第3話 ずっと感じていた停滞感

「グゥルオオォォ!!」


 巨大な木々が鬱蒼と生い茂った森の中で千景は4~5mはあろうかという巨大な熊と相対していた。先程の咆哮で辺り一面の小動物たちは一斉に逃げ出し、聞こえる息づかいは千景の物ただ一つとなっていた。


 熊は興奮状態に陥っており、鼻息を荒くして千景を見つめている。


 今にも自身の何倍もある巨体に襲われそうな状況であるが、千景の脳内を支配していたのは恐怖でも焦燥でもなく、かといって戦いの高揚や興奮でもなく、父親との会話だった。


「将来に向けて考えてることとか、他にもっとやってみたいこととか、何かあるんじゃないか?」


「今の生活を続けるにしても、もっと他の色んなことを経験してからでもいいと思うんだ」


 この一週間ほどは父親と交わした会話がずっと千景の頭の中で反芻していた。父親の言葉の一つ一つが今までぼんやりと曖昧なままにさせていた現状とそれに対するもやもやとした感情を千景にはっきりと認識させた。


 現在千景の生活のほぼ全てを占めているのは「ダンジョン」と呼ばれる地下に広がる巨大な空間に関する事柄だった。


 現在から100年ほど前、アメリカ合衆国のとある州で突如として地表に広がった巨大な穴が観測された。直径にして約1kmはあろうかという大穴は忽ち噂となり、すぐさま公的機関による調査が実施され様々な実態が明らかになっていった。


 まず人々を驚愕させたことは大穴の下には地下空間とは思えないほどの面積と深さ、そして多種多様な気候を持った空間が広がっているということだった。巨大な木々が繁茂している熱帯雨林の地域や一面が砂と岩に覆われた砂漠の地域、雪や氷に包まれた極寒の地域、巨大な火山を中心に溶岩で溢れている地域、といったように地下空間でありながら地上と遜色のない様々な気候の世界が広がっていた。


 また地下空間に存在する未知の物質や物体、生物、植物たちは多くの人間を魅了した。地下空間の生態系に属している生物や植物は地上では発見されたことのないものばかりであり、また土や砂や鉱物、川や海に流れる水分中の成分、果ては空気中の構成要素まで多くの物が地表では未確認の物質で構成されていた。


 アメリカでの確認を皮切りに世界中で大穴が出現、発見され、100年の間に世界中で未知の地下空間に関する価値観や文化、風土や商業が形成されていき、やがて大穴の中に広がる地下空間は「ダンジョン」、そのダンジョンに潜り調査や研究を生業とする人々は「探索者」と呼ばれるようになった。


 そうして現在では地下に広がる巨大な世界、「ダンジョン」は広く周知される存在となっており、それに関わる物や事、人もまた時には好奇の眼差しを向けられながらも一般に広く浸透した存在となっていた。


 日本に住む15歳の少年、黒羽千景もそうした探索者として活動している人間の一人で、初めてダンジョンに潜った頃からもう5年の歳月が経とうとしており、日々の時間の大半をダンジョンの探索に費やしていた。


 千景と同年代の少年少女たちが経験しているであろう、学校生活や人間関係を全て切り捨てて。


 日々の大半をダンジョンに費やしているというのは比喩でも誇張でもなく、24時間のうち少なくとも8時間、長いときは16時間もダンジョンに潜っている日もあった。そんな生活をしていれば当然のことながら世間一般に言われているような普通の学生生活など送れるはずもなく、千景は所謂不登校と呼ばれる存在だった。


 現在はダンジョンを探索すること以外の一切合切から離れた生活をしており、ダンジョンと家を行き来するだけの生活が続いていた。


 千景がこのような生活状況になったのは12歳の時、学年で言えば中学一年生一学期の頃だった。千景は新しい環境にうまく馴染めずいつも一人で行動していた。元々一人は嫌いではなく、むしろそういった人との交流を煩わしく感じることも多々あったが、皆が着々と人間関係を築いていく中で一人だけ取り残されていくように感じ、学校という空間に居心地の悪さを覚えるのは必然だった。


 また当時の千景は中学入学以前から行っていたダンジョン探索へのモチベーションや意欲といったものが最も高かった時期であり、こんなにもやりたいことがあるのになぜわざわざ居心地の悪い場所に行かなければならないのか?自分にとって学校という場所やそこに準ずる人間関係は本当に必要な物なのだろうか?というような問答が常に頭の中を支配していた。


 自分に学校は必要ない、自分はダンジョンの探索だけできればそれでいい。そんな考えに行き着き、不登校になりダンジョン探索に耽るようになるまでにはそう時間はかからなかった。父親も千景がそう決めたなら、と咎めるどころかダンジョン探索に必要な物を調達したり、どういったツテがあるのかは分からないがダンジョンから持ち帰った品を換金したりと千景に協力的だった。


 そうして千景はこの2~3年間、父親を除けば殆ど他人と関わらずにダンジョンに潜り続ける日々を過ごしていた。


 自分のやりたいことに専念できる、自分の居心地の悪い場所にもう行かなくてもよい。最初の頃、千景は充実感と解放感で満ち満ちていた。


 水面がオーロラのような色に輝いている湖、いついかなる時にも流れ星で満たされている荒野、首が8つもある巨大な蛇のような生物、ゾウやカバほどもある巨大な生物を打ち倒してしまうネズミのような生物。


