世界一嫌いな飲み物

@seidatada

第1話

私はコーヒーという飲み物が世界一嫌いだ。なぜかと問われれば、なぜだか分からない。苦い味が嫌いなのか。酸味が苦手なのか。はたまたコーヒーが飲めるようになると大人だねと言われる為であるのか。もしかするとその全部かもしれない。しかし図らずにもコーヒーを飲む機会があった。もっと正確に言うと飲まざるを得ないことがあった。

 大学の卒業旅行で友人とフランスに行ったときのことである。ノートルダム大聖堂が火事にあう前のこと、私たちは見学に来ていた。その日は清々しいくらいに晴れていて、2月にもかかわらず、すでに春を感じる陽気であった。

 ノートルダム大聖堂にはツアーで行く予定だった。日本を出発する約3時間前にツアーを申し込んでいた。もっと計画的に予定を立てるべきであった。まるで夏休みの宿題を新学期の前日に慌ててやり出す子供のようだったと今では思っている。そんなこんなで慌てて申し込んだが故に、ツアー内容をしっかりと把握していなかった。結論から言えば、そのツアーは自分で音声ガイダンスの機械を借りてノートルダム大聖堂の中を見学するというものであった。それを知らない私たちはノートルダム大聖堂の前で馬鹿みたいに立っていた。しかし待てども待てども誰も来ない。痺れを切らした私は、ツアー会社に電話をかけた。すると電話に出たのは英語を話す女性であった。パニックになった。英文学部ではあったが、ほとんど話せない。しかもこれは電話だ。身振り手振りは使えない。拙い英語で何とかツアーなのに誰も来ないと訴えると返ってきた答えが、先に申し上げた通りであった。私たちは笑った。ツアー内容を把握していない阿呆だと。

 受付で機械を借り、ついでにツアー特典の(もう火災で失われてしまったが)ノートルダム大聖堂の丸いステンドグラスを模したプラ板も貰った。ノートルダム大聖堂の中はそれはそれは美しいものであった。細かい細工が施された壁に美しいステンドグラス。日本では見たことのない、私にとって未知の美しさであった。これを決して忘れないようにカメラのシャッターを切るのと同時に、目にも焼き付けようと凝視していた。側から見れば少々怖いくらいであったと思う。

 無事見学を終えた私たちは、ノートルダム大聖堂の前で余韻に浸りながら、どれほど美しかったか語り合っていた。すると50代くらいの男性が声をかけてきた。

「写真を撮りましょうか」

私たちもノートルダム大聖堂の前でまだ写真を撮っていなかったので、お願いしますと即答した。これが彼との出会いだった。写真を撮り終わっても彼と話し込んでいた。すると不意に彼が提案してきた。

「良かったらこの辺を案内するよ」

今思うと少しばかり下心があったのでは、と思う。けれどその時私はぜひと答えた。彼は色々なところを案内してくれた。狭いが赤い階段、古びたピアノ、所狭しと置かれた本がある本屋さん。石畳のレストラン街。そのレストラン街を歩いている時に彼が優しい声で言った。

「疲れただろう、このカフェが僕のお気に入りなんだ。入って休もう」

そのカフェはフランスのカフェとはと問われれば、多くの人が想像するような様子だった。濃い茶色の床、それと合わせたような色のテーブルと椅子、カウンターにはサイフォンと数名のスタッフ。フランスに来てまだカフェに入ったことがなかった私たちは舞い上がった。なんて趣のある店内なのだろう。彼は私たちに構わず店員を呼び注文をする。

「エスプレッソを3つ」

正直私は最悪だと思った。エスプレッソと言えば、濃くて苦くてどす黒くて、絶対に飲めないと思った。少し飲んであとは残そう。そう思ったの矢先彼が言った。

「僕が奢るから遠慮しないで」

彼の一言で、飲まない選択肢は無くなってしまった。

 ついにエスプレッソが運ばれてきた。やはり夜の暗闇より黒い飲み物であった。意を決して口をつける。唇に液が触れ、少しずつ口の中に入ってくる。その時の私は嫌そうな顔をしないように必死だった。しかし飲んですぐに目を見張った。おいしい。苦味はあるが甘いと感じた。こんなに美味しいコーヒーは初めてであった。すぐに飲み干してしまった。もう一杯注文したい気持ちもあったが、同時にこれで終わりにした方が良いと判断した。一杯だけだから素敵なのだと。飲みすぎるのはナンセンスだ。コーヒーのことなんて解りゃしないのに、生意気だと思われる方もおられるであろうが、その時私はそう感じてしまったのである。ついに私もコーヒー好きの仲間になったのだろうか。

 日本に帰ってきて、またあの衝撃を味わいたいと思った。これがコーヒーを好む人の気持ちなのか。私も成長したなと思った。大人になるにつれて味覚も変わると言うからね。しかし結論から言うと不味かった。不味かったと言うとコーヒー好きの方に怒られると思うので、訂正する。苦くて酸味があって、それでいて甘さがない。なぜかは分からないが、フランスで飲んだあの味ではなかった。がっかりした。もうあの味は飲めないのかと。しか私はまたエスプレッソを飲もうと思う。あの味を求めて。

 未だあの味のエスプレッソに出会えていないので、コーヒーは苦手だ。しかし美しい記憶のおかげで、世界一嫌いな飲み物ではなくなった。

 

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