第4話 抱擁

明治四年六月下旬


丞吉郎じょうきちろうは帰郷が決り

元長州藩士の山瀬やませに別れの挨拶に行くと


宍粟しさわこれから日本は変わるぞ

 乗り遅れるなよ」


徳川幕府が無くなり新政府が誕生し

版籍奉還はんせきほうかんが行われ

大きな変化が起きたのに

一体これ以上なにが変わると言うのか


「俺は、このまま東京に残るから

 何かあれば、いつでも頼って来いよ」

「ああ、頼りにしてるさ。

 世話になったな山瀬」


「早く想い人を嫁に迎えに行けよ」

「言われなくともそうするさ」


この四年の間

丞吉郎じょうきちろうは一度も帰郷できず

両親へは手紙で近況を知らせていたが

加乃恵には一度も手紙を書いていなかった


直ぐに帰れると思っていたのに

四年も過ぎてしまった

加乃恵はきっと自分の帰りを

首を長くして待っているだろう

淋しい思いをさせてしまったと自省じせいする


――   ――   ――


郷里に戻ると

丞吉郎じょうきちろうの母のいく

一人息子の無事な姿を見て

安堵のあまり嬉し涙を流し

父の弥兵衛やひょうえ

「立派に務めを果たし大したものだ」

と嬉しそうに褒め称えた


その日の夜は親類縁者が集い

丞吉郎じょうきちろうの帰還と

新政府での活躍を祝った


丞吉郎じょうきちろう

自分など何の活躍もしてはいないし

そもそも七夕戸たなと藩など

新政府は鼻にもかけていない

ただの小間使いなのだと

本当の事を言いたかったが

田舎の小さな藩で生まれ育った者達には

言っても分かるまい

と言葉を吞み込んでいた


翌日には

四年前に東京へ派遣されていた者等が

揃って城に呼ばれ

藩主から直々の

「この度はご苦労であった

 其方等そなたらの働きにより

 七夕戸藩も面目が立った」

とのねぎらいの言葉を聞きながら

派遣者達は違和感を覚えた

丞吉郎じょうきちろう

このままでは藩の未来は無い

危惧きぐする


――   ――   ――


城からの帰り

大喜おおき屋の前を通りかかると

丞吉郎じょうきちろう様ではありませんか」

と店の者に声を掛けられた

相手が誰だかわからず戸惑っていると


兼直かねなおです、

 青谷あおや家の兼直でございます」


丞吉郎じょうきちろうは加乃恵の弟が

商人になつているのに驚いた


「兼直か、一体そのなりはどうしたのだ」

「色々とございまして

 それよりも東京でのお働き

 ご苦労様でございました。

 どうぞお上がりください

 姉の志眞乃も喜びます」


志眞乃と丞吉郎じょうきちろうは同い年で

青谷家の姉弟とは旧知の仲で遠慮は無いし

何と言っても

加乃恵がどうしているか聞き出せる

と考え

「うむ、志眞乃さんに挨拶するか」

大喜おおき屋へ寄ることにした


奥に通され志眞乃と兼直かねなおから

なぜ兼直が大喜屋で働きだしたか

経緯いきさつを聞いていると

店主で志眞乃の夫の弘太こうたも挨拶に来た


弘太は

東京の活気はどうなのか

いま東京では何が流行っているのか

と真剣に尋ねるその様子に丞吉郎じょうきちろう

新しい時代の到来を察知し

生き残るために順応しようとする

市井しせいの人々のたくましさを感じた

それに比べ

いまだに位に胡坐あぐらをかきふんぞり返る

武士の愚かさに嫌気がさした


弘太こうた一頻ひとしきり話し

丞吉郎じょうきちろうは本題に入る


「加乃恵さんは、お元気かな」

「ええ、元気にしているようです」


兼直かねなおの答えに畳み掛け