 ダンジョンで見たことも聞いたこともないような場所や生物を見る度に自分の世界が広がっていく感覚を味わっていたし、普通の人間ではできないような体験をしているはずだというような自信も身に付けていた。またダンジョンから持ち帰った品を換金することで生計を立てられている、生きていく術を身に付けている、自分は自立できている。そういった自尊心のようなものも千景は感じていた。


 ダンジョンは千景に非日常や刺激を与え、千景はそれを受けとるだけで充足感を味わえていた。


 だがそんな生活を2~3年ほど続けた現在、当初のような感動と興奮は既に失われていた。新たな地に足を踏み入れていく高揚感も無事に家路につくことのできる安心感も、戦利品を持って帰ってきた時の達成感も、今の千景にとっては当たり前のことであり、取るに足らないことになってしまっていた。今までやってきたことだから今日もダンジョンに潜り、そして明日もそうする。今では半ば日常に組み込まれた作業を行うような気持ちで千景はダンジョンに潜っていた。


 代わりに顕れてきたのは焦りや孤独感や停滞感だった。


 このままずっと一人で地下に潜っていくだけの日々が続くのだろうか。どんなに美しい景色を見ても、どんなに凶暴な獣を打ち倒しても、結局は己の自己満足で終わってしまう。そんなものに何の意味があるのだろう。今のままの生活で本当にいいのだろうか。


 感動や興奮だけでなく、今では千景に恐怖や絶望を抱かせる物すら既に存在していなかった。もうダンジョンというものは焦りや孤独感、停滞感を誤魔化し、麻痺させてくれる作用すら千景に与えてはくれなかった。


 現にぼんやりとした考えごとに現を抜かしながらも、千景は先ほどまで立ち塞がっていた巨大な熊をあっさりと倒してしまっていた。


 先日の父との会話を思い出しながら、今後の自分について考えながら、そしてそのことについて不安を覚えながら。思考を巡らせ、不安を募らせる。そのようなある意味での余裕を持ちながら千景は悠々と目の前の敵を地に伏せていた。


 自分のやりたかったことを選んだはずなのに、他の物を全て捨ててまで選んだのに、何か満たされていないという感情が千景の中で日に日に増していた。


 本当にダンジョンさえ探索できればそれでよいと思っていたのか、それとも学校なんて必要ないという強がりのためにそのような考えを抱いていたのか、今となっては千景自身にも分からなかった。


 本当にやりたいことを選んだ末に今の結果になってしまったのか、それとも人間関係や他の人々が普通に馴染めている社会から逃れるための口実としてダンジョンに潜ることを選んだから、罰として今のような負の感情を味わっているのか。前者であれば絶望、後者であれば後悔。どちらにせよ今千景の中に蠢いている感情を取り払う理屈にはなり得なかった。


 千景と同年代の人々はもっと大事なことを経験をしているのではないか。今の自分は人として生きていくための通過儀礼から目を背けてしまっているのではないか。


 不登校になってダンジョンに潜る。


 それは簡単に言えば人と関わることから挫折して逃げ、自分の殻に閉じ籠った。千景は自身をそのように分析し恥じ、引け目を感じていた。


「もうこんな時間か…」


 時計を見てふと我に返り、千景は今しがた囚われていた暗い情念から抜け出した。父との会話を皮切りに先ほどまでのような考えが頭の中を跋扈する時間がより一層増えていた。


「さて、帰りの道はこっちだったかな」


 暗い気分のまま帰り支度をして家路につこうとすると


「…でさ、…だったからさ…」


「あ~確かにな~…」


 複数人の話し声が聞こえてきた。


(珍しいな…こんな場所まで…)


 千景が普段探索している地域は滅多に人が訪れない場所であり、人の気配や話し声が聞こえることは稀であった。少し近づいて様子を見てみると男女二人ずつの四人組であり、格好から見るに恐らく千景と同業者であった。


 今の沈んだ気持ちのままであまり人に会いたくなかったこともあり、そそくさとその場を後にしようとした千景だったがあまり聞きなれない単語を会話から拾い少し立ち止まった


「じゃあ本日の配信はここまでにします!ご視聴ありがとうございました!」


「次回の配信は1週間後くらいになりますのでその時も是非見に来てください!」


「高評価、チャンネル登録もお忘れなく!」


「ではまた次の配信で~」


 笑顔を浮かべながらは手を振り、男女四人組はまるで誰かに向かって別れの挨拶をしているような文言を述べていた。


(配信…?チャンネル登録…?それに誰に向かって話しかけているんだ?)


 決して短くない時間をダンジョン探索に費やしてきた千景だが、一度も聞いたことのない単語の数々に少々首をかしげた。またよく見てみると四人組の中の男の一人が恐らく撮影用のカメラと見られる物を手に持っておりほかの三人はそのレンズに向かって話しかけているようだった。


「いや~今日の配信も中々盛り上がってたね」


「このまま行けば同接1万人だって夢じゃないな」


「やっぱりモンスターとの戦闘が一番視聴者の受けがいいな」


 男女四人組はなおも千景の聞きなれない単語を使いながら和気藹々と話し込んでおり、一通り話が終わると行く先が同じなのか千景のいる方向に歩き出した。


(まずい…)


 四人組の動きを確認すると千景は逃げるようにしてその場を後にした。

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