宣言

 本土から離れて海の碧ばかりが広がる景色に一隻の船が進んでいる。

 その船は船尾の部分から一本の巨大な樹が生えていた。甲板から伸びているのではない。むしろその樹の根が船尾を抱えており、幹は天へと向かい、幹から伸びる枝と茂る葉は帆の代わりとなっている。さらに根は海へも突き出していて、海面下を覗けばその入り組んだ構造を利用して魚が住み着いている。

 船は海上にぽつんと浮かぶ孤島に向かっていた。

 その島を舳先に立って見詰める一組の男女がいる。どちらも着物の生地が波に跳ね返る陽光をさらに跳ね返しており上質なものだと見受けられる。

 それも当然でこの二人共がこの国で最も貴い身分にある存在だ。

 精悍とした青年は航津海わたつみの征嗣国主ゆきつぐくにぬしのみこと、今上帝の三番目の皇子にしてこの船の長である。

 その横に並ぶ麗しい女性は航津海わたつみの統木大神すばるきおおみかみ、この船を抱える神樹の花嫁たる化身である。

 二人は慎ましく肩が触れそうで触れない程に身を寄せている。

「明日には波島はしまに着くな」

「さに」

 海皇かいこうの問いに、花嫁は当然そうだと短く返事する。

 それは至って予定通りの航行であり、前の島を出た後に最初に開いた朝議で示されたままの日にちである。

「君が民はすぐれたる」

「全くだ。助けられている」

 この船に乗る者は皆、二人の大切な民だ。その中で船の行き先を決める知識人達はこれまでの航程を一日として外さずに船を運んで来た功労がある。

 これから先も大いに力を借りるが、もう既にその恩は一生掛けて返すに足る。

「彼らが付いて来てくれる王でありたいものだ」

「その意志こそ大切にあらむ」

「……そうか。そうか」

 花君はなぎみは花嫁の言葉を噛み締める。

 そんなふうに語り合う二人の後ろ、甲板を隅から隅まで埋め尽くして人々が集まっていた。その数は千を越える。

 このわたな勇魚船いさなふねに住まう民全てが甲板に上がっている。

 文官の一人が確実に全員いるのを数え上げて海皇に報告を入れる。

 海皇は厳かに頷き、文官を下がらせた。彼は主君に背を向けずに十分に下がり、民衆の中へと混じる。

 そこで海皇は人々へと振り返った。

 統木の花嫁もその直ぐ後ろに寄り添う。

「皆、集まってくれて感謝する! 海勇魚船神わたないさなふねのかみは明日、予定通りに最後の島に着く!」

 海皇が声を張り上げる。その雄々しい声は全長三十けん、最大幅四間の船の隅々まで響く。

 甲板に立つ誰もがその声を聴き逃すまいと耳をそばだてている。

「故郷を後にしてより半月、祖国の端まで辿り着けたのはこの場にいる全ての者の功績である! そして波島に着いて三日を過ごした後、この海勇魚船神は!」

 海皇は勇ましく踵を返し、船首の先を真っ直ぐに指差した。

 それは遠くにぽつんと見える波島を差したのではない。その先に途方もなく広がる海原を差している。

 統木の花嫁も自分の横を通り過ぎる花夫はなづまの指先を共に見詰める。祖国の大地総てを統べる神樹の分け身である彼女も、地の途切れた先に何が存在しているのか一つも知らない。

 神の束ねる大神であってもそうであるのに、その未知にして只管ひたすらに大きな寄る辺なき世に漕ぎ出ださなくてはならない人々の恐怖は如何いかばかりかと花嫁は想う。そしてその民の心を受け止めようとする優しい花夫がどれだけの苦悩にさいなまれているのかと、心を痛める。

「祖国を離れ、航津海征嗣国主尊が治めるに相応しい地を求め、死者にあらずも外海そとつみを征く!」

 国に神を束ねる大神は一柱ひとはしらに限り、国をおこす神祖たる国主もまた唯一の名にあらねばならない。

 花嫁の本体が見守り、花夫の父が治める祖国は今なお栄え天下は泰平と言うに相応しい。

 それなのに花嫁が大神となづき、花夫が国主と称するのは、新たな国の始まりと成ろうとしているからだ。

 五百年に一度、主神たる統木が授ける花嫁は王権の象徴に他ならず、祖国に従わない豪族を調伏してその土地を召し上げ、花夫が治める事で王朝の直轄とし国を広げる役目を持つ。

