異世界捜索～俺のじいちゃんどこ行ったか知りませんか！～

序章

第1話 黄金の扉

　幼少期の記憶はどれもモノクロだ。

　どこを切り取ってもぼやけていて、思い出したくないものばかりだった。

　そんな過去を唯一彩ってくれたのは、透明な瓶に詰め込まれた七色の飴玉。

　じいちゃんはゆっくりと屈むと俺の下瞼を拭い、反対の手に持っていた瓶の中から青い飴を一つくれた。

「優太、お父さんには内緒だ」

　そう言ったじいちゃんの表情は、向けられたことのない優しさに溢れたものだった。

　じいちゃんにもう一度会うためにならなんだってやる。

　異世界にだって行ってやる。

　◇

　牢のような格子状の窓から差し込む光が朝を告げる。

　また憂鬱な一日が始まるのだ。

　ベッドから降りた俺は液晶の付いた板に乗り身長と体重を計測し、浮かび上がった数値をタブレットに入力すると、今と大した違いの無い筋量や体脂肪率の目標値が画面に映し出される。

　その細かい数字の羅列に嫌気が差した俺が目を逸らして鏡を見ると、少し筋肉質な体の上でつまらなそうに目を細める、見慣れた短髪の青年がこちらを見ていた。

　トレーニングウェアを着てから自室を出て顔を洗い、ダイニングルームに向かおうとすると廊下で待機していた数人のメイドが俺に朝の挨拶をする。

「おはようございます、優太様」

「おはよう」

　俺は丁寧に下げられた幾つかの頭に義務的に挨拶を返しながら仰々しいカーペットの上を進み、ダイニングルームにたどり着いた。

　いつも数人でしか食事をしないのにもかかわらず無駄に広い場所だ。

　高級なテーブルの上の高級な食器の上に高級な食事が乗せられ並んでいる。

　しかし、シェフが毎日作ってくれる色とりどりの料理も今や無機質に感じてしまっていた。

「優太の身長が前回測定時より零点三センチ伸びている。シェフに作る量を調整しておくよう伝えろ」

「かしこまりました、旦那様」

　対面に座っている見ているだけで疲れてしまいそうな眼光の鋭い大男は龍宮寺士道、大企業を束ねる龍宮寺グループの総裁であり俺の父親だ。

　表情の変化は一切無く、真っ白に光る眼鏡の奥で何を考えているのか分からない。

　おそらく俺が親父から受け継いだ部分は黒い髪と茶色い瞳だけだ。

　今日と同じように、生まれてこの方無感情な言葉しか向けられたことがなかった俺は、彼を親父とは呼んでいたものの、心の底から親だと思うことはもう無くなってしまっていた。

