第5話 饅頭
「母上」
と一目散に膝に飛び乗りしがみ付く
「
怖い思いをさせてごめんね、ごめんね
もう二度と怖い目には合わせませんからね」
それまで青い顔をして震えていた加乃恵は
力一杯に
「有難うございました
この御恩は一生忘れません」
と頭を下げた
「何を言うのです
我が子を守るのは当たり前のことです
それよりもお聞きしたい
なぜ子ができたと
私に知らせずにいたのです」
「あの日、
済まないと謝られたではないですか。
私はお
丞吉郎様は違うのだと知り
でも、
それでも貴方様を
だからこそ丞吉郎様に
迷惑を掛けたく無く、黙っていたのです」
自分はあの日、謝ったのか
加乃恵と結ばれて嬉しかったのに
何故、何を謝ったのか
あっそうだ
確かに済まないと言った
だが意味が違う
「それは違うのです
私は子供の頃から加乃恵さんが好きで
いつか妻にと願っていたのに
夫婦になる前に結ばれて
順序が逆になり申し訳ないと思い
それを謝ったのです
あの後、二人で結婚はいつにするか
相談しようとしたのに
加乃恵さんが急に帰ってしまい」
それを聞いても加乃恵の心には疑念が残る
それが本当ならば手紙の一つでも
くださるだろうに、と
加乃恵の父、
二人の遣り取りを黙って聞き
いったい何故こんな事になったのかと
理解に努め
互いに睨み合い一触即発の状態
加乃恵の膝の上で良く眠っている
ここで
「当時、娘は十六歳だったのですよ
よくも出会い茶屋に連れ込んだもんです」
その言葉に応戦するように
「まだ十六と言うのに
出会い茶屋へ入るなど
恥じらいの無いことです」
「娘が悪いと
これは男の責任でしょう
責任逃れされるのですか」
「付いて行く方も付いて行く方だと
言っているのです」
妻達の言い争いに
巻き込まれまいと遠くを見つめる
「おやめください
あの日のことは全て私の責任です」
の言葉に
「加乃恵さん、勘違いをさせ申し訳無かった」
「勘違いと仰せですか。
あの日以来一度も会いに来ては下さらず
東京へ行かれていた間も
手紙一つ下さら無かった
私はずっと心の奥で貴方様からの便りを
お待ちしていたのに」
「それは二人は結ばれた仲なのだから
何も言わなくても私の心はお分かりだと
帰りを待っていてくれているものと
信じていたからです」
「言わなければ分かりませんよ、
どうして殿方は
言わなくても分かるなどと思い込むのか」
「本当ですよ、
感謝しているなら有難うと言うべきです
こっちは毎日休み無しで
家族の世話に明け暮れているのに
口から出ないんですかね」
「まったく同感ですわ
言わなくても分かるだろうなんて
勘違いも
何故か敵対していた
同じ責める相手を見つけ
意気投合し
口撃の
ここで
「ところで、その子は
本当に
とその場を凍りつかせる発言をした
その言葉は
下級士族の娘を嫁に迎えたく無い
との心の現れだ
その時、寝ている
足をばたつかせ着物がはだけ
「見ろ、この子の太股には
そして立ち上り自分の太股の黒子を指差し
「
親子三代で同じ場所に黒子とは奇遇だ
それにこの寝顔
本当は
息子の子に違いないと分かってはいたのだが
それでも素直に認められずにいた
「
初めて
「勿論です
「これは今日まで一人耐え忍んだ
我が娘、加乃恵の代わりだ」
と怒りの声を上げながら
すると今度は
しかし心配に反し
「この
中途半端な
これは
と拳で顔を殴り
「これは危うく母と引き離されかけた
と肩で息をするほど力を込め
もう一発殴った
両家の父から殴られた
鼻から血を流し
ふらふらしながら膝を揃え
「全て私の不徳が招いたこと
誠に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げた
「
どうか加乃恵殿を
畳に額を付けながら願い出た
「それはなりません」
