第3話 霧中
十月になり
加乃恵の腹は随分と目立ってきた
毎日、愛おしそうに腹を
叔母の深幸はその姿を見るたびに
母子の
――――――――――
十月十四日
京都の二条城にて
将軍 徳川慶喜により
政権は朝廷に
それが何を意味するのか
江戸に滞在する
三百年近く続いた徳川将軍家が無くなった事で
国元へ帰れると
長州藩士の
「まだ終わらん
徳川家がある限り
本当の王政復古は成立しない」
と言う
「ではやはり、江戸で決戦か」
「徳川家を滅亡させるためにはそうなる
と聞かされ肩を落とした
――――――――――
ウタの
「おむつは何枚あっても
足りないんだがね」
の言葉に従い
生まれてくる赤子のために
加乃恵と深幸とウタの女三人で
賑やかに話しながら
おむつや産着を縫っていた
イノ助が風呂敷包みを持ち訪ねてきた
「奥様がお嬢様に届けろって
預かってきたんだ」
風呂敷包みを開けると
おむつと膝掛けが入っている
「これから寒くなるでぇ、
冷えは腹の子に
冷やさない様にと言ってなさってたがね
ほんでこれは、おらからだ」
イノ助は懐から
安産祈願の御守を出し加乃恵に手渡した
「イノ爺ありがとう。
母上が私と赤子のために」
「奥様は毎日
せっせと縫ってらしたがね」
加乃恵は
物心ついてから
何かにつけて理不尽な扱いを受け
自分は母から
初めて母の優しさに触れられた気がした
そしてイノ助の心遣いに感謝した
――― ――― ―――
十二月
もうすぐ産み月になる加乃恵は
大きな腹で家事をこなす
子供を産んだことの無い深幸は
そんなに動いて大丈夫かと心配するが
ウタに
「寝てばっかだと
腹の子が育ちすぎて難産になる
生まれるまで働かないと駄目さね」
と諭された
そして一月末
加乃恵は無事に男児を産んだ
喜ばしく有り喜ばしくも無い
娘の出産であった
赤子の名前は
加乃恵が命名した
正々堂々と
との願いを込めて
初めて孫を抱いた時
母の
「なんに可愛いことよ
目の中に入れても痛く無いとは誠だわ」
それからは
足繫く
父、
一度も孫の顔を見には来ない
それどころか情に厚い正胤が妻の
よく乳を飲み
日に日に成長し
最近では寝返りを打つようにもなり
その愛くるしさに皆が目を細めている
――――――――――
四月十一日
幕臣、勝海舟の尽力により
江戸城が無血開城された
これにより江戸は戦火を逃れたのである
開城の日は
新政府軍の雑用係に駆り出され
本来ならば
死ぬまで入ることが
今こうして江戸城内に立って居る事に
時代が変わるのだ、と深い感動を覚えた
五月十五日
旧江戸幕府により結成されていた彰義隊が
上野に集結する
これを放置する訳にはいかないと
新政府は制圧に動く
新政府軍の指揮官は大村益次郎
長州藩士の
大村益次郎なる人物は
長州征討時の指揮官の一人で
その奇策で幕府軍を追いやった
凄い人だと聞いてから
何とか一目でも尊顔を拝したいと願ったが
末席の七夕戸藩士には遠い存在で
結局、後ろ姿さえ見ることは出来なかった。
上野戦争は
新政府軍一万人に対し彰義隊四千人
加えて新政府軍は
アームストロング砲や鉄砲を使用
力の差は歴然である
それでも果敢に戦う彰義隊の姿に
そして同時に
世の変革の流れを理解できず
旧幕府のために戦う事を哀れにも感じた
上野戦争は一日で終結した
だが新政府軍と旧幕臣の戦は
それからも各地で続いていく
治安部隊として江戸に留め置かれた
新政府から見れば
七夕戸藩はどうでもいい存在であった
七月十一日
江戸は東京府と名前を変え
九月八日
年号が明治と改元された
明治維新の始まりである
明治二年六月十七日
藩民の籍は天皇に返還
土地も領民も全てが天皇のものと成り
長く続いた
士農工商の身分階級が撤廃されたのである
士族で平民になりたい者は
自由に平民なる事が許された
―――――――――
版籍奉還されてから
藩から給う
その額は大幅に減り
士族は生活に困窮した
特に下級士族は
食べる事にも困難な状態に陥り
泣く泣く武士の
平民になる者も多くいた
父、母、息子で話し合いがされた
父の
何としても
先祖代々の武士の
と言うのに対し
妻の
「徳川幕府は無くなり
私達は
武士も町民も農民も
みな
先祖より受け継いだものは大切に守る
と同時に子孫に何を残せるのかを
今、考えねばなりません」
夫婦になって以来
初めて
正胤は面食らった
「
学問所で先生方は
何と
「先生方が言われるに、
今迄に我々が経験したことのない
変革が起きるであろうから
心構えをするようにと」
「しかし私は
