第一章

第2話 神と願い

 光に眩んだ目を閉じる。

 五感の内の一つを断ったせいで、敏感になった鼻腔は自然の大らかな匂いに満たされていた。

 

 床や地面に落下する痛みを覚悟していたが、先に脳に伝達したのは足を踏み締める感覚。

 いつの間にか、俺は異世界の地に立たされていたのだ。

 

 何故か体には力が上手く入らず、その脱力感を埋める様に空気中の何かが体内へ取り込まれていく感覚がある。

 給油中のガソリン車にでもなったようで、何とも気持ちが悪い。


「あなた、誰?」


「ひい」


 急な背後からの声に間抜けな悲鳴が出てしまった。

 反射的に開いた瞼の奥には、青々と生い茂った植物が形成する一面の自然が飛び込んでくる。


 都会に住んでいた俺にとっては珍しい景色だったが、それを楽しむ余裕など無い。

 破裂しそうな心臓を手で抑えながら扉のあるはずの方向へ恐る恐る振り返ると、そこでは銀髪の女性が不思議そうに此方を窺っていた。


「ちょっと、大丈夫?」


 紫色のローブを纏ったその女性は右手に握った大きな杖に重心を寄せ、少し呆れたように青い目を細めている。

 光が跳ねているかのような純白の肌と銀の長髪は何処か浮き世離れしており、向かい合った俺はその幻想的な姿に見惚れてしまっていた。


「グルル…」


「そこ、危ないわよ」


 忘れていた呼吸を急いだ俺は、女性に視線で促された通りに振り返る。

 すると視界に映ったのは、セイウチの様に発達した牙を震わせながら唸る、人間と似た大きさの熊だった。

 

 元の世界には存在しない凶悪な生物の敵意に、思考が停止する。

 行動しなければならないと分かっているのに、脱力感の抜けない四肢は思うように動かない。

 頭の中を走り回る焦りに急かされ、そしてぐるぐると世界は回転していった。


 もしじいちゃんがこの場に居たならば、どうするだろうか。

 最後の最後にそんな考えが頭をよぎった俺は、混乱した脳と腑抜けた体に気合いという名の鞭を打つ。


「お前だけでも逃げろ…!」

 

 そう言った俺は、両手を広げながら一歩前に出た。

 結局解決案など浮かばなかった俺は、銀髪の女性だけでも逃がすため、囮になる事を決めたのだ。

 

 もっと上手い方法があるのかも知れないが、俺には分からない。

 それでも、諦めて何もせずに死ぬような事だけは、じいちゃんなら絶対にしない。

 

 的と化した俺に向かって、猛った熊が突進してくる。

 死を悟った俺の意識は、虚しく途切れた。




 ◇




 重苦しい鐘の音で目を覚ますと、そこは知らないベッドの上だった。


 高性能な機械まみれの自室と違い、家具や建物から来る優しい木の匂いが嬉しい。

 起こした体は、ステンドグラスから差し込む青白い光に照らされていた。


 横に置かれたテーブルの上で、先程出会った銀髪の女性が寝息を立てている。

 まじまじと見てもやはり顔立ちは整っていたが、その口元からは滝のように涎が垂れていた。

 悲しい事に、彼女の首に下がった十字架がテーブルに生まれた人口の水たまりに浸かってしまっている。


 「…罰当たりだな」

 

 つい、感想が口を突く。

 信心深さからは掛け離れているため、彼女が信じる宗教にどんなルールがあるかなど想像も付かないが、十字架を涎まみれにすれば少なくとも説教位はされるはずだ。


 彼女の顔をよく見ると、目の下にクマがあり少しだけ頬もこけている。

 それでも他人に美しいと感じさせるあたり、やはり恵まれた風貌だ。


「もう食べれないかも」


 寝言を聞くに、現在進行形で十字架が浅漬けになっているとは知らず幸せな夢を見ているようだ。

 そう思うと晒されている寝顔が更に呑気なものに映ってしまう。


 どうやら状況を見るに、気絶した俺をこの女性が此処まで運んでくれたのだろう。

 美人には悪人が多いと家庭教師に教わっていたため、誤った知識を改めなければならない。

 

