仕度

 海勇魚船わたないさなふね波島はしまを発ち海に出て一日が経った。昨日の内に勇魚船は波と風としっかりと捉えて穏やかに進んでいる。

 海の端がようよう白み出した暁闇あかときやみの中で、統木すばるきの花嫁は床を上げる。

「失礼します」

 花嫁が布団を畳んで部屋の隅に寄せたところで、襖の向こうから声が掛けられる。毎朝のことながら本当に寸分狂いなく此方に合わせるものだと花嫁は感心してしまう。

「おはよう。り」

 花嫁が応じると静かに、しかし音を立てて存在をあえて花嫁に伝えつつ、世話役の女性達が部屋に入って来た。

 宮仕えを終えて暇のある貴族の母達に手解きを受けたとは言え、元は人買いに売られた女子であったのが信じられないように堂に入った振る舞いだ。

 彼女達は無駄な口も利かずに花嫁を取り囲み、何枚もの衣を被せて髪を梳く。

 こうも何枚も服を重ねられると重たい上に暑いので、花嫁は嫌だと抗議をしたが侍女達は一揃いに冷たい声と低い声でなりませんと退けられた。

「今日も暑かろうな」

 ちょっと期待を込めて花嫁は呟いてみた。

 すると侍女を纏める草女くさめはにこりと微笑みかける。

「では、髪を結い上げましょうか。農民のおなごはこう、髪を編むのが流行っているそうですよ」

 草女は侍女の一人を手招いて三つ編みのお下げを肩に垂らす髪型を花嫁に見せる。

いな

 やり込められた、と思いながら花嫁はそれはいいと断る。背中に垂れる長い髪を綺麗に編み込むのにどれだけ手間と時間が掛かるのか。

 そんな苦労を侍女達に負わせたくもないし、朝議にも遅れてしまう。

「然様ですか」

 草女はすんなりと引き下がったが、その目は物惜しそうに花嫁の艶やかな髪に視線を引き摺る。二十歳も過ぎた年嵩の彼女は人の髪をその手で撫で付けるのが好きなのだ。

 いっそ神らしく気に食わない衣など一思いに脱ぎ捨ててやろうかと花嫁は考えるが、動けばすぐに乱れてしまう衣の裾をぴっちりと整えて笑い合う侍女達を見ると、そんな無残な振る舞いも出来ない。じっと神体そのものように花嫁の体を動かさないようにして侍女が満足行く縁の形を仕上げるのを待つ。

「おはようございませ」

 そんな波に揺れている船の中なのに堅苦しさを花嫁が感じていたところに、新しく一人が部屋を訪れる。

よ」

 花嫁は目元を緩めてお気に入りの女房である彼女を呼んだ。

 彼女がすすと花嫁の前へと向かって足を運ぶと、侍女達は仕事をしつつもその歩みを阻まないように音もなく身をずらす。

 彼女は花嫁に三つ指を付いて傅き、しかしすぐに顔を上げる。

「ふるさとにつづく波島の浜たちて、ういみるあけのしらむふち

 彼女は鈴のような声で詠う。

 花嫁は瞼を閉じてその甘やかな声を受ける耳に化身の神経を集中させて、しかしその神体は彼女が詠う通りに空と海の境をはっきりと見せる白い光の筋を眺める。

 故郷の国に連なる最後の土地である波島の浜を出立して、最初に見る未明の空の白みに描かれるよるふちの鮮やかに美しい様を謳いつつ、世の縁へと目指すとも知れない海勇魚船の行く先もきっとその朝日のさきがけに似て眩い繁栄があるでしょう、とことほぐ。

 誰もが明日には沈むやもと恐れを抱きながら心に勇気を灯して生きるこの船の上で、真っ直ぐに希望を謳う彼女の心はまさに夜の闇の縁を光でなぞる太陽のように暖かい。

 その言霊に航津海統木大神の神樹は震えて、ばさりと葉を一層広げた。

「美しゅう歌にや。我が身も栄えぬ」

 統木は人の歌を捧げられて威光勢力を増す。歌の言霊を養分として、葉は瑞々しく茂り、根も幹も伸びて、花が咲き誇り実が熟す。

 この海勇魚船では航津海わたつみの統木大神すばるきおおみかみの神樹が栄えて齎す恩恵がそのまま民の口に入る水となり食事であり、民を新天地に運ぶ力になる。

 佳鈴声よしすずこえと神に名を頂いた女房は、神の心を満たし民の役に立てた事を実感して誇らしく日にまさるような笑みを咲かせた。

 花嫁はそんな佳鈴声の細い手を取る。

「何時見むも細う身なり。我が実りを持て」

「え、あの、その」

 この後の事態を悟って細身の女房は慌て出すが、花嫁に手を取られては振り解いて逃げる事も出来ない。

 花嫁の言い付けに従って草女が水菓子を持って来た。この勇魚船で取れる果物は当然、神樹の実りであり、それは瑞々しい果肉を薄く紅差した皮の下に隠している。

 花嫁は侍女から自らの果実を受け取ると、それを佳鈴声の手に授ける。

 細い少女の掌で柔らかい実がぐにゃりと、食べ頃の感触を伝えてくる。

「ほれ、召せ。今に。今に」

 今すぐ目の前でその果実を食べろと花嫁に言い寄られて、気弱な女房は顔を統木の果実よりも赤くして狼狽える。その様は歌を捧げた時の麗しさとはとても違って、けれど年に見合って愛らしいと花嫁は楽しくなって急かす声をさらに重ねる。

 侍女達がくすくすと笑う口元を袖で隠す中で、佳鈴声はそれはもう恥ずかしそうに薄く産毛の生えた皮に歯を立てる。

 滴る甘い蜜が零れないようにはしたなく音を立てて実を啜る女房を存分に眺めて、花嫁は心が幸せで満たされるのが心地好く、花のように和笑にこえみを浮かべていた。

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