幸せの借金
ユニオンデバイズのピアスと指輪は、またたくまに地球に広がっていった。
これは、Cランク者にとっては、ベルリンの壁崩壊のような開放感を与えた。CはこぞってAランクに頭を下げた。Aランクは、ご満悦そうに子機の指輪を授けた。あっというまに人間のピラミッドが完成した。
Cランク者は次々に青い服を脱ぎ捨てた。着たい服を着られるようになり、食べたいものを食べられるようになった。制限の中で悩むことをどんどんしなくなっていった。ただ、沙倉茜は迷っていた。指輪をはめるか、青い服を着続けるか。
ある日の学校での出来事。休み時間に、他ランク者のいない校舎の隅で晴加と談笑していた。すると、以前から二人をイジメの標的にして楽しんでいた三人のAランク女子がやってきた。この三人は茜の弁当を水浸しにしたあいつらだ。
茜たちはあわててバッテンのマスクをつけて、顔をこわばらせて黙り込んだ。
また、何かされる……怖かった。
「ねぇ、あなたたち! 通報しないからしゃべってもいいわよ!」
歌うように話しかけた女は妙にハイテンションだ。
「その罰ゲームみたいなダサい青装束をいつまで着てるの?」
その女は、茜のマスクをつついた。
「これ、外したいと思わない?」
外したいに決まっている。だが、外すわけにいかない。
「どう? これつける?」
女が差し出したのは、ユニオンデバイズの指輪だ。
「知ってる? これをつけるとCランクを卒業できるんだって」
茜も晴加もキョトンとした。目の奥にかすかに光がきざした。
「卒業?」
「ええ。原理はなんだか難しくてさっぱりわからないけど、簡単にいうと、オセロの監視から解放されるらしいの。だから、もうそんなマスクははずしていいし、自由にしゃべっていいし、なんでも食べていいらしいの」
なんとも夢のような話だ。青い二人は、心がときめいた。
「はい!喜んで!」と言いそうになった。しかし、二人は簡単には言わなかった。
茜が言った。
「ちょっと考えさせて」
スカウトする女は、けげんな顔をした。ちょっと不機嫌さも入っていた。
「え? 何を考えるの? こんないい話、即決でしょ?」
茜は穏やかな作り笑いをみせた。
「わたしたち、ちょっと奥手な性格だから、心の準備に時間がかかるのよ」
「そう…」
といって女は指輪を引っ込めた。
「前も言ったけど、あなた美人だから、そんな服よりもっとちゃんとした物を着た方がいいと思うわ。それに、以前の社長令嬢だったころのようにちゃんとしたものを食べて、もっとキラキラ輝いたほうがいいわ。正直、わたしはあなたに嫉妬してるけど、でも、ちゃんと負けも認めているわ。あなたの美貌には敵わない。だから、その美貌をちゃんと輝かせて、わたしたちに夢を見せてよ」
女は立ち去りながら最後にこんなことを言った。
「心の準備が整ったら、すぐに私に声をかけて。私、あなたのプロデューサーになりたいの」
Aランクの女たちの耳には、パールのピアスがキラリと光っていた。デバイズの親機、ピラミッドの親分の印だ。
女たちが去ると晴加が言った。
「ねぇ、Cランクの人はみんなあの指輪を受け取っているらしいわ。パパもママも昨日勧誘されたんだって」
「うちもそうよ」
茜はためらっていた。
おいしい話は危ない。並べ立てられた甘い宣伝文句を信じて入門しても、中身は空っぽで、毒を注入される。何らかの依存性を発症する。責任をとってもらえない。これが人間世界の常。弱肉強食。茜は実年齢よりも精神の発達が早かった。Aランク女たちの腹ぞこに何かあると、直感していた。
しかし、しかし、Cランクの過酷な生活が、警戒心の邪魔をした。溺れるものは冷静さを失う。溺れるほど冷静でいられなくなる。茜も晴加も、心がグラグラと揺れていた。
二日後のことである。茜と晴加が登校すると、予想通りの変化が起きていたことに気がついた。教室には、青い服を着ているのは彼女たちだけになっていた。このクラスにはCランク者が六人いた。青い人が六人いた。しかし、今日は二人になっていた。青い服を脱いだ四人の指にはもれなく銀色の指輪がはまっていた。
そのうちの一人の女子にクラスメイトが話しかけた。
「あっ! 友梨ちゃん! 普通の制服着てるじゃん! おめでとう」