心構えだけでは駄目だと考えます
それでは変革に付いては行けない
いち早く行動を起こさねば
生き残れないと思うのです」
「ならば我が家も変革をおこしましょう」
と言う
一体何の事かと
「兼直、
突然の
いや命令に
長姉、志眞乃の嫁ぎ先の呉服商である
「
商いのいろはを学んでおけば
将来の選択肢が増えるし
若い頃の経験は何一つ無駄にはならない」
「わかりました母上、
青谷家の名に恥じぬよう
志眞乃姉上に迷惑を掛けぬよう励みます」
家長の
翌日には母子で
事情を聞いた志眞乃の夫である
髪型を町人風に結っている
「そこまで本気で商いを学ぶと
お預かりするのは構いませんが
兼直様、
これからは志眞乃を女将さん
私を旦那様と呼ぶのですよ、
それに始めは
掃除と使いっ走りですし
皆から兼直と呼捨てられます
それが辛抱できますか」
「はい旦那様、宜しくお願い致します」
と深々と頭を下げた
「そうかい兼直、
それじゃあ今日からお前さんは
話が
志眞乃に
「母上、加乃恵は
まだ叔母上の所から戻らないのですか」
と尋ねられ内心慌てながら
「ええ、まだ
治らないのですよ」
と噓をついた
志眞乃と兼直には
加乃恵の件を知らせていない
嫁いで三年経っても
子ができない志眞乃が
先に加乃恵が子を産んだと知れば
心を傷付けるのではないか
また、姉弟に加乃恵の身を案ずる
余計な気苦労をさせまいと
「それよりも、
私に仕立ての仕事を
させてはくれまいか」
気位の高い母が針仕事をすると言うのか
娘婿の
「お望みならば
こちらも願ったり叶ったりです
仕立の手が足りずに
困っておりましたので」
「それは有り難い。
家に戻るなり
嬉々として針仕事を始めた
「何をしておるのだ」
と尋ねた
「見ての通り着物を縫っているんです
有り難い事に
「気位の高い
町人のように働かせるなど
嘆く
「貴方が情けないなどと、
働くのは当たり前の事です
私は幼くして親を亡くし
嫌々嫁に出され
里の親戚を見返したいと
意地になっていました」
青谷家に嫁ぎたくなかったは知っていた
「でも
民は平等と教えて頂き目が覚めました
武家の上級だ下級だのと比べるのは
馬鹿馬鹿しいと心底思ったのです」
妻がそんな事を、
と
「私は、これまで家族に
自分の我儘を押し付けて来ました
貴方だって
私を妻にするのは嫌だったのに
それを我慢して
今日まで連れ添ってくれた事
この通り感謝いたします」
「何を言う、感謝しておるのは儂の方
嬉しかったのだぞ
今でも有難く思っておる
其方は大事な恋女房だ」
「まあ、そうだったのですか
私は貴方が仕方なく
嫁にしてくれたと思っていました
まったく殿方ときたら
口が足りなくていけません
好いた惚れたは
言わなきゃわかりませんよ」
「ふっふむ、そうかそう言うものか
言わんでも気持は
通じていると思っておったのだが」
夫婦になり二十五年も経って
やっと互いの気持ちを知り合え
心の霧が晴れたような
「と言う事で、
兼直は
私は仕立ての内職に忙しいのですから
これからは手の空いている貴方が
畑仕事をしてください」
「おっおう、承知した」
この頃すでに
日本中の士族は藩士としての仕事が減り
下級士族の
――― ――― ―――
明治四年初春
加乃恵は相変わらず父親の名を明かさない
いつまでも
深幸の世話になる訳には行かない
加乃恵はまだ二十歳
これから幾らでも嫁ぎ先は
幾らでも有るだろう
がしかし、
未婚の子持では嫁ぐどころか
世間から後ろ指を刺され
一生日陰の道を生きるしかない
それは孫の正太朗も同じこと
娘と孫の為に何が最善なのだろうか
加乃恵もまた
このまま
同じ年ごろの子供と遊ばせてやる事も
学問を学ばせる事もできない
いっそ正太朗を連れ
誰も知らない土地で暮らそうか
たとえ貧しくとも苦労をしても
正太朗のためなら耐えられる
自分の命より大切な息子のためならば
イノ助に届けさせた
イノ助が
いつも
「イノ
と大喜び
イノ助は深覚庵を訪ねる度に正太朗のため
手作りの木彫りの動物や玩具を持参する
それを目を輝かせながら
「イノ爺ありがとう」
と大事そうに受け取り
夢中で遊ぶ正太朗を
イノ助は可愛くてしかたない
命だって惜しくは無いと心に誓っていた
そして正胤が
こんなに可愛い孫の正太朗に
生まれてから一度も会いに訪れないことを
哀れに思っていた
「弟に委細承知したと伝えておくれ」
と伝言を頼んだが
その顔は
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