帰り、駅前

駅までのバスは思ったより空いていた。


相手は後ろの方の席に座り、君も少し迷って、その隣に座った。図らずも相手の体温を感じ取る。少し距離を開けるべきかと思い、腰を浮かしかけて、結局そのまま座った。


君たちは駅に着くまで、一言も話さなかった。相手は窓の外をぼんやり眺めていた。君は相手を気にして何度も横に目をやり、時折、車窓の反射越しに相手と目が合った。そのたびに君は視線を反らす。だが一方で、相手の目は君を捉えることはないように見えた。車の、無数のヘッドライトの波に、その心を預けているようだった。日は既に暮れていた。


駅についてバスを降りると、まだ宵の口といっていい時間だった。あたりはまだ騒々しく、煌々と光るネオンの下を、陽気に歩く人の姿がいくつもある。だらしなく前掛けを締めた居酒屋の呼び込みが、道行く人に声をかけている。間延びした喋り方で、客に対するものとは思えない。


街はまるで、たった今目覚めたばかりのようだった。


だが君たち二人の時間は、ここで終わる。


「今日はありがとうございました。映画、付き合わせてすいませんでした。」


バスを降りて少し歩くと、相手は君を振り返り、頭を下げながら言った。


君は夕食をどうするか考えなければと思っていたが、それは杞憂に終わった。こうまではっきりと帰る意志を見せられたことを、君は少し残念に思った。もっとも、朝は顔すら合わせず勝手に予定を断ろうとしたのだから、自分で自分に呆れる。


「いえ…そんな。自分も楽しかったです。映画。」


本心ではないが、嘘でもなかった。人と映画を見るのは久しぶりだった。隣にいる人が赤の他人でない。それだけのことが、心の錠前を緩めるのだと思い出した。幼いころは母親と、学生の頃は弟を連れてよく映画を見た。大人になるにつれ、一人で見ることがずっと多くなった。だが隣に見知らぬ人がいることがどうも落ち着かず、自然と足が遠のいていた。


映画が楽しかったというよりは、隣にいるのが知らない人ではないのが良かったのかもしれない。相手とはまだ関係など無いに等しいにも関わらず、そうまで思えることが、君にとっては不思議だった。そうして生まれたほのかな温かさが、いつか膨れ上がることも、きっとあるのだろう。


「そうですか。楽しめたなら…よかった。」


相手は手から、映画館で買ったパンフレットが入った袋を下げている。真っ赤なビニールに、映画館の名前が印字された袋。人波が起こすわずかな風に、ゆらゆら揺れる。


何度目かも分からない、訪れた沈黙。それを破ったのは、やはり相手だった。


「もう、これっきりでいいですよね」


君は、相手のその言葉に、確かに寂しさを覚えた。


「合うわけでもなさそうだし、今回限りってことでお願いします。」


もし断ったら、相手はどんな顔をするんだろうと夢想する。もちろん、そんなことをするつもりはない。遠のいていくのを無理に引き留めたところで、良い結果は生まない。胸の内では次があっても良いと思っていたが、相手にその気がないなら、それでよかった。


「そう、ですね。そうしましょう。」


切なくないと言えば嘘になる。だがそれは恋慕でなく、その人と二度と会うことはないと知って別れを告げる時、誰もが感じるであろう切なさ。


「それじゃ、電車、丁度いい時間だし、これで。」


相手が背を向けて去ろうとする。


そのとき、脳裏に蘇った。


相手が退屈そうにスマートフォンをいじる姿、夕日を受ける紅い横顔。窓の外を見つめる目。それらはもう、この先二度と、自分が目にすることはない。この人の隣に、自分がいることはない――


気が付けば君は、相手を呼び止めていた。


「すいません!」


突然の大声に、周りの人までも君に目を向ける。当たり前だ。これでは誰に話しかけているか分からない。だがどう呼びかければいいか分からなかった。名前を呼ぶほどの関係じゃない。


「はい…何ですか?」


相手は驚いた様子で、でも体ごと君に振り返り、続く言葉を待っている。


「…連絡先とかですか? すいません。あんまり中途半端に繋がるのって、今は求めてなくて―」


「いえ、違います。そういうんじゃなくて…」


「じゃあ、何ですか?」


相手はイライラしはじめている。言わなくては、今、言わなくては。たった一言、君が今言うべきことは、たった一言だ。


「あの、今日の朝、すいませんでした。」


「今日の朝? 何かありましたっけ」


眉をひそめる相手。まさかもう忘れたのか。君は今日一日、ずっと気にしていたのに。


「あの予定、突然断ろうとしたじゃないですか。あれ、すいませんでした。本当に。魔が差したっていうか。とにかく、すいませんでした」


相手は一瞬だけ真顔になって、そのあと鼻からふっと息をついて、そのとき相手が見せたのが、初めて見る笑顔だった。良い笑顔、君は本当にそう思った。


「…今更すぎません? 気にしてないから、大丈夫ですよ。」


それじゃ、と背を向け、今度こそ相手は君と離れていく。カバンからパスケースを取り出して、自動改札を通り抜ける。そのとき一瞬見えた横顔は、まだ微笑んでいた。

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