第6話 静烈・番外「イノ助」

イノ助という男は

農家の七男に生まれ育った


文字通りの

貧乏子だくさんの貧しい家であり

長男は位牌持ちとして嫁を貰い

わずかしかない家の田畑を

親からもらい受けられたが

他の兄弟には

分け貰える田畑など有るはずも無く

兄達は次々と村を出て行った


家に残り朝から晩まで畑仕事をしても

飯が食えるだけで小遣いも貰えはしない

イノ助は

生まれてから一度も銭を手にした事がない


――   ――   ――


十五の春に兄達を見習い

村を後にし町へ出た


頼った先は一番自分を可愛がってくれた

三番目の兄のもと


三兄さんけいに連れられ

口入屋で仕事を紹介してもらい

普請場ふしんばで力仕事をした

十五の少年にはきつい仕事である

何度もを上げそうになったが

三兄に励まされ、何とか耐え忍んだ


そして初めての給金を貰った日

イノ助は生まれて初めて銭に触れ

これが銭かと体を硬直させ心を震えさせた


それからも真面目に働いていたが

一年たち二年たち町の生活に慣れると

酒と博打を覚え

のめり込んでいった

心配した三兄が

金を貯めるように言い聞かせても

聞く耳を持たずに遊びほう

そのうち仕事も休みがちになり

宵越よいごししの金は持たない

自堕落な生活が身に付いた


――   ――   ――


そんなイノ助も三十半さんじゅうなかばで

惚れた女ができた


客引き飯屋で働く女で

家の借金を返すために

飯屋の二階で女郎まがいの仕事をしている


女は

足を洗ってイノさんの嫁になりたいと

首に腕を回し耳元で囁く

足を洗うには借金を返さなければならない

イノ助は女の為に真面目に働き金を貯めた

だが女は

イノ助より先に

借金を肩代わりした男へと嫁いでしまう


イノ助は自暴自棄になったり

自分が生まれて来た事さえ

恨めしく思った

仕事にも行かずに

再び酒と博打に明け暮れ

金も無くなり

四十の時ついに長屋も追い出された


頼った先は三兄の所であったが

さすがに三兄も

イノ助の自堕落ぶりに怒り

おめぇは一度でも

死んだおっ母に孝行したのか

愚痴一つ言わねえで育ててくれたおっ母に

着物の一枚でも買ってやった事があるのか


三兄に言われてイノ助は返す言葉が無く

下を向き

おら自分ばっかり遊びほうけて

おっ母に何一つ孝行しなかった

あぁおっ母に

旨いもんを食わしてやればよかった

着物の一枚でも買ってやればよかった

おらは親不孝もんだ

たった一人のおっ母を大事に出来なかった

大馬鹿者だ

と喉を絞らせ言葉を吐きながら涙を流した


その様子を見て三兄は

おめぇが心を入れ替えて働くと約束するなら

奉公先を紹介してやると言う

給金は少ないが住込みで飯を食わしてくれる

但し武家の下男だから真面目に働かなければ

直ぐに追い出される

そうなれば後は物乞いしかないんだぞ


❝物乞い❞と言う言葉に

イノ助は、はっとした

物乞いになるなどと

それ以上の親不孝は無い

何としても真面目に働き通して

あの世にいる母親を安心させよう

今から自分にできる孝行はそれだけだ

性根を入れ替えて生きると心に誓った


――   ――   ――


新しい奉公先の仕事は

主人の登下城の付き人に

薪割り水汲みや、畑仕事である

農家に生まれ育ったイノ助は

畑仕事が上手いので

重宝がられた

主人の二人の娘もイノ助と一緒によく働くし

「イノ爺」と気さくに接してくれた


酒も博打も忘れ

ただ黙々と働く

そんな生活を続け

気付けば年月は経ち

やがて上の娘は商家へ嫁いでいったが

イノ助の日常は変わりなく

ただ黙々と

毎日毎日働き続ける


だが、とんでもない事が起きた

嫁入り前の主人の次女が子をはらんだ

これにはイノ助も驚いたが

何事も

見ざる聞かざる言わざる

でなければならない

それが奉公人の暗黙の掟であるし

自分には関係無いこと

ただ真面目に働ければそれでいい

と考えていた


次女は主人の姉の所に預けられ

男子を産んだ

イノ助は定期的に女主人に頼まれ

次女に届け物をした

そんな事を繰り返すうちに赤子も成長し

イノ助になつ

イノ爺、イノ爺と呼ぶようになった


外出を禁止されている男子が不憫になり

訪ねる度に

手作りの木彫りの動物や玩具を持って行くと

曇りのない澄んだ瞳を輝かせながら

