夜鯨

 二日に渡って続いた荒波がやっと落ち着いた夜中に統木すばるきの花嫁は海勇魚船わたないさなふねの様子を見るために甲板に出た。

 波を何度も被った海勇魚船の外装は何処も潮でざらついていて、風もべた付いている。これは海勇魚船を真水で大掃除しないといけない。

 花嫁は御神木での真水の精製量を増やそうと考える。

 そうやって舳先に向かって歩く花嫁は、その先に誰かが立っているのを見付ける。

 小柄な人影の首からしゅるりと蛇が身を伸ばして花嫁の方を覗いてくる。その蛇の動きに首を擽られた飼い主の方も振り返ってきた。

 彼女は花嫁の姿を認めると懸命に頭を下げてくる。

「まな」

 首が取れてしまいそうな女房の動きを巻き付いている蛇も迷惑そうにしているので、花嫁は片手を上げて制止する。

 女房は恐縮して顔を上げて乱れた髪を手櫛で整えた。

 花嫁は夕方まで波に酔って顔を青くしていた体の弱い女房が忙しない動きをするのが心配になって嘆息する。

 まして今は日が沈んでから時間が立ち、また昇る前の、一日で最も冷える時刻である。蛇を首に巻いても猫と違って血の冷たいのだから、暖を取るにも覚束ない。

 佳鈴声よしすずこえは、そんな憂いを強く魅せる眼差しで花嫁から見分をされて、落ち着かなくて体を揺する。

「あの、波も納まって……いつもとは違う景色が見れると思いまして……」

「げに」

 嵐の過ぎた後や吹雪の鎮んだ後には、がらりと景色が変わり、穏やかだった頃ともまた違った鮮やかさが生じる。

 それはその一時にしか逢えない世界であり、如何にも歌に詠む風情がある。

 佳鈴声も歌詠みの直感に突き動かされてこんな小夜中に起きてきた。

 体も弱くてよく臥せるし、気弱ですぐ人の後ろに隠れるような佳鈴声ではあるが、歌への気概というか本能だけは彼女を活発にさせる。

 自ら命を使うに足るものを持つ者は強い。その歓びが涌くような振る舞いを見るのが花嫁は何時の時代でも好きだ。

「なんぞありしや?」

 花嫁が期待しただけのものには出逢えたのかと訊ねると、佳鈴声は誇らしそうに微笑んで頷く。

 佳鈴声は軽く瞼を閉じて小夜波さよなみの音が染み込んだ夜気を吸い込む。彼女の首に巻き付いた蛇がしゅるりと蜷局とぐろを狭めて身を寄せる。

「すさなみをこえていたりぬ夜鯨よいさなの、しづけきわたのはらのひらける」

 鈴のような涼やかに凛とした声が鎮闇しづやみ玉響たまゆらと揺れてそのまま風と波に馴染んで消えていく。

 海勇魚船が引っ繰り返りそうな程に凄まじく荒れた波の中を何日も過ごして来た。

 そんな恐ろしい波を乗り越えてやってきたのは、人なんて一飲みにしてしまいそうな気配を漂わせている夜の海だった。そんな姿を持たない夜鯨の気配に怯えたように世界は鎮まり返っていて海原は何処までも開けていて広い。

 或いは朝日が昇れば光で明らかになった世界は、人の目で見られる範囲にまで狭まってしまうだろう。波が起きてくればその波の音が届く度に波の場所までがその者の存在する世界の境界となり、鳥達や魚達が姿を見せれば彼等の気配が世界を遮る。

 ただ何もなく悠かに静寂で何処までも暗い時、果てを遮る山も浜もない海の上でこそ、世界は最も広く在るのだろう。

 そんなにも素晴らしい世界を佳鈴声は独り占めしていた、訳ではない。

 歌を詠み上げて頬を上気された彼女はとても満足そうだ。それは美しい世界の姿が見れたからでも、それを歌に詠めた事を誇るでもない。

 佳鈴声は何時でも自分が仕えている統木の花嫁がより栄えるように歌を捧げるのを第一にして唯一にしている。

 そんな健気でいじらしい小さな女房が普段と違って堂々と向き合ってくれるこの瞬間が花嫁も深く慈しんでいる。

 佳鈴声に満たされた花嫁は自らの存在が広がるのを感じて、ゆっくりと息をして余分な膨らみを逃がす。

「よにづらしゅう」

 飼い主が偉大なる存在に褒められたのが嬉しかったのか、佳鈴声の首に巻き付いた蛇は彼女の柔らかな頬にすりすりと冷たい顔を当てる。

 その鱗の感触がこそばゆくて、佳鈴声が鈴のような声を小夜波の合間に転がしてた。

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