 冗談はさておき、礼くらいは言っておかねば。

 そう思った俺は彼女を起こそうと手を伸ばした。

 

「おかわり…むにゃ」


 寝ぼけた彼女がまたも幸せそうに呟く。

 それを聞いた俺は肩に触れそうになった指を制止させ、そしてゆっくりと引っ込めた。


「こりゃ起こさない方が良さそうだ」


 恩人から至福の時間を奪ってしまうのは忍びない。

 俺は汚れた十字架を自らの服の袖で拭いてから、ドアノブを音が出ないよう慎重に捻った。


「…なんとまあ、随分嫌味な場所だな」


 部屋から出るとそこは広々とした礼拝堂だった。

 奥にある巨大なステンドグラスを背負うように、更に巨大な女神像が陣取っている。

 これだけ堂々と見下ろされると、無駄に図体のデカい親父と喋っているときの事を思い出させられてしまい、勝手ながら非常に不快だ。


「珍しい服を着ていますね。新入りの信徒さんかな?」


 無意味に女神像を睨み返していると、物柔らかに話しかけられた。

 声の主は、髭を蓄えた小太りの中年男性。

 聖職者だと一目で分かるような白い衣服を着た彼は、善人であると主張するように巧く微笑んでいる。


「いえ、倒れていたところを銀髪の女性に助けていただきました」


「なるほど、これもアポレイン様の導きでしょう」


「アポレイン様?」


「我々の崇める偉大な神の名です。炎を司る命の象徴でもあります」


「なるほど、命の象徴ねえ…」

 

 神として紹介された女神像は細部まで丁寧に彫刻されており、まるで名高い芸術品のような高級感を漂わせていた。

 こういった石像のデザインは一般的な美的センスから外れがちなイメージだったが、これに関しては十人の内九人は美人と評するだろう。

 

 何度見ても偉そうで、薄っすらと浮かべている笑顔が憎たらしい。

 綺麗事を並べながら、心中では人間など端た存在だと笑っているに違いない。


 周囲を見渡すと煌びやかな装飾品が礼拝堂を彩っており、神聖な教会というよりは富豪の資産と呼んだ方がしっくりくる。

 男の作り物の様な表情と相まって、余りにも胡散臭い空間だ。


「私は教祖のセドリクです。入信すれば神の加護によって人生は豊かになり、魔法もより強力になるでしょう」


「…魔法だって?そんなものがあるんですか?」


 セドリクと名乗った男の口から聞き慣れない単語が当然のように発せられ、聞き流してしまいそうになった俺は慌てて聞き返した。

 すると、彼の細い眉がピクリと動く。


「…その年で魔法の存在を知らないだと?もしかしてこいつ、転移者か」


 質問を聞いてセドリクが怪訝そうにしているのを見るに、どうやら軽率な発言をしてしまったようだ。

 吐いた言葉は飲み込めないので、こうなったら開き直るしかない。


「優太といいます。良ければその魔法とやらについて、常識を教えていただけませんか」


 自己紹介と共に俺が頼み事をした瞬間、セドリクの顔は僅かに面倒そうに歪んだが、他の信徒の存在を気にしてか、表情をすぐに繕い説明を始めた。

 



 ◇




 この世界、モノ大陸には神に与えられし力である『魔法』が存在する。

 大陸を脅かしていた巨大な竜ですら一撃で葬ったと言われる、奇跡の力だ。


 まあ、奇跡とは言っても実際には原理がある。

 魔獣と呼ばれる害獣や大陸に植生する植物が大気中に放出している魔素まそというエネルギーを体内の魔力で変換すれば、炎、水、風など様々な属性の魔法が繰り出せるという寸法だ。


 イメージの変化で魔法も形を変えるため自由度は高いが、歴史を積み重なる中で効率的に魔法を出すための方法が研究され、初歩的な部分は世の中の常識となっている。

 テンプレートな方法は、魔術書と呼ばれる本で学ぶことができるらしい。


 そして、セドリクから受けた説明の最後には、神を心から信じることで加護を得ることができ、その神が司る属性の魔法が強化されるという、信用不可能な勧誘文句も付け加えられていた。