話しかけたのは、Bランクの女子だった。Cの友梨ちゃんは、指輪があるので自由にしゃべってよかった。楽しそうで、うれしそうだった。生き生きした笑顔でジャレあっていた。
そこへ、ピアスをつけたAランクの女子が教室にはいってきた。友梨ちゃんは、満面の笑みで近づき、指輪を見せながら挨拶した。
「高橋さん、これありがとうございます」
「あら、友梨ちゃん、昨日の晩はちゃんとご馳走を食べた?」
「はい。ひさしぶりに幸せな夜を過ごせました。父も母も喜んでいました」
友梨ちゃんは、一家揃って高橋さんから指輪をもらっていた。一家ごと高橋さんの子機となったのだ。
「じゃあ、友梨ちゃんは明日からわたしの荷物持ちね」
「え? 荷物持ち?」
友梨ちゃんの表情が、かすかに曇った。
「あなた、わたしの脳を借りて幸福になってるんだから、わたしに恩返しするのは当たり前でしょ」
高橋さんの声は、どこか冷たげだった。人間味の薄い声色だった。
「明日からは、必ず登校前にわたしの家に来てちょうだい。そして、わたしの荷物を運ぶのよ。それから、色々と用事を頼むからよろしくね」
性格の悪い貴婦人が召使に発言するような口調だった。友梨ちゃんはニコニコしながら、
「はい。当然です。私、高橋さんに尽くします」
と言ったが、声には、あきらかに何かを押し殺しているような痕跡を感じた。それを聞いていた茜は、複雑な思いになった。
友梨ちゃんは、可愛い制服を着ている。昨晩美味しいものを食べたらしく、頬の血色がよかった。ただ、さっきの声は、濁りが混ざっているように感じた。彼女の笑いは、ナチュラルではなかった。
茜は、実に複雑な思いに戸惑った。
その日の放課後、晴加は、
「ごめん、今日ちょっと用事があるの」
といって、ひとりで帰宅した。
茜は、ひさびさに一人で帰らなければならなかった。
これまでは、帰宅途中の街には、自分と同じ格好のかわいそうな人達を頻繁に見かけた。しかし、最近になってめっきり減ってきた。あの指輪が広がり始めたことが影響していることはハッキリとわかっていた。
角を曲がり、人気のない寂しい道に入った。すると、何者かが背後から話しかけてきた。
「まだそんな服を着ているのか。頑固だな」
声に気づき、振り返ると、見知らぬ女が立っていた。怪しげな真っ黒いローブ姿だった。死の魔法を使う魔術師のような出で立ちだ。
気味が悪くて後じさりした。そして、相手の顔を見てゾクッと背筋が凍った。
魔導界が街のいたるところでしつこく宣伝広告している反逆者の顔がそこにあった。黒ローブの女はアレクサンドラだった。
「このテロリストに近づくな。口も聞くな。話しているところを目撃したら即死刑だ」の魔導ポリス兵の怒鳴り声が、脳内で再生された。
茜は身を翻し、一目散に駆け出した。テロリストの前から一刻もはやく立ち去らねば!
しかし、走る眼前に、パッとアレクサンドラが出現した。転送魔法の瞬間移動だ。
「だが、その頑固さは、ときには役に立つ」
アレクサンドラはそういってニヤッと笑った。
立ち止まった茜は涙目になっていた。こいつに関わると残酷に殺される。恐ろしい。
「なんの信念もなく、流れるように生きても、不幸にはならないかもしれないが、幸福もない。ちょっと頑固で面白そうな君には、あの指輪の正体を教えてやる。あれは奴隷製造機だ。奴隷の安楽椅子だ。一度はめれば、もう自分の足で歩くことをやめてしまう。
しかし、この腐った新憲法世界では、あの指輪なしに生きるのは困難だ。その青い服はもうじきなくなるが、そのかわりに指輪がCランク者の象徴になる。その流れに生身で立ち向かうのは無謀。きっと君も君の親友も、じきに誰かの奴隷だ。
選択肢は二つしかない。奴隷となり己の尊厳を殺して不本意な生を選ぶか、尊厳を守って殺されるか。
ただ、この場で、君にもうひとつの選択肢があることを示したい。
もうひとつの選択肢は、魔法使いになって、自分の運命と戦うことだ」
アレクサンドラは、懐から黄金に輝く杖を取り出して、茜に向けてかざした。この杖は、エジプトのピラミッドの地下で見つかったあの杖だ。魔導界の人間たちがジェミネーターと呼んでいるあの杖だ。オセロ計画の断行の動機となった杖だ。