「しているようとは、どうゆうことか」

と尋ねた

まさか他へ嫁いだのかと不安になる


「姉はずっと深覚みかく庵におりますので」


兼直の言葉に志眞乃が

「叔母上が体調を悪くし、加乃恵は看病のため

 長く深覚みかく庵におります」

と付け加えた


それを聞いて丞吉郎じょうきちろう

安堵の様子をしたのは明らかであった


もし志眞乃が

加乃恵が正太朗せいたろうを産んだ事情を知っていれば

丞吉郎じょうきちろうのその様子から

何かを感づいたであろうが

志眞乃も兼直も

加乃恵が父親の知れない子を産んだなど

知らされていないし

夢にも思わぬ事だったので

丞吉郎じょうきちろう

幼馴染を気に掛ける優しい人だと感銘した


――   ――   ――


大喜おおき屋を後にしての帰り道

丞吉郎じょうきちろうは浮かれていた

加乃恵が待っていてくれると信じてはいても

万が一他の男に嫁いでいるやもとの不安が

まったく無かったと言えば噓になる


加乃恵さんは待っていてくれた

あの日

二人で過ごした一時は

壊れようのない固い絆なのだ

早く迎えに行きたいが

病の叔母上の世話をしているなら

今すぐに嫁ぐのは無理であろう

いや、その前に世話役を立て

青谷あおや家へ申し込まねば

いや、まずは両親に話して許しをもらわねば


丞吉郎じょうきちろうの気掛かりは

母のいくである

いく宍粟しさわ家の一人娘で

気が強く気位が高い

婿養子の父、弥兵衛やひょうえは頭が上がらず

家の事は全ていくが決める

丞吉郎じょうきちろうの嫁は格式高い家から

が郁の意向である

加乃恵を嫁にしたいと言ったら

たぶん一悶着起こるのは間違いない

さて、どの様に母を説得するかと

頭を悩ませるうちに日は経っていく

が、丞吉郎じょうきちろうは焦らず吞気に過ごしていた


―――――――――


明治四年七月十四日

政府により

日本中の士族を揺るがす行政改革が交付された


『廃藩置県』である

全ての藩が無くなり統合され県となるのだ

ここ七夕戸たなと藩も例外ではない


丞吉郎じょうきちろうは東京での

「これから日本は変わるぞ、乗り遅れるなよ」

との山瀬の言葉を思い出しながら

藩が無くなれば

藩士達は職を失う現実を突き付けられ

なるほど、

こりゃ大変な事になったもんだと苦笑いをし

東京の山瀬へ手紙を送った

【いずれ家族を引き連れ東京で暮らそうと思う】


――   ――   ――


青谷あおや家では兼直かねなおが十七歳になり

元服げんぷくを祝うために

加乃恵が数年ぶりに帰宅した


生まれてから一度も

母と離れた事が無い正太朗せいたろう

心配であったが

叔母の深幸が

私もウタも

正太朗せいたろうが生まれた時から共に居るのです

安心して任せて

久しぶりに家族と過ごしておいで

と言うので

心置きなく弟の兼直の元服を祝いに戻った


昼から始まった祝いの席には

両親の正胤まさたね方子まさこ

長女の志眞乃と婿の弘太こうた

加乃恵と身内だけが集い

質素ではあるが和やかに行われた


正胤まさたね

「藩が無くなるとは本当であろうか」

「政府が言うんだから無くなるでしょうね。

 心配しても仕方ないです

 いっそのこと

 無くなった方がさっぱりしますよ」

方子まさこはあっけらかんと言い放つ


「父上、母上、

 私が必ず商人あきんどとして一人立ちしますので

 その日までお待ちください」


兼直が力強く言うと弘太こうた


「義兄の贔屓目ひいきめでは無く

 兼直は頭の回転が速く