 

 ここまで安い詐欺が成立しているということは、この世界にインターネットは存在しないのだろう。


「教祖様!」


 長話をしていると、目を覚ました銀髪の女性がセドリクを見つけて駆け寄ってきた。

 彼女は俺とは違い、敬意に溢れた眼差しをセドリクに向けている。


「リリィ、今月もあなたの寄付が一番の高額でしたよ。これからもその努力を続けて下さいね」


「ありがとうございます、教祖様!」


 セドリクと香ばしいやり取りを繰り広げたリリィと呼ばれた女性は、俺の瞳へと視線を動かした。

 目が合うと、やはり目の下のクマに不健康な印象を受けてしまう。


「倒れたときは心配したわ」


「そういえば、突っ込んできたアレはお前が倒したのか?」


「魔法は得意なの。杖さえあればあの程度の魔獣はイチコロよ!」


 問いかけた俺に対してリリィが胸を張れば、首の十字架も嬉しそうに跳ねた。

 

 熊ですら退治してしまうのだから、魔法の威力はかなりのものだろう。

 民間人がそこまでの力を行使できるとなると、旅路の治安がとても不安だ。

 

 とはいえ、いつまでもこの場に留まっているわけにはいかない。

 大切な目的を達成するために異世界にまでやってきたのだから。


「そうか、助けてくれてありがとう。…では、そろそろ失礼します」


 リリィに感謝を伝えた俺は、二人に軽く頭を下げてから背中を向ける。

 歩き出した俺の後ろで、セドリクが手を合わせた。


「アポレイン様のお導きがあらんことを」


 馬鹿馬鹿しい。

 無断で神の導きを祈られる不快感を無言で嚙み砕きながら、俺はその場を後にした。

 

 足音を響かせることでストレスを発散しながら階段を降り、広間を抜け、出入り口の大きな扉を勢いよく押し開ける。

 扉の間から外の空気と赤い光を浴び、ハッとした俺は呆然と立ち尽くしたまま呟いた。


「…しまった、金が無い」


 一瞬見えた夕日の姿は美しかったが、如何ともしがたい事実を思い出した俺の足が固まってしまい、開いた扉はそのまま自重で閉じる。

 俺は宿も金も無いという至極当然の問題に、此処に来てやっと気が付いたのだ。


 野宿をしようにも、武器すら持たない俺が魔獣に襲われれば、抵抗すらできずに殺されてしまうだろう。

 明日の夕刊に乗るのは勘弁だ。

 新聞がこの世界に存在しているのかどうかは疑問だが。


「…よし、神様の靴でも舐めるとするか」


 今は形だけでも入信し、この教会の寝室を貸りて朝を待つのが無難だと判断した俺は、大胆に踵を返した。


 どう見ても胡散臭い聖職者にだろうと、存在しない神にだろうと、宿のためなら媚びて見せよう。


 プライドなんて、煮ても焼いても食えないのである。




 ◇




 セドリクの居た場所に戻ろうとすると、大きな声が聞こえてきた。


「教祖様、おばあちゃんはいつ治していただけるのですか!」


 思わず物陰に隠れた俺は様子を伺う。

 声を荒げたリリィは、痩せた腕でセドリクに縋りついていた。


「もちろんアポレイン様はあなたのおばあさまの事を見て下さっていますよ。今も生き長らえているのはアポレイン様が力を振るって下さっているからです。神に望み過ぎてはいけません」


「分かっています…でも!」


 リリィは俺がいたときには見せなかった余裕の無い表情を更に歪め、セドリクの着ている服の分厚い袖を強く握り直す。


「おばあちゃんは衰弱していくばかりで、いつ死んでしまうか…」


「これからも祈りと感謝をしっかり形にし続ければ、いずれ神がおばあさまを必ず救ってくださるでしょう。ですから安心してください」


 そう言ったセドリクは、ぎらついた指輪を填めた手でリリィの頭を優しく撫でた。

 彼女が顔を上げないのをいいことに、セドリクはニタニタと気色の悪い笑みを浮かべている。


 十字架を拭いてやったのは、どうやら間違いだったようだ。

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