第一章

第2話 神と願い

 光に目が眩み、目を閉じる。

 落下する衝撃に備えたが、地面を踏み締める感覚が先に脳に伝達した。

 

 体には力が上手く入らず、その脱力感を埋める様に自分の中に何かが取り込まれていく感覚があり、何とも気持ちが悪い。


「あなた、誰?」


「ひぃ」


 急な背後からの声に間抜けな悲鳴が出てしまった。

 反射的に目を開けると青々と生い茂る緑色が目に突き刺さってくる。


 扉のあるはずの方を恐る恐る振り返ると、銀髪の女性が不思議そうにこちらを窺っていた。


「ちょっと、大丈夫?」


 紫色のローブを纏ったその女性は右手に握った大きな杖に重心を寄せ、少し呆れたように青い目を細めている。

 光が跳ねているかのような純白の肌はどこか浮き世離れしたようにすら見え、向かい合った俺はその幻想的な姿に激しく緊張してしまっていた。


「グルル…」


 突如現れた異世界人の不思議な魅力に見惚れていると、俺の鼓膜を低い唸りが揺らした。


「そこ、危ないわよ」


 女性に促され振り返ると視界の奥に映ったのは牙がセイウチの様に発達した人と同じくらいの大きさの熊だった。

 元の世界には存在しない凶悪な生物の姿に思考が停止する。

 

 動かなければならないと分かっているのに脱力してしまっている体が重い。

 脳を走り回る焦りに急かされ、ぐるぐると世界が回転していく。


「お前だけでも逃げろ…!」

 

 背後の女性を庇おうと両手を広げた俺に熊が突進してくる。

 死を覚悟した俺は意識を諦めた。



 ◇



 重苦しい鐘の音で目を覚ますと、そこは知らないベッドの上だった。


 元の世界では希少になっていた優しい木の匂いが嬉しい。

 体を起こすと、ステンドグラスから差し込む光が青白く右肩を照らしていた。


 横を見ると先程出会った銀髪の女性が椅子の上で寝息を立てている。

 整った顔立ちだが、口元からは滝のように涎が垂れていた。

 首から下げた十字架がテーブルに生まれた人口の水たまりに浸かってしまっている姿を可哀想に思い、つい感想が口を突く。


 「…罰当たりだな」

 

 彼女の顔をよく見ると、目の下にクマがあり少しだけ頬もこけている。

 それでも美しいと感じさせるあたり、やはり恵まれた風貌だ。


「もう食べれないかも」


 呟きを聞くに、自分が十字架を浅漬けにしているとは知らず幸せな夢を見ているようだ。

 何とも呑気な寝顔である。


 しかし、状況を見るに気絶した俺をこの女性がここまで運んでくれたのだろう。

 美人は悪人が多いと家庭教師に教わっていたが、彼女は悪い人間ではないのかもしれない。


 俺は礼を言うために彼女を起こそうと手を伸ばした。

 

