寮父の伊橋は「おまえらまた買い食いしてきやがって」と苦苦しく笑った。おれたちのほかにもアイスの袋やら容器ボトルやら棒やらを持って帰ってきた人は大勢いた。そのなかに「買い食いって高校生活の醍醐味だろ」と、特に買い食いにこだわっているふうでも、伊橋の言葉を気にかけているふうでもなく答えるひとりがあった。


 夕食の頃から雨が降りはじめた。

 雨が降ると入学式のことを思い出す。それより昔にも、雨が降っている場面なんて幾つもあったはずだろうに。


 その年の春は雨の日が特に多かった。風も平年より強かったように思う。

 四月の上旬、さくらは静かな満開も美しくも荒荒しい花吹雪も、絶景の瞬間はすっかり過ぎて、葉っぱさえ見えはじめていたが、雨のほうはその葉さえも落としてやろうといわんばかりの激しさだった。朝に起きる頃には既に降っていて、雨樋あまどいが水を吐くその勢いというのは厚い雲の向こうで陽が高くなるにつれて増していき、道端の野草や、畑の野菜や水田でのんびりしている米の若い苗も、その雨に対する表情は恵みとよろこんでいるというよりもむしろ食傷気味だといってため息をついているように見えた。


 地元を離れ知らない地での入学式だというのにあと一歩で豪雨と表したくなるようなその天気に、もうちょっと祝ってくれてもよくない?と内心苦笑した。


 地元から離れた学校のおさ。ちょっとばかりその話に期待していた。なにか気の利いたことをいってくれるんじゃないかと。けれども実際にはこれまで通ってきた小学校、中学校で聴こえた話と大して変わらなかった。すくなくとも、関東の栄えたところに建つ私立高校の長の話は、おれの記憶には残らなかった。


 式が終わると、みんなが自分の家に帰るように、そのほんの数日前にやっと引越してきた寮に戻った。金城、葉山、向日はその修燈館で同室の顔ぶれだった。去年も今年も、クラスはみんな違う。今年、文理選択で同じ文系コースを選んだ金城とも違った。全十クラス中、一から五組が文系、六から十組が理系となったが、おれは一組、金城が五組となった。ちなみに向日は七組、葉山は八組にいるらしい。


 寮父は伊橋けい、眼鏡をかけた三十歳ほどに見える中背の男だった。色白でいやに痩せた、如何にもおとなしそうな雰囲気で、気楽に過ごせそうだなと思ったものの、彼はおれの期待をものの見事に裏切ってくれた。さっき金城がちょっといっていたが、伊橋——愛称オヤジ、パパ——は王冠をかぶるなら雑学という世界で、という男だった。生徒がいうことに従わなければ、大変ありがたい、あんな講義やこんな講義をはじめる。……素晴らしい寮父だ。


 校長の話は今まで聴こえてきたものと大して変わらないし、わざわざ名前をあげられるほど親しみやすい先生がいるわけでもない。中学校に通っていた頃までと変わらない調子で友達をつくって、中学校に通っていた頃までと変わらない調子で授業を受ける。この退屈さも愉しさも、わざわざこっちにでてこなければ味わえなかったものではないだろう。


 でも、のんびりとしていて人懐っこい金城という陽焼けした友達は、おなじような性格の色白の友達だったかもしれない。勉強ができてちょくちょく意地の悪いことをいう、なんとなくおじさんじみた葉山という友達は、おなじように勉強ができておなじように意地悪な、でももっと高校生らしい喋りかたをする友達だったかもしれない。おとなしくてひどく忘れっぽい、涼しげな友達は、おなじようにおとなしくて、なにより忘れっぽい、でもどこか情熱を感じさせる友達だったかもしれない。


 そう思うとなんとなく、地元でそういう友達と出会うより、遠路遥遥えんろはるばるこちらまででてきた先で、沖縄からでてきた金城と、お隣の埼玉からやってきた葉山と、奈良からでてきた向日と、こうして出会えたことが愛おしく感じる。



 引越しを済ませて一番はじめに話したのは向日だった。それは数日後の入学式の日とは違い、よく晴れた、体を動かせばちょっと暑いくらいの天候だった。


 その日、おれは窓のそばにいる彼を見た。め殺しの腰高窓のそばにいる彼を見た。荷物を片づけ終え、ひとつ息をついて立ちあがったところ、といった容子ようすだった。白の上衣ティーシャツに黒の下衣ジーンズ。体に対して一回り大きそうな上衣ティーシャツの襟元からぽっこりと鎖骨が覗いている。真黒な髪に真白な肌、——小説で見かけた表現だが——黒瑪瑙くろめのうのような目。


 戸惑った。こんな人と同室か、と身構えた。如何にも冷たそうに見えた。


 「……えっと、おれ、風原。風原

 彼はひとつ、黙ったまま頷いた。

 「むかいはると。向かうに、曜日の日。晴天の晴に人。……ゆうし、て、どんな字書くの?」

 重重しく、暗い声を発するのかと想像していた。実際に聴こえたのは、落ち着いてはいるがちょっと細い、やわらかく静かな声だった。その声のつける、独特な高低、強弱の波が印象的だった。

 ふっと緊張がとけた。相手は人間、それも自分と同い年だ。彼のなにに身構えていたのかと笑いたくなった。

 「悠久……悠悠自適の悠に、こころざし

 向日はまたひとつ、静かに頷いた。


 「憶えた」


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