の笑みでそれを受け取る。
貰う物さえ貰ってしまえば、もうこんな場所に用はない。
そう思い俺が振り返ると、背後徐に立ち上がったパトリックが、ルークの入ったずた袋を罵りながら蹴り始めた。
「クソ、こんなゴミを拾ったばっかりに!お前はどれだけ俺様の足を引っ張れば気が済むんだ!」
「帰るわよ」
一度足を止めた俺に、リリィが冷静にそう促した。
彼女の言う通り、もう俺たちの介入すべき問題ではない。
「死にたくなっても殺してやらんぞ、また拷問にでもかけてやる!お前は一生俺様の玩具だ!」
見て見ぬ振りをしようとしたが何度も蹴りつける不快な音が耳に入り、俺の苛立ちはとうとうピークに達した。
ぐるりと振り返った俺は早足で歩み寄り、パトリックの首根っこを掴む。
柔らかい脂肪に包まれた彼の額を引き寄せて自らの額を擦りつけると、怒りによって湧き出た炎はずた袋と絨毯だけを燃やし、中で痛みに震えて小さくなっていたルークに寄り添った。
「お前が今やるべきなのは憂さ晴らしじゃない。こいつへの謝罪と被害者への罪滅ぼしだ」
「俺は何もやってない!何もかもこの悪魔がやった事じゃないか!貴様は悪魔を庇うのか!?」
「お前の理不尽な行いが生んだ悪魔だ。こいつを守ってやれる人はどこにもいなかった。お前にこいつの孤独が理解できるのか?」
この世界に来た時から、彼も独りだったのだ。
きっとあの頃の俺と同じか、それ以上に。
捨てきれなかった同情は、最後に大きく爆ぜた。
「お前だって、十分に悪魔じゃないか…!」
言いたいことだけを押し付けて、俺はパトリックを投げ捨てる。
やっと自分の行いを重く受け止め始めたのか、絨毯の燃えカスの上にへたり込んだ彼の表情は、明らかに暗く変化し震えていた。
「公にしたくないのなら、そいつは監獄で一生かけて償わせろ。今度拷問なんてしようものなら全て終わりだ。覚悟しておけよ」
「わかりました…」
唾を吐き出口の方へ振り返ると、背中を引き留めるような気配がしたが、俺はそれに気付かないふりをして王城を後にする。
気持ちを振り払うように歩幅を広げて俺が歩くと、それを受け入れたのか、縋るような気配は消えて無くなった。
正門から外に出ると、頭上には満天の星空が広がっていた。
足取りの重い俺を嗤っているかのように星々が煌めいているため、夜空に唾でも吐いてやりたくなってしまう。
少し前を歩くリリィはリリィで、別のことを理由に面白くなさそうにしていた。
「あんた、あれだけの事されたのに本当にお人好しよね」
「あいつが俺たちと楽しそうにしてたのが、全部嘘だとは思えないんだ。俺と同じように、奪われた人生を少しでも取り戻そうとしていたのかもしれない」
「それでも、間違いなく悪魔だったわ」
そう言うと、リリィが足を止めて真っすぐに俺の目を見たため、仕方なく俺もその場に留まる。
彼女の主張の通り、どれだけの事をされてきたからといって、ルークの犯した罪が正当化されるわけではない。
そんなことは、俺だって分かってはいるのだ。
「…伝説の賢者様なら、悪魔を人間に戻してくれたりもするのかねえ」
俺は全てを見透かしてしまいそうな青い瞳から目を逸らし、その先にある星空を眺めながら大きく息を吐いた。
◇
青年は夢を見ていた。
幼かった頃の彼が、友人と青い空の下を駆ける夢を。
優しい夢はすぐに覚めてしまったが、それでも十分だった。
獄中。
独房には小さな椅子とテーブル。
月光に照らされたそのテーブルの上には、彼の研究を纏めたものが置かれていた。
正しい使い方をすれば、いつか難病の治療すら叶うかもしれない。
青年は何をしても罪の取り返しがつかない事は分かっていたが、今からでもできる限りのことをしようと、あの炎に触れた瞬間に誓っていた。
彼は傲慢にも、自分の夢を見つけていたのだ。
青年が寝ずにぼんやりしていると、この時間には絶対に開かないはずの通路の扉が、甲高い音を立てた。
固い足音はコツコツと響きながら、徐々に、確実に近付いてくる。
止まったのは、勿論青年の独房の前だった。
「あの人の理想のために、迎えに来たわよ。子犬ちゃん」
独房の堅牢な扉はいとも簡単に真っ二つになった。
背丈よりも大きな鎌を細い手にぶら下げた、紫色の長髪を靡かせる妖艶な女は、虫を見るような冷ややかな眼で青年を見下ろしている。
しかし、青年は意外にも、彼女の目に怯える素振りは見せなかった。
「ごめんなさい。僕はもう他人を手に掛けることはできません」
「今更何を言ってるのよ。笑わせないで」
女は馬鹿にするように声を上擦らせたが、それでも青年の瞳の奥に生まれた覚悟は揺るがない。
「これだけの罪を背負っても、それでも僕を想ってくれる人がいたんだ。…どこまでもお人好しな炎に、心が溶けてしまった」
冷たい表情の女とは対照的に、青年は困ったような笑顔を浮かべながら言った。
「そう」
刹那、女が鎌を一振りすると、格子越しの夜空を背に、呆気なく青年の首が飛んだ。
鮮黄色の首飾りは、冷たい床に落ちて割れた。
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