 人当たりも良く勤勉で

 将来が有望なのは保証致します」


それを聞いた方子まさこ

「やはり私の目に狂いは有りませんでした

 この際、士族の位なんぞ捨てて

 平民になりましょう」

と言いだし正胤まさたねは面食らい

息子の兼直かねなおまでも

「私もそうすべきだと思います」

と言うので更に面食らい

「まあ、いずれは」

と心許なく返す


その後も歓談が続き

志眞乃の口から

先日、丞吉郎じょうきちろう

大喜おおき屋へ来た話が出た


兼直かねなお丞吉郎じょうきちろう

「ご立派になられて」

弘太は

「気さくで良いご人でいらっしゃる」

と語った

加乃恵は懐かしい丞吉郎じょうきちろうの名を聞き

胸中を震えさせる

誰にも悟られぬように

静かにはげしく


――   ――   ――


祝宴が終わり

志眞乃と加乃恵は久しぶりに

二人きり、並んで宴の後片付けをした


加乃恵は志眞乃しまの

「私は母上の欲のために

 商家へ嫁がされた姉上が

 お気の毒で仕方がないのです」

と言う

志眞乃は、その言葉に驚いた


「加乃恵、貴女は勘違いをしていますよ。

 母上は娘が可愛いからこそ

 商家へ嫁がせたのです、

 自分の様にお金に苦労をさせたく無いと」


姉の話がにわかに信じ難く

怪訝そうな顔をする加乃恵に


「母上は一度なりとも大喜おおき屋に

 金子の無心をした事はありません」

「でも盆と暮れに、青谷家の皆に

 上等な着物を届けているではないですか」


「あらは旦那様が

 呉服屋の身内が粗末な身なりでは

 あきないに差しさわると

 母上に押し付けているんです」

 

そうだったのか、

そうとは知らずに

今まで母を、

卑しい人だと軽蔑していた自分を

恥ずかしく思い

母に申し訳なく思った


「確かに母上は我儘わがままよね

 私達、子供の頃から

 その我儘に振り回されて。

 でも、そのお陰で

 しゅうと殿の小言なんて右から左よ」

と言い

志眞乃は声を上げて笑った


――   ――   ――

 

片付けが終わると 

志眞乃は夫の弘太こうたと弟の兼直をと共に

大喜おおき屋へと帰った


兼直かねなお

一日でも早く商いを身に付けたいと

今は大喜おおき屋で

他の奉公人達と寝食を共にしている


加乃恵は正太朗せいたろうを心配し

慌てて深覚みかく庵に戻ろうとするが

正胤まさたねから

其方そなたはもう

 深覚みかく庵へは行かずともよい

 今日からはここで暮らすのだ」

と言われた


加乃恵は父の意図が吞み込めずに

正太朗せいたろうとここで暮らすのですか」

と尋ねた


「正太朗は今宵、養子に出す。

 其方はまだ若い

 子供のことは忘れて嫁に行け

 此れからは自分の幸せだけを考えるのだ」

「父上は初めから

 その腹積もりだったのですね

 まさか深幸みゆき叔母上までもが

 私を騙したのですか」


「姉上も其方そなたと正太朗が大事だからこそ

 わしの申し出を受け入れてくれたのだ」

「正太朗は自分の命より大切な息子です

 養子になど出しません、お断り致します」


加乃恵は生まれて初めて父に食って掛かった


「それでは聞くが、

 これから先どうやって一人で育てる

 大事な我が子に

 人並みの暮らしをさせられるのか」

「どんな苦労をしても

 必ず立派に育ててみせます」


「加乃恵よ

 其方は大事な娘で

 正太朗はわしの大事な孫だ

 だからこそ正太朗は

 裕福な家で不自由なく育って欲しい」

 