 しかし時の流れと共に天皇は祖国の地の続く限りを統べるに至り、全ての民は天皇の子となった。ここにおいて統木の花嫁は次に植わる先を国内に失ったのである。

 それ故に今咲きし花嫁は、祖国とは別の国を海の先に求める事になったのだ。その新しい国を治める役を請け負ったのが今代の花夫だというのは言うまでもない事である。

 新しい国を興す為に選ばれた民一千こそ、この海勇魚船に乗る者達である。この者達もまた波島を発った後は天皇の民から海皇の民へと立場を変える。

 海皇はまた甲板に立つ民衆へと向き直り、端から端までを目に焼き付ける。

「天皇の子か、海皇の子か、皆が選ぶ最後の機である! 共に征く者を我私われわたくしは命から嬉しく思う。しかし去る者もけして咎めず呪いもせん! この先を恐ろしく思う者、いとう者は、私共の間に遠慮はいらん、素直に降りて故郷へ帰れ。その生きる日々に幸あれかしと波に揺られて朝ごとに夕ごとに祈ろう」

 正直に言えば航君わたぎみはこの言葉を千の民に一人ずつ掛けてやりたかった。

 それを呆れ顔で、逆に降りづらくなるとたしなめたのが花嫁である。絆は強く結ばれる程に苦しみを押し殺して此方こなつらせる人の在り様を神樹は千五百以上の星霜を過ごして良く見てきた。

 そんな人の心も弁えた花嫁は、じっと民を見詰め続けている夫の肩を叩く。

がそも見ませばたれ此方こちらを離れかたかろうや」

 思い余って皆に圧を掛けていると花嫁に指摘されて、花夫は罪悪感で口許を手で押さえる。

 その姿を見てちらほらと含み笑いが生まれているから、伴侶の生真面目さも愛嬌になってくれたかと花嫁は微笑んだ。

 そのまま花嫁は海皇を押し退けて千の民の前に出る。

「皆、今日はもう休め。よう考え、よう語り、しかして自ら先を定むべし。ほれ、行け、行け」

 花嫁の声は穏やかであっても一人一人の耳にしかと届く。それは喉だけで発声しているのではなく、船を通して統木の大樹を震わせた音を届けているからだ。

 雑に手を振って民を解散させる大神にとって、その身と繋がるものを自在に扱うのは動作もない。それは正しく統べる者の権能である。

 民は神に散れと言われては逆らいようもなく、お互いに顔を見合わせながら思い思いに甲板を去る。

 しかしその中で、最前列で構えていた鎧武者が航君に向かって歩んで来た。

 彼は航君の前で片膝を着き頭を垂れて臣下の礼を取る。

「申し上げる」

「申せ」

 武士もののふの奏上を海皇自ら受け取った。

 民の本音を直に聞くために、海勇魚船では身分の上下はないと海皇が定めている。

 それを考えれば皇子の時代から近衛このえとして仕えるこの大男は本当に頑なだと花嫁は思うし、同時に海皇より声を頂く前に言葉を奏上するとは気安くなったものだとも思う。

安家あんけ一門は皆、死より他は我が君のお側を離れず」

 この船に乗る武士を束ねる棟梁はいっそ堅苦しく祖国に帰るつもりはないと宣言した。

 その振る舞いに航君は渋い顔をする。

親昌ちかまさ、我が花嫁の御言葉をお聞きになったか? 皆、己で振る舞いを定めさせよ」

 いくら武士を纏めるのが彼の役目と言っても、こればかりは誰からも押し付けてはならないと花夫はやすの親昌に言い含める。

 しかし親昌は顔を上げるとにかりと笑みを作って見せた。

「それぞれに決意したものを、先んじて申し上げているのみであります。逸早いちはやく我が君のお心を安らぎたいと素直に思って行動しました」

 厳つい顔に子供のように無邪気な笑みを浮かべる親昌の滑稽さと忠義心に、花嫁は手を叩いて喜ぶ。

「よし、よし。岩の如きがかろうして心安くなりしか。でたしゅうな」

 花嫁の喜びように親昌は照れて頭を掻いている。

 花嫁が航君の元に来たばかりの頃は、はしゃぐ姿を目の当たりにしては憮然としていた武士が随分と変わったものだと花夫も感心する。

 このような者達と共にあれば行き先も分からない旅も乗り越えて、きっと皆が幸せに過ごせる国を築いていけると海皇は頼もしく思えた。

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