「優太、昨日渡したスケジュールは頭に入っているか」

「わざわざ毎日聞いてくるなよ」

　親父に普段通りの味気ない質問をされ、俺はわざと敵意を向けたが、彼は全く表情を変えてくれない。

　どれだけ意味も無く突っかかろうと、細い眉は同じ位置で固まったままだ。

「わかっているならいい」

　それだけ言うと、親父は何事もなかったかのように席を立つ。

　俺の小さな反抗はあっさりと躱されてしまった。

「たまには叱ってみろってんだ…!」

　奥歯でキャベツの葉をすり潰しても、大して味はしない。

　その後無言でつまらない料理を食べ切った俺は足早に自室に戻ると、これから始まる人生初の大脱走に備えた。

　◇

　俺は親父の指定した英才教育を幼少期から叩き込まれ、十六になった今でも過酷な訓練を受け続けている。

　子供に必要な遊びの時間、社会性を培うための学校の時間まで全て費やし、学問から武術までその道のプロに近い能力を強制的に与えられた。

　そんな尖った教育のおかげで身体能力と知能に特化した代わりに、交友関係が全く無い孤独な人間になってしまった。

　纏った筋肉も明晰な頭脳もひけらかす相手がいないのでは実に面白くない。

　友人がいない代わりに家族に愛されているというわけでもない。

　六歳の頃親父に一度だけ遊ぼうとお願いしたことがあるが、

「そんな時間はない」

　と即答されたのを覚えている。

　もう、父親でも何でもなかった。

　勿論母親を頼ろうとしたことは何度もあったが、いつだって親父の横で悲しそうな顔をするだけで、今や居ても居なくても一緒の存在だ。

　そんな不幸な俺に優しさをくれたのはじいちゃんだけだ。

　普通の家族を羨み毎日泣いていた幼い俺の頭をしわしわの手で撫でてくれる、髭を蓄え細い杖を突いたじいちゃんとの記憶は俺の心の支えになっていた。

　しかし、八年前じいちゃんは行方不明になった。

　認知症を発症していたらしいのだが、徘徊しそのままどこかへ消えてしまったらしい。

　思えばあの時が唯一親父の焦った顔を見た瞬間だった。

「命に代えても見つけ出せ！」

　家の評判を気にしていたのであろう、その後胸を押さえて倒れ込むほど部下に向かって激しく叫んでいた。

　しかし、捜査は虚しくじいちゃんは見つからない。

　俺が独りの部屋でどれだけ神に祈っても、見つからなかった。

　◇

「いよいよだな」

　俺は今日、初めての脱走をする。

　小さい頃一度だけじいちゃんに連れて行ってもらった隠れ家に向かうのだ。

　もしかしたらじいちゃんがそこにいるかもしれないなどという都合のいい期待を捨てきれず、何とかメイド長の良心に訴えかけ説得し、人生に一度しか訪れないであろうチャンスを作り出すことに成功した。