方子まさこは下を向き

夫と娘の遣り取りを黙って聞いている


孫の正太朗は方子まさこにとっても

命より大切だし

何より

我が子と引き裂かれる娘の気持ちを思うと

同じ母として

無く涙を浮かべる

だがこれが、

娘と孫の生末いくすえを守る最善なのだと

心を鬼にしてえる


「父上は孫が大事とおっしゃいますが

 一度も会ったことが無いではありませんか

 大切なのは孫でも娘でも無く

 世間体なのでございましょ」


加乃恵のこの言葉に方子まさこ


「それは違う、

 父上が正太朗に会わなかったのは

 会えば情が移り里子に出せ無くなる

 それでは娘親子を不幸にしてしまうからと

 会いたいのにこらえていたのです」


そして方子まさこは加乃恵の手を握り


「父上は情に厚く

 優しい方だと分かっているでしょ

 今なら間に合います

 正太朗の父親の名を教えなさい」


加乃恵は唇を嚙みしめ首を横に振り

「もう結構です、

 私は深覚みかく庵に戻ります」


逃げるように立ち上がる


正胤まさたねは立ち上がる加乃恵を押さえ付け

ひもで手足を縛り

口に猿轡さるぐつわを嚙ませ

イノ助を呼びつけた


障子の向こうで

事のあらましを聞いていたイノ助は

正胤まさたねと共に

加乃恵を担ぎ奥の部屋へ閉じ込めた


――   ――   ――


暗い部屋で加乃恵は

なんとかひもほどこうともが

猿轡さるぐつわをした口で


正太朗せいたろう、正太朗」

と声が枯れるほど泣き叫び続ける


正胤まさたね方子まさこはまんじりともせず

無言で向き合い夜になるのを待つ

自分達のしている事は

娘と孫の最善なのだと

心で自分に言い聞かせながら


イノ助は一人台所で座り込む

息が出来なくなるほどに

胸を締め付けられながら

「これでいいんだ、

 坊は金持ちの養子になれば

 何不自由なく育ててもらえる」

と独り言を言う


だが頭の中では

イノじいイノ爺と笑いながらなつ

正太朗せいたろうの顔が浮かぶ


「おら農家の七男に生まれて

 田畑も分けてわもらえんかった

 金も無くて嫁も貰えんかった

 嫁さ貰えてたら

 子ができて孫がいだろうによぉ」


イノ助は

じっとうつむいていた顔を上げ


「駄目だ駄目だ、

 子供とおっ母と引き離すなんぞ

 そんな地獄に落とすような事

 したらいけねえ

 おら坊のためなら

 こんな命なんぞちっとも惜しくねえ」


――   ――   ――


外はもう日が傾きだしている

紐をほどこうともが

加乃恵の髪は乱れ手首に血が滲む

それでも狂ったように

只管ひたすらもがき続ける


突然、部屋の障子が静かに開き

何者かが入ってきた

そして加乃恵の耳元でささや

「いま紐を切るで、じっとしてろ

 ええか、声を出してはなんねえぞ

 旦那様に気付かれるで」


イノ助の声だ

加乃恵は首を縦に振りうなず


台所から持ち出した包丁で

手足の紐を切り

口の猿轡さるぐつわを外すイノ助


二人は裏木戸から裸足で外へ出た


「おらこんな年寄りだけんどよ

 坊のために、うんと働いて金さ稼ぐで

 嬢様は坊と一緒に居ればいいがね」


「イノ爺、有難う

 でも正太朗せいたろう何処どこに」

多摩伊たまい川の桟橋だ。

 旦那と奥さんが話してた

 早く行かねば間に合わねえ急ぐべ」


しかし女の加乃恵と

初老のイノ助では早くは走れない

ああ、誰でもいいから助けて欲しい

と願う加乃恵

その時、

丞吉郎じょうきちろうの顔が脳裏を横切る


親切な丞吉郎ならば

きっと助けてくれるに違いない

何があっても丞吉郎には迷惑を掛けない

と誓い

今日まで

丞吉郎が正太朗せいたろうの父であることを

自分の胸にだけ納めてきた


だが今は母として

そんな事はどうでもいい

正太朗せいたろうさえこの手に抱きしめられるなら


「イノ爺、

 私は助けを呼んでくるから先に行って」

「おお、任せろ」


加乃恵は走った

宍粟しさわ家を目指し

息子を思い

必死に走った


丞吉郎じょうきちろう様、丞吉郎じょうきちろう様」


いきなり玄関に入り込み

丞吉郎じょうきちろうの名を呼ぶ加乃恵


その声にいくが出て来て


「どちら様かは存じませんが

 挨拶も無しに人様の息子を呼びつけるとは

 失礼ではないですか」

とがめる


それでも加乃恵は

我が子を守りたい気が先に立ち

恥も外聞も気に留めず


「青谷の加乃恵でございます

 丞吉郎じょうきちろう様に

 会わせていただきたいのです」

 