又しても場が凍り付く
「加乃恵、私は覚悟を決めました
たとえ貧しくとも
一緒に
世間など気にする必要はありませんからね」
加乃恵は母の決意に驚いた
「それでも、決めるのは加乃恵、お前です
まだ
母が幸せならば子も幸せなのですから」
桜の雨に濡れた日の出来事は
言わば自分の早合点が原因だった
愛しい人の子だから
父親の名を明かさなかったのは
愛しい人を困らせたくなかったから
本当は
今でも心の底で慕っている。
だがしかし、
その後の音沙汰なしの対応には腹が立つ
手紙一つでも寄せてくれれば
悩まずに済んだし
父母に無駄な心配をかけずに済んだし
正太朗は人目を気にせず
普通の子のように
自由に野原で河原で遊ぶ事が出来たのにと
母として腹が立つ
「
加乃恵の凛とした声に
嫌な汗をかきながら
「はい」
と応えた
「私は今でも丞吉郎様をお
ですが母として
我が子に不憫な思いをさせたのは
この上なく
今後は何も言わなくても分かるだろう
などと言うお考えは
お捨ていただきたい」
「はい、捨てます。きっぱり捨てます」
「約束ですよ。
私だけではなく
丞吉郎は加乃恵の目を真っ直ぐに見て
腹の底から
「お約束します、夫として父として」
と誓った
加乃恵は
「父上、母上、今日まで我儘を通し
ご心配をおかけ申し訳ございませんでした
私は
と頭を下げた
「
今日までのこと全ては私の不徳
改めてお詫び致します。
一生涯、大切にすると誓います
どうか加乃恵さんとの結婚を
お許しください」
と願い出
「私が責任を持ち
しかと約束を守らせますので
どうか青谷殿
加乃恵殿を
「承知致しました
宜しくお願い致します。
それでよいな
「加乃恵が望むなら異存はございません
但し、約束を
お返し頂きますのでご承知おきください」
「うおお、うおお」
突如大きな泣き声が響く
その泣き声の主は
今しがた
「これで坊はもう
ずっと父っ様とおっ母様と一緒だぁ
良かった良かったぁ」
なおも大声で泣き続けるイノ助
その泣き声で
そして、すくっと起き上がり
イノ助に歩み寄って
泣いているイノ助の顔を覗き込む
「どうしたのイノ爺
どこが痛いの、泣かないで
小さな体でイノ助を抱きしめる
「痛いの痛いの飛んでいけ
イノ爺から飛んでいけ
痛いの痛いの飛んでいけ
イノ爺から飛んでいけ」
イノ助は
「坊のお陰で、もう痛くねぇだ
おらずっと
いっぺんに吹っ飛んだがねぇ
もうどこも痛かねぇ
有難うなぁ
坊はうんと優しい子だぁ
だから坊はこれから
うんと幸せになるんだでぇ」
嬉し涙を流しながら
偽りの無い笑顔のイノ助であった
――――――――――――――――――
家族で話し合い
東京へ移住して
明治五年の春
四歳になった
親子三代で東京へと旅立った
旅立ちの日は
そしてイノ助が見送った
「イノ
とイノ助の袖を引く
イノ助は
こんなにも自分を慕ってくれる坊が
生まれて初めて
他人を無条件に
愛おしいと思う感情を知る事ができたのだ
「おらは行けねえだよ
坊が東京へ行ったら
だから、
おらが坊の代りに優しくてやらねえと」
手作りの木彫りの虎を渡した
「虎は一番強いんだ、
だから坊も強い男になるんだでぇ
おら
――――――――――――――――――
元薩摩藩士、村瀬の紹介で
職人街の人通りの多い道に面した場所に
店を構える事ができた
果たして上手くいくか
と心配していたが
店を始めて間もないころ
酒に酔った客同士が喧嘩を始めたのだが
怒った
喧嘩をする男らの首根っこを掴み
そのまま勢い良く外に放り出し
「商売の邪魔だ、喧嘩は外でやれ」
と怒鳴りつけたので
放り出された男らは大人しくなり
それを見ていた客たちは拍手喝采で大喜び
あの店の大女将は
腕っぷしが強くてきっぷが良くて肝がすわてる
と江戸っ子達の間で評判となり繫盛した