「おかわり…むにゃ」


 寝ぼけた彼女はまたも幸せそうに呟く。

 それを聞いた俺は、伸ばしていた手を制止させ、ゆっくりと引っ込めた。


「こりゃ起こさない方が良さそうだな」


 恩人から至福の時間を奪ってしまうのは忍びない。

 俺は汚れた十字架を袖で拭いてから、ドアノブを音が出ないよう慎重に捻った。


「…なんともまあ嫌味な場所だな」


 部屋から出るとそこは広々とした礼拝堂だった。

 奥にあるステンドグラスを背負うように、巨大な女神像が陣取っている。

 彼女に堂々と見下ろされると、無駄に図体のデカい親父と喋っているときの事を思い出させられ、勝手ながら非常に不快だ。


「珍しい服を着ていますね。新しい信徒さんかな?」


 女神像を睨み返していると背後から髭を蓄えた小太りの中年男性に話しかけられた。

 聖職者だと一目で分かるような白い衣服を着た彼は、善人であると主張するように上手く微笑んでいる。


「いえ、倒れていたところを銀髪の女性に助けていただきました」


「なるほど、これもアポレイン様の導きでしょう」


「アポレイン様?」


 俺が首を傾げると、男は女神像の方に顔を向けた。


「我々の崇める偉大な神の名です。炎を司る命の象徴でもあります」


 女神像を注視すると細部まで丁寧に彫刻されており、まるで名高い芸術品のような高級感を漂わせていた。

 薄っすらと浮かべている笑顔がなんとも憎たらしい。


「命の象徴ね…」


 周囲を見渡すと煌びやかな装飾品が礼拝堂を彩っており、神聖な教会というよりは富豪の道楽に見えてしまう。

 教祖の作り物の様な表情と相まってあまりにも胡散臭い。


「私は教祖のセドリクです。入信すれば神の加護によって人生は豊かになり、魔法もより強力になるでしょう」


 セドリクと名乗った男の口から当然のように発せられた尖った単語に置いて行かれそうになってしまい、俺はすぐに聞き返す。


「魔法?そんなものがあるんですか?」


「…その年で魔法の存在を知らないだと?もしかしてこいつ、転移者か」


 質問を聞いてセドリクが怪訝そうにしているのを見るに、どうやら軽率な発言をしてしまったようだ。

 しかし、吐いてしまった言葉は飲み込めないため、俺は無理やり開き直った。


「優太といいます。よければそういった魔法の常識などを教えていただけませんか」


 そう頼んだ瞬間彼の顔は面倒そうに少し歪んだが、他の信徒の存在を気にしてか、表情をすぐに繕い説明を始めた。



 ◇



 この世界には神に与えられし力、『魔法』が存在する。

 大陸を脅かしていた巨大な竜ですら一撃で葬った、奇跡の力だ。


 魔獣と呼ばれる害獣が大気中に放出している魔素まそというエネルギーを、体内の魔力で変換すれば炎、水、風など様々な属性の魔法が繰り出せる。


 イメージをすることで魔法が発動するが、効率的に魔法を出すための方法が研究され、常識となっている。

 テンプレートな方法は魔術書で学ぶことができるらしい。


 そして、セドリクから受けた説明の最後には、神を心から信じることで加護を得ることができ、その神が司る属性の魔法が強化されるという、信用不可能な勧誘文句も付け加えられていた。


「教祖様!」


 長話をしていると、目を覚ました銀髪の女性がセドリクを見つけて駆け寄ってきた。

 彼女は俺とは違い敬意に溢れた目をセドリクに向けている。


「リリィ、今月もあなたの寄付が一番の高額でしたよ。これからもこれを続けて下さいね」


「ありがとうございます教祖様!」


 セドリクとの香ばしいやり取りを見せたリリィと呼ばれた女性は俺の瞳に視線を動かした。

 目が合うとやはり目の下のクマに不健康な印象を受けてしまう。


「倒れたときは心配したわ」


「そういえば、突っ込んできたアレはお前が倒したのか?」


「魔法は得意なの。杖さえあればあの程度の魔獣はイチコロよ!」


 彼女が俺の問いかけに胸を張ると、十字架も嬉しそうに跳ねた。

 熊ですら退治できるとなるとこの世界の魔法という力はかなりの威力が出るのかもしれない。

 しかし、民間人がそこまでの力を行使できるとなると旅路の治安がとても不安だ。


「そうか、助けてくれてありがとう。…では、そろそろ俺は失礼します」


 俺はリリィに感謝を伝え、二人に軽く頭を下げてから背中を向ける。

 すると、最後に俺の後ろでセドリクが手を合わせた。


「アポレイン様のお導きがあらんことを」


 馬鹿馬鹿しい。

 無断で神の導きを祈られる不快感を嚙み砕きながら、俺はその場を後にした。

 足音を響かせストレスを発散しながら階段を降り広間を抜け、出入り口の大きな扉を勢いよく押し開ける。

 しかし、外の空気と赤い光を浴びて、ハッとした俺は呆然と立ち尽くしたまま呟いた。


「しまった、金が無い」


 扉の奥に一瞬見えた夕日の姿は美しかったが、如何ともしがたい事実を思い出した俺の足がその場で固まってしまい、一度開いた扉はそのまま自重で閉まった。

 俺は宿も金も無いという至極当然の問題に、ここに来てやっと気が付いたのだ。


 野宿をしようにも、武器すら持たない俺が魔獣に襲われれば、抵抗すらできずに殺されてしまうだろう。


「…よし、神様の靴でも舐めるとするか」


 ここは形だけでも入信し、この教会の寝室を貸りて朝を待つのが一番無難な立ち回りだと判断した俺は踵を返した。


 どう見ても胡散臭い聖職者にだろうと、存在しない神にだろうと宿のためなら媚びて見せよう。


 プライドなんて食えないのである。



 ◇



 セドリクの居た場所に戻ろうとすると、リリィの大きな声が聞こえてきた。


「教祖様、私のおばあちゃんはいつ治していただけるのですか!」


 俺が物陰から様子を伺うと、声を荒げたリリィは痩せた腕でセドリクに縋りついていた。


「もちろんアポレイン様はあなたのおばあさまの事を見て下さっていますよ。今も生き長らえているのはアポレイン様が力を振るって下さっているからです。神に望み過ぎてはいけません」


「わかっています、でも!」


 リリィは俺がいたときには見せなかった悲痛な表情を更に歪めると、セドリクの袖を強く握り直した。


「おばあちゃんは衰弱していくばかりで、いつ死んでしまうか…」


「これからも祈りと感謝をしっかり形にし続ければ、いずれ神がおばあさまを必ず救ってくださるでしょう。ですから安心してください」


 そう言って彼はぎらついた指輪を填めた手でリリィの頭を優しく撫でた。

 彼女が顔を上げないのをいいことに、セドリクはニタニタと気色の悪い笑みを浮かべている。


 十字架を拭いてやったのは、どうやら間違いだったようだ。

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