「イノ爺、ありがとう」

と大事そうに受け取り夢中で遊ぶ子が

可愛くてしかたなくなってきた


自分は誰からも必要とされない人間だ

居ても居なくてもいい人間だ

そう思って生きて来たイノ助であったが

子に

「イノ爺、イノ爺」とまとわり付かれ

帰る時には

「イノ爺、帰らないで」

と泣いて袖を引かれる


たとえ相手が幼子でも

自分を慕ってくれる他人が居ることが

嬉しくて堪らなかった

そして

おら正太朗せいたろう様のためなら何でもしてやる

命だって惜しくは無いと心に誓った


――   ――   ――


イノ助は一人

台所で座り込む

息が出来なくなるほどに

胸を締め付けられながら


今宵、

正太朗せいたろうが母親から引き離され

どこぞの金持ちの養子に出されるのだ


「これでいいんだ

 坊は金持ちの養子になれば

 何不自由なく育ててもらえる」

と自分に言い聞かせるように独り言を言う


だが頭の中では

イノじいイノ爺と笑いながらなつ

正太朗せいたろうの顔が浮かぶ


「おら農家の七男に生まれて

 田畑も分けてはもらえんかった

 金も無くて嫁も貰えんかった

 嫁さ貰えてたら

 子ができて孫がいだろうによぉ」


じっとうつむいていた顔を上げ


「駄目だ駄目だ、

 子供とおっ母様とを引き離すなんぞ

 そんな地獄に落とすような事

 したらいけねえ

 おら坊のためなら

 こんな命なんぞ、ちっとも惜しくねっぇ」

外はもう日が傾きだしている


――   ――   ――


イノ助は包丁を手に

手足を縛られ閉じ込められている

正太朗せいたろうの母の元へ行き


いまひもを切るで、じっとしてろ

ええか、声を出してはなんねえぞ

旦那様に気付かれるで


と言い聞かせ

持ち出した包丁で手足の紐を切り

口の猿轡さるぐつわを外してやった


この事が主人に知られれば

自分は斬り捨てられるかも知れない

それでも

正太朗せいたろうを母の元へ返してやれるなら

死んでも構うものかと

心を決めていた


裏木戸から裸足で外へ出ると

加乃恵が助けを呼んでくると言うので

イノ助は先に

正太朗せいたろうが引き渡される

多摩伊たまい川の桟橋を目指し

力の限り走った


桟橋では正太朗が泣き叫んでいる

嫌だ、離して、お家に帰りたい

母上、母上と必死に叫ぶ


イノ助は待ってくれ

その子を返してくれと

正太朗を抱き抱える男に頼み

もみ合いになったが

男に腹を蹴られ

その場にうずくま


正太朗はイノ爺、イノ爺と手を伸ばし

イノ助に助けを求めながら

舟に乗せられ

そのまま舟は桟橋を離れてしまった

茫然と川面を行く舟を見詰めるイノ助


そこに顔見知った

宍粟しさわ家の息子が現れ

川へ飛び込み正太朗せいたろうを取り戻した

イノ助が宍粟しさわの息子に

あんたが坊の父親かと尋ねると

そうだと言う

イノ助は殴ってやりたい気持ちの反面

父親ができたなら

もう坊は

母親から引き離される事はないのだと

安堵し嬉しかった


――   ――   ――


正太朗せいたろうは宍粟家の孫として

母親両親と暮らし

イノ助は毎日のように

正太朗を訪ね遊んでやっていたのだが

宍粟家が東京に移り住む事となった


イノ助は正太朗せいたろうのために

木彫りの虎を彫った

正太朗が病にならないように

辛い目に合わないように

立派に成長するようにとの願いを込めながら


宍粟しさわ家が東京へ立つ日

見送りに行くと

正太朗せいたろう

イノ爺も一緒に行こうと袖を掴んでくる

その言葉は涙が出るほど嬉しかった


出来る事なら自分も東京へ行きたい

だが宍粟家の迷惑になるだろうと

行きたい気持をぐっとこらえた


正太朗せいたろうに木彫りの虎を渡し

イノ助は旅立つ後姿が見えなくなるまで

手を合わせ

坊が無事でありますようにと祈り続けた


――   ――   ――


しばらくすると

東京の正太朗せいたろうから

お前に手紙が来たと

主人の正胤まさたねから渡された

生まれて初めてもらう手紙

しかも送り主は正太朗せいたろうである

イノ助は嬉しかった

がしかしイノ助は字が読めない

そこで正胤まさたねに頼み読み聞かせてもらった


正太朗せいたろうの手紙はつたない文字で

いのじい、げんきですか

せいたろうは、げんきです。

とだけ書かれていたのだが

イノ助には何よりの便りであり

宝である