屋敷の裏口を開けると周囲を監視してくれていたメイド長が細い眼鏡を輝かせている。

「二度と当主様を騙すようなことはできません。これが私のできる精一杯です」

「迷惑をかけてごめん。ありがとう」

「…当主様もお考えあっての常の教育です。帰ったら是非一度しっかりと話し合って下さいね」

　そんな時間はない、と言われるに決まっている。

　俺は意味のない提案を聞き流して振り返り、塀を素早くよじ登って乗り越えた。

「坊ちゃま！？戯れはおやめください！」

　塀の外にいた警備員に気付かれ制止されたが、意味もなく数年かけて教え込まれた護身術を駆使してねじ伏せる。

　いや、俺はきっとこの時のために全く興味の無い技術に磨きをかけてきたのだろう。

「悪い！クリーニング代はクソ親父に請求しておいてくれ！」　

　俺は倒れた警備員に謝りながら塀の外を駆け抜けると、用意してもらった黒いタクシーに乗り込んだ。

「どこまで行かれますか」

　老いた運転手に行き先を伝える。

　今までの人生で一度だけ経験した塀の外、隠れ家は山奥。

　十年以上前の記憶にもかかわらず、道のりを間違える事は無かった。

　車窓から外を眺めると楽しそうに談笑しながら通学する学生がガードレールの奥に見えた。

　彼らは学校に向かう道程をもっと憂鬱に思うべきだ。

　そうでないと、不平等ではないか。

「今日は天気が良くて少し眩しいですね。カーテンを閉めましょうか？」

「お構いなく」

　運転手に言われた通り窓の外は眩し過ぎたため、眺めるのを止めて大人しく眼を瞑った。

　今日は天気が良過ぎる。

　◇

　山の麓でタクシーを降り追手がいないのを確認すると、時が経ち獣道となってしまった思い出の道を上っていく。

　枝に触れ傷ができていく感覚があるがそれを確認することもせず急ぎ足で三十分程歩き、最後の茂みを踏み越えると視界が一気に開けた。

　雲一つない青空の下、少し遠くに古ぼけた丸太小屋が見える。

　じいちゃんとの思い出の隠れ家は、当時から全く形を変えずそこに在り続けてくれていた。

「あの頃のままだ」

　言葉にし夢ではないことを噛み締めた俺は、居ても立ってもいられず玄関扉の前まで少し躓きながら走った。

「じいちゃん！居るんだろ！」

　久しぶりに大きな声を出したため声がひっくり返ってしまった。

　それでも、滑稽な叫びに対する返事はない。

　俺は一度大きく深呼吸をし、錆びついたドアノブに手をかけた。

　事実を受け入れる覚悟を決め手首を捻り少し力を入れると、耳障りな軋む音を引きずりながら扉がゆっくり開いていく。

　光が差し込んだ丸太小屋の中には誰もいない。

　しかし、悲しみに襲われるより先に、驚きや恐れのような緊張感を誘う感情が前に出た。

「何だよこれ…！」

　広い部屋の奥に見えたのは高さ四メートルほどの黄金の扉。

　様々な彫刻が施されているそれは唸り声のような駆動音を微かに鳴らしながら、自ら浅葱色（あさぎいろ）の光を放っていた。

　これがおそらくこの世のものでないことを感じ肌がピリピリと痛む。

　俺は暫く扉から視線を逸らすことができなかったが、慌てて息をすると狭まっていた視野が戻ってきた。

　扉との間に落ちていた一枚の紙を見つけた俺は、それを拾って目を通す。

「これは…じいちゃんの字だ」

　優太

　ここに来れるのはお前だけだろう。

　私は万能の薬を探しに異世界へ向かう。

　お前は来るな。

　埃まみれの置手紙を読み終えた俺は、高鳴る胸を左手で抑えつけた。

「この扉の向こうに、じいちゃんが…！」

　簡素な文章は突飛な内容ではあったが、こんな冗談を言うような人ではないことは分かっている。

　万能の薬などという到底あるとは思えないものを探しているということは、現代医学ではどうしようもない難病に罹ってしまったのかもしれない。

　来るなとはっきり拒絶されているが、じいちゃんに会うことを夢見ていた俺には、進まない選択肢など存在しなかった。

　とはいえそこがどんな世界なのかは絵本すら読んだことのない俺には想像もつかない。

　俺は心の準備をしようと目を閉じて大きく息を吸い込む。

　すると、息を吐き出す前に扉の開く音がした。

　黄金の扉が独りでに開くと、光が吸い込まれたかのように部屋は闇に包まれ、背後に存在していたはずの出入り口も、差し込んでいた光も消滅する。

　扉から発せられる低音以外の環境音が消え失せ、人類が俺一人になってしまったような感覚に陥った。

「野暮なことするなよ。逃げる気なんてさらさらねえ」

　俺を見下ろす仰々しい扉に逃がさないぞと言われたような気がした俺は、気圧されまいと無理に強がった。

　じいちゃんにもう一度会うためにならなんだってやる。

　異世界にだって行ってやる。

　万能の薬も手に入れて、じいちゃんを喜ばせてやる。

　こうして俺は冒険の一歩目を踏み出した。

　◇

「ごきげんよう」

　扉を潜ると眩しくて暗い空間の中で、何（・）か（・）に声をかけられた。

　尋常ではない雰囲気に息を飲んでしまったが、何とか声を絞り出す。

「お前は誰だ」

「私は『意思』。契約をしよう。帰りは何人だ」

　人にも獣にも光にも見えるそれの奇妙な圧に押し負けた俺は、極力答えを急いだ。

「帰り…？じいちゃんと俺の二人だ」

「二人だな。帰りの扉は超（・）越（・）し（・）た（・）者（・）のみが開くことができる。忘れるなよ。…さて、お前を動かす根源は何だ」

　意味の分からない問いを投げかけられた刹那、頭の中からじいちゃんに飴玉を貰った時の記憶が『意思』の前に引きずり出されていく。

　その全てを晒し終えると、この記憶の呼称が俺の口から自然と零れた。

「優しさだ」

　体が勝手にそう答えると『意思』は馬鹿にしたように笑い出した。

「これを、この記憶を優しさとしているのか！いよいよ本当に哀れだな！」

　笑われていることに苛立ちを覚えるが、何を笑われているのかもわからない。

　満足したのか、『意思』はゆっくりと捩れた体を元に戻した。

「…いいだろう。目を背けたままどこまで行けるか見ていてやる。飛び切りの喜劇を期待しているよ」

「意味わかんねえこと言ってんじゃねえ！」

　恐怖や不安を振り払うようにそれに殴りかかったが、手応えは全くない。

　勢いのままに体がすり抜けた瞬間、俺の視界が黒に染まった。

「ちょっと話過ぎたな。タイムオーバーだ。お前がまともじゃなかったら、また会えるだろう」

　俺が何かに背中を強く押されると、感覚が九十度回転し、突如として落下していくような浮遊感に襲われた。

「ようこそ、クソガキ」

「落ちる！？うわあああ！」

　思わず叫んでしまったが、こんなところで死ぬわけにはいかない。

　俺は離れていきそうになる意識を何とか抱きかかえた。

　視界の奥の方で黄金の扉が開いていく。

　悲鳴を引きずりながら輝く扉を通り抜けた俺は、眩い光に向かって垂直に落下した。