「運命に立ち向かうために必要なのは、祈りでも願いでもない。力だ。力を求めぬものが運命を変えることはできない。力をあきらめるものは人生そのものをあきらめている。
この杖は、君たち地球人の力のきっかけになる。この杖が放つ光を、自己に眠る種に浴びせよ。自己の種の開花こそが力の源になるのだ」
茜は、相手が何を言っているのかさっぱりわからなかった。頭の中には、炭なった魔法少女、輪切りにされて散らばった魔法少女の残像がよぎっていた。
一刻もはやく、テロリストから離れなければならない。
茜は、口を聞かないように手で口を塞ぎ、走って逃げ出した。
「もう追ってこないで!」
心の中で叫んだ。
しばらく走って気づいた。もう背後に黒ローブの姿はなかった。やつは、もう追ってこなかった。茜はとりあえずホッとした。
どうにもならない現実を前に、「運命を変える」などといわれても全くリアリティーがなかった。生きるということに、明るい意味を見出すことが困難になっていた。明るいものを見出すこと自体、バカバカしくなっていた。
変な意地を張らずに、さっさと奴隷に成り下がったほうがマシかなと、そんな思いがこみ上げてきた。奴隷という言葉が、嫌に聞こえなくなってきた。
「力」……。そんなもの、こんなシステムの中じゃ、手に入るわけがない……。
人間が、「あきらめ」に立ち向かうのは、そう容易いことじゃない。
一方その頃、晴加は学校のある教室にいた。茜に用事があると言ったのは嘘で、彼女は帰ったフリをして学校に残っていたのだ。理由は、ある人物たちに会うためである。
がらんとした教室にひとりで待っていると、数日前に晴加たちをスカウトした、あのAランクの女たちが入ってきた。そして、彼女たちに付き従うように十名ほどの男女の生徒も入ってきた。派閥の頭首と家来たちといった雰囲気があった。Aランクの女たちの耳にはパールのピアスが、家来風の生徒たちの指には、銀色のリングが光っている。
子機の生徒たちは、数日前までは青装束を着用させられていた者たちばかりだ。今では、Bランクの普通の制服を着ている。頬の血色がよく、目にも光があり、Cランクの抑圧から解放されているのがよくわかった。
晴加は、その日の午前中、Aランクの女に「指輪を受け取る気があれば、今日の放課後、教室で待ってて」と誘われていた。
晴加はもう限界だった。指輪が欲しくて仕方がなかった。
「きっと来てくれると思っていたわ。ありがとうね。佐藤晴加さん」
人相の良くないAランクの女がいった。今日はやけに機嫌が良さそうだ。
「受け取る覚悟は、もう出来ているわよね」
晴加は、ドキドキしながら答えた。
「うん」
女はポケットから子機の銀リングをとりだして、机の上においた。
「さぁ、猿轡みたいなバッテンのマスクと、囚人服みたいな青装束を脱ぎましょう」
女が言うと、「さぁ、脱ぎましょう」と子機の生徒たちが言いながら、晴加の脱衣を手伝った。男子の生徒たちはその間、後ろを向かされた。
彼女は下着姿になった。十七歳のまだ未使用の肌は美しかった。べつの生徒がBランク用の新品の制服を指輪の横においた。
指輪は、装飾物は一切ついていない。ただの銀色の幅のある輪っかだ。窓から入る黄金の夕陽が美しく写りこんでいた。
指輪をとる晴加の手は震えていた。不安はあった。今朝、教室で見た友梨ちゃんと高橋さんのやりとりが頭をよぎった。友梨ちゃんのように、きっと誰かの召使いになり下がるのだと予感して不安になった。しかし、ときめきの方が勝っていた。また以前のようにとまではいかなくとも、普通の生活に戻りたい。とにかくCランクを抜け出したい。その思いが、晴加の手を動かした。
彼女は、リングを指にはめた。
指輪を提供した親機の女は、新品の制服を手にとり、やさしく晴加に着せてあげた。するとみんな一斉に晴加に抱きついた。
「やったね晴加ちゃん。これであなたも救われたね!」
みんなが口を揃えて祝福した。
親機の女が子機の女子生徒たちに言った。
「じゃあ、晴加ちゃんを本来の晴加ちゃんにもどしてあげて」
言われた女子生徒たちは、机に、化粧品とヘアアクセサリーの類を広げて、晴加にむらがった。晴加は、あっという間に女優みたいになった。晴加も茜と同じく、元は名家のお嬢様だ。こっちのほうが彼女らしかった。