騒ぎに気付き丞吉郎じょうきちろうが来た

「加乃恵さん、一体どうなさったのです」


丞吉郎じょうきちろうは加乃恵の身なりに驚いた

髪は乱れ着物は着崩れ

手首には血が滲んでいる


加乃恵は丞吉郎じょうきちろうの姿を見ると

その場に座り込んでしまった 


丞吉郎は玄関のたたきへ降りて

加乃恵の背中をさす


「後生です、一生のお願いです」

「何でもしますよ加乃恵さん、

 願いとは何ですか」

正太朗せいたろうが連れて行かれてしまうのです

 正太朗がいなければ私は生きて行けません

 どうか正太朗を行かせないでください」


丞吉郎じょうきちろうは意味が分からず考える

もしや正太朗せいたろうとは加乃恵の想い人なのか


「正太朗殿と加乃恵さんとは

 どの様な関係なのですか」

「正太朗は、正太朗は私の息子です」

「えっ」


丞吉郎じょうきちろうは驚く

まさか加乃恵が他の男と

いや、そんなはずは無い

加乃恵は、そんな女では無い

そして、あの日の出来事が頭をよぎる


「つかぬ事を伺うが、その子は何歳か」


加乃恵は下を向きながら答える

「三つに成ります」

「では正太朗とは、あの雨の日の」


丞吉郎の問いに加乃恵は小さな声で

「はい」

と答えた


何という事だ、正太朗は俺の子ではないか

丞吉郎じょうきちろうは更に驚き


「なぜ知らせてくれなかったのですか

 いやそれは後でいい、

 誰に連れて行かれるのですか」

「今夜、里子に出される手筈てはずなのです

 もう時間が有りません、急がなければ」


「話は戻ってから伺います

 それで何処へ行けばいいのです」

「多摩伊川の桟橋」


「必ず連れて戻るから

 待っていてください

 母上、加乃恵さんを頼みます」


いくが声を掛ける間もなく

丞吉郎は走り出し

加乃恵は体を震わせている


――   ――   ――


丞吉郎じょうきちろうが桟橋に着くと

イノ助が茫然と立ち尽くしている


「イノ助さん、どうした」

「行っちまったぁ。おら止めたのに

 必死に止めたのに、聞いてもらえんで

 坊を乗せて行っちまった」


舟はまだ近い

舟の上からは

「嫌だ帰りたい、

 イノ爺イノ爺、母上の所に帰りたい」

と泣きながら必死に訴える子供の声がする


「イノ助さん、

 あの舟で泣いてるのが正太朗せいたろうだね」


うんうん、とイノ助がうなず


丞吉郎じょうきちろうは着物を脱ぎ捨て川に飛び込んだ

人が飛び込む音に驚き船頭は舟を止める


泳いで舟に辿り着き

へりにつかまった丞吉郎じょうきちろうが口にする


「返してくれ、その子は俺の息子だ」


その張り上げた声は

静かな川面を転がりながら遠くまで流れていく


舟が桟橋へと引き返し

着物を着た丞吉郎じょうきちろう

初めて我が子を抱いた


イノ助が

宍粟しさわの若旦那、

 あんたが坊のっさまかい」

「ああ、そうだ、そうなんだ」


「おめえさんには

 言いたいことが山ほどあるがよぉ

 でもよぉ、良かったなぁ坊

 っさまが迎えに来てくれて

 これでおっさんに会えるがね

 おらはゆっくり行くで

 若旦那は早く嬢様に坊を」


だが正太朗は生まれてこの方

父と言う言葉を聞いた事が無く

父とは何か理解できない

それ故に初めて見る丞吉郎じょうきちろうを怖がり

イノ助の袖を掴み離さない


「心配せんでも大丈夫だぁ

 父っさまてのは

 坊とお母さんを守つてくれる人の事だぁ」

イノ助は

優しい笑顔で正太朗の頭を撫でてやった


正太朗は父の意味が分からなくとも

イノ爺が大丈夫と言うのだから

大丈夫なんだ

この人が母上の所へ連れて行ってくれるんだ

と幼心にも安心し

イノ助の袖から手を離した

 

「有難うなイノ助さん。

 さあ正太朗

 母上の所へ走って帰るぞ

 しっかり掴まっておれよ」

「はい」


丞吉郎じょうきちろうは我が子をその腕に

しっかりと抱きしめ

正太朗せいたろうは小さな手で父にしがみ付く


遠くなる二人の後ろ姿を見ながらイノ助は


「良かった、良かった、良かった」

と念仏を唱えるように繰り返す。




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