その手紙を木箱の中に大切にしまった


主人の正胤まさたねから

字の読み書きを教えてもらい

東京に住む正太朗せいたろう

生まれて初めて手紙を書き送った

ぼう、げんきですか

いのじいも、げんきです。


それからイノ助と正太朗せいたろう

毎月一回、手紙の遣り取りをした

イノ助は正太朗からの手紙は

全て木箱にしまい

毎朝

今日も坊が元気であります様にと

手紙の入った木箱に手を合わせる


――   ――   ――


正太朗せいたろうが七歳になると

東京の宍粟家から

悲しい知らせが届く

正太朗せいたろうの父が死んだとの知らせだった


イノ助は、やっと両親が揃い

幸せになれた正太朗せいたろうが父を亡くし

どんなにか悲しんでいるかと思うと

食事も喉を通らないほど心配で仕方ない

今すぐにでも東京へ

正太朗せいたろうの元へ行ってやりたい

との気持ちがつの

イノ助は意を決し

奉公先の主人と女主人に

坊の所へ行きたいからと暇乞いを申し出た


主人は

お前が居なくなると話し相手が無くなる

と渋ったのだが

女主人は

イノ助が正太朗のそばにいてくれれば

私も安心だ、是非そうしてくれと

逆に頭を下げ頼まれた


こうしてイノ助は生まれて初めて

七夕戸たなとの地から足を出し上京した


――   ――   ――


東京では

宍粟しさわ家の営む飯屋の手伝いをし

毎日、忙しく働いた

だが忙しさは何の苦でも無かった


正太朗せいたろうの成長を

日々その目で見て実感できる事が

イノ助の働く

生きるかてであり

何よりの喜びであった


同じ事を繰り返す日々を過ごし

やがて宍粟しさわの大旦那が亡くなり

大女将も亡くなり

店は正太朗の母とイノ助の二人で

細々とあきなっていた


正太朗は成人すると

亡父の元長州藩士の旧友から推薦を受け

文部省の役人となった


息子の立派に成長した姿を見届けると

安心した様に正太朗せいたろうの母は急死した


その後は店を閉め

イノ助は正太朗の身の回りの世話した

長い間

何年もの間

毎日、毎日、休むことなく

正太朗の世話に明け暮れた


――   ――   ――


人は誰にでも

いつか必ず

その時は訪れる


元気に働いてたイノ助にも

前触れ無く突如

その時が訪れた

まるで古木が折れるが如く


往診に来た医者は

病気では無く歳のせいだ

よくもこの歳まで働いてたものだ

と感心しながら帰って行った


イノ助は自分の部屋で床に就き

その脇には正太朗せいたろうが寄り添う


イノ助は自分の命が間もなく尽きるのを

十分なほどに分かっていた


正太朗せいたろう

そこに有る木箱を取ってくれと頼み

木箱を手にすると

これは自分の宝だから

あの世まで持って行きたい

死んだら燃やしてくれと言う


正太朗は木箱を開け

あっ、と声を上げた


これは幼い頃に私が送った

手紙の束じゃないか

こんな物が宝なのかと驚いた

イノ助は

後にも先にも

自分に手紙をくれたのは坊だけだ

と笑い

おらの人生なんぞ、虫けらみたいなもんだ

だけど坊のお陰で

心の中は幸せだった

生まれてくれて有難うなぁ坊


正太朗せいたろうはイノ助の手を握り

私の方こそイノ爺がいてくれて

どんなに心強く安心だったか

礼を言うのは私の方だ

今まで有難うな、イノ爺

と涙を流した


おら、死んだら坊のっ様に

うんと文句を言うつもりだったけど

あの世で会ったら

坊が立派なお役人様になって

綺麗な嫁さん貰って

子供が三人もできた事を話してやるだよ


正太朗せいたろう

うん、うん、とうなず


最後の言葉を残し

歴史に名を残す事も無い

取るに足りない一人の男の

たっとき人生が静かに幕を降した


おら、何も孝行できなかっども

五十年間

文句も言わず真面目に働いた

おっ母に少しでも孝行になっただろうか

おっ母は喜んでくれただろうか

おっ母は褒めてくれるだろうか


イノ助  享年九十三歳


     ―― 終 ――




















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静烈・じょうれつ 桶星 榮美OKEHOSIーEMI @emisama224

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