昏い穴
君を突き落としたのは、不安だ。
ほんの少し前まで、漠然としていたその不安。これがついに実感を伴った瞬間、君は穴に落ちたような感覚を覚えた。
穴の底は、湿り気を帯びた空気で満たされている。それは粘つく糸のように君を絡めとる。糸をたどって、虫が来る。虫は腹を舐る。背中を這い回る。首筋を上り、耳の裏を通り、そして囁いた。
逃げ出しても、誰も君を責めやしない。
急用ができたと言えばいい。すぐに嘘だと分かるだろう。だがそれが何だ。似たようなことをしてるヤツなんていくらでもいる。
なぜ、人から判断されなくてはいけない?
なぜ、日々を変化させる必要がある?
君はポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージアプリを起動する。いつの間にか汗で濡れた指は、滑らせようと思っても画面に貼りつくようで、なかなか思う通りに文字が打てない。
打っては消し、打っては消し、ようやく、君は嘘を書き終えた。
「すいません、急用ができてしまって、今日は行けなくなりました。本当にごめんなさい。」
後は送信ボタンを押すだけだ。だが、君はまだ戸惑っている。何せ相手はもう駅についているという。ここでこんなメッセージが来たら、相手はきっと怒るだろう。君を常識のない人だと思うだろう。君はそんな相手に、一丁前に罪悪感を覚えている。だが、よく考えて見るといい。だいたい相手だって、本当は気乗りしないけど仕方なく来ているだけかもしれないじゃないか。妙な約束を取り付けてしまったと後悔しているかもしれないじゃないか。
どうせ二度と会わない相手に、何を構う必要がある?
送信ボタンを、濡れた指で、君は押した。送信完了。これでいい。呆気ないものだ。あとはここから立ち去るだけだ。せっかく休日の朝早くに出てきたのだ。町をうろついてみたら面白いかもしれない。そう思って歩き出そうとした矢先――
「あの、シュウジさん…ですよね?」
シュウジって誰だ。君だ。君のアプリ上でのニックネームだ。君の本当の名前はシンジだが、あったときに覚えてもらいやすいよう、それに近い名前をアプリでも使っていた。
「今日約束してたユヅキです。すいません、もしかして待ってましたか。思ったよりギリギリになっちゃって。」
君は二の句を継げずにいる。どうする。今更人違いだというか。相手は完全に君をシュウジだと確信しているし、君の沈黙を肯定と見ている。だいたい、君に相手の目を見て嘘をつく胆力はない。
「あ、通知…メッセージ送ってくれてたんですね。気づきませんでした。」
それはいけない。
相手は一つ、鼻から息をついた。笑ったのかもしれない。呆れたか、怒ったか。だが不思議と平静に見える。謝るか。さっさと謝るか。だが相手は、君の沈黙を待たない。そういう性格なのかもしれない。
「これ…。もしかして今日、あんまり乗り気じゃないですかね。」
君は再び、昏い穴に落ちた。
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