―― ―― ――
明治十年
これからの時代は学問が大切だ
教養有る者が人の上に立ち
日本を近代化し発展へと導く
との方針に従い
九歳に成長した
「ただいま戻りました」
「おお、正太朗帰ったか。
今日は
父上が饅頭をくれるぞ
ささっ一緒に挨拶をいたそう」
「はい、お爺様」
と店から住まいになる奥へと入る
『
店から奥に声を掛ける
「うん、遊ぼう」
出てきた
「いいなあ
「一人だけずるいぞ」
と
「お前たちにも
挨拶をしておいで」
言われた子供達は
嬉しそうに饅頭を手に出てきてた
そこへ丁度
買い物から戻ったイノ助が出くわし
「みんな若旦那に饅頭貰っただか
いかったなぁ坊
気い付けて遊んでくるんだで」
「うん、行ってきます」
饅頭を手に元気よく外へ飛び出した
「おらぁよ、若旦那には
言いたい事が山ほど有るけんど
今は饅頭だけ
イノ助の言葉に
目を合わせて笑う
――――――――――――――――――
今から三年前の
明治七年に
町中で怒鳴りながら刀を抜く士族が
幼子を抱える母親に
切りかかろうとする場に遭遇した
親子を
手当て
余りにも突然で早すぎる夫の死に
加乃恵は深すぎる悲しみと寂しさで
涙も出なかった
そして
一生涯、大切にすると誓ったのに
夫婦として過ごしたのは
三年にも満たないではないか、と
だが他人を助ける為に己の身を投げ出すとは
優しい旦那様らしい死に方だ
やはり私は
一片の悔いもない
夫を心から尊敬し誇りに思った
一ヵ月後
イノ助が突然
東京へやって来た
「おら坊を守るためなら
命を差し出すと誓っただけど
その父っ様が死んじまってよぉ
坊が心配で居ても立っても居られなかった」
それでわざわざ東京まで来てくれたのかと
加乃恵は感謝したのだが
驚いたことにイノ助は
「大旦那さん、おらを
何でもするでぇ置いてくれ」
と
いったい何を言い出すのかと
加乃恵は戸惑ってしまった
「坊の為に命を差し出すと心に誓った
おら、つまんねぇ男だども
自分が誓ったことを
だから、おらに坊を守らせてくれ」
「イノ助さん、それを忠義心と言うんだよ」
「この心は忠義心て言うんかい」
「つまらない男なんかじゃ無いさ
イノ助さん、あんたは立派な男だ
どうだろう
イノ助さんが居てくれれば助かる
一緒に正太朗を見守ってもらっては」
「そうですね、男手も欲しいですからねえ」
「では決まりだ
イノ助さんには此処で働いてもう
加乃恵、お前も承知してくれるね」
こうしてイノ助は
東京の宍粟家に住みだした
店は尚更に繫盛した
市中で人々が噂した、
あそこの女将はてぇした肝だが
若旦那も
他人の親子を助けるために死ぬなんざぁ
てぇした男だ
肝屋を
江戸っ子の名が
そして、屋号は
いつの間にか
明治政府が帯刀禁止令を発令したのは
明治九年であった。
――――――――――――――――――
今日は
月命日には必ず
家族は月命日を饅頭の日と呼ぶようになった
開店前の客の居ない店で
「加乃恵には感謝している
嫁にきてから
姑の小言に
青谷家に戻らず
「まあ、何ですか私を鬼姑のように言って
どうせ
と加乃恵に媚びを売ってるんでしょう」
いつの間にか後ろに立っていた
首を
「
その様なつもりで言ったのでは無い」
「そんなこと心配せずとも
加乃恵はどこへも行きませんよ
加乃恵はもう私達の娘なんですから」
郁の言葉に加乃恵は微笑みながら
「はい、
たとえ追い出されても何処にも行きません
私は
と返した
奥からイノ助が大声で
「早く
おらが全部食っちまうだで」
と言い
「そりゃ大変だ」
と笑うので
郁も加乃恵も笑い出す
その笑い声は
静かな悲しみと
ささやかな幸せを乗せ
ゆっくりと店の中を
—— 完 ——
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