親機の女が見とれながらつぶやいた。
「うん、うん、そうよ、晴加ちゃんはやっぱりこうでなくちゃ」
美貌を褒められるのは、やっぱり嬉しかった。晴加は照れて頬が赤くなった。瞳が潤ってキラキラと可愛かった。
「もう大丈夫よ。この指輪が盾となってあなたを守ってくれるからね」
親機に言われると、晴加は嬉しくなった。
だが、この「盾」という言葉が、恐ろしい意味を含んでいることに気づく晴加ではなかった。自分で勝ち取った盾ではない。他人にもらった盾なのだ。
盾を他人にもらうことは、案外恐ろしいことだ。裸になるも同然なのだから。
「ねぇ、いまからみんなでご馳走を食べにいこうよ」
親機がいうと、晴加は不安そうにたずねた。
「ねぇ、マネーキャパシティーはどうなるの? わたし、高いお金は払えないわ」
「ノンノン、心配無用。私のおごりよ」
女は歌うように言って、晴加の手を引いて教室から飛び出した。
一行は、近所のAランク御用達の高級焼肉店に移動した。
晴加にとっては懐かしい香りだった。お肉大好きの彼女は、新憲法以前は、よく両親に連れられてこういった店に来ていた。「焼肉に行こう」と父がいうと、高校生の彼女は子供みたいにはしゃいだ。サシの入った特上ロースとタン刺しが大好物だった。彼女は塩派だった。
店に入り、テーブルにつき、紙エプロンをつけて、コンロに火がはいった。焼き網が熱気でモワモワと揺れて見える。ワクワクする。
「さぁ、遠慮はいらないから、好きなものを頼んで。ここのお店の肉は、混ざりっけなしの黒牛だからね。まぁ、その辺は、お嬢様育ちの晴加ちゃんの方がくわしいかしら」
親機の女は、晴加にメニューを渡した。あぁ、どれもこれも美味しそうなサシが入っている。晴加の唾液線から痛いほどの唾が溢れた。肉の写真に釘付けだ。
晴加の様子を見た親機の女が、連れの二人のAランク女にそっと囁いた。
「びっくりするぐらい楽勝。ケケケ」
二人の女もヒソヒソと笑った。
晴加は、遠慮しながらも、好物のとろける特上ロースとタン刺しを注文した。
炙ると肉から溢れ出た脂が引火し、ボワッと力強く燃えた。香ばしい匂いがふわーと広がり、晴加の脳天を喜ばせた。
焼けた肉を箸であげる。脂は肉の中で沸騰したままだ。とり皿に盛った塩の小山に、チョンとつけて口へ運ぶと、全身の細胞が逆立つのがわかった。晴加は、ライオンになって吠えたくなった。それほどウマかった。ウマいを通り越して、言葉の届かない世界に突き抜けた。
晴加の顔はトリップしていた。本当にうまいものを喰ったときの顔だ。
「あはは、晴加ちゃんって、おいしそうに食べるのが上手ね」
親機の女が言うと、その団体客はドッと笑いに包まれた。
二時間の団欒はまたたくまに過ぎ去った。店を出ても、口の中にはまだ幸せの脂が残っている。
「ありがとう」
晴加は指輪を見せながら、親機の女に礼を言った。女はこう返してきた。
「ねぇ、あなたにお願いがあるの。あなたから沙倉さんを誘ってくれないかしら。あの子、わたしじゃうまく誘えない気がして。でも、あなたなら、うまく説得してくれるような気がするのよ」
晴加は、ニコッとわらって、「任せて」と快諾した。
茜とまた一緒に焼肉を食べたい。また一緒に普通の洋服を着て街を歩いてはしゃぎたい。晴加にとっても願ってもない頼みごとであった。
その頃、茜の家では、恐ろしいことが起こっていた。
彼女たちは、新憲法以来、かつての大邸宅を手放して、新政府が管理する格安で粗末な集合住宅に移住していた。
新憲法に移行し、土地の所有権はリセットされた。土地はすべて政府の所有物となり、人々は住宅の面積に応じた土地の賃料を毎月払うシステムになっていた。Cランクの沙倉家のマネーキャパシティーでは、大きな邸宅の土地代は支払えない。即座に手放して、今の集合住宅に住まいを変えざるを得なかった。かつての幸せ者のCランク者のほとんどは、そうなっていた。
その家に、ひとりのAランクの男が訪ねていた。ひどく人相の悪い男だ。耳にはパールのピアスが光っている。ユニオンデバイズの親機だ。
「おい、さっさと嫁をよこせ」
「待ってくれ……」
茜の父は、妻を抱きしめながら男に懇願した。
父はCランクなのに青い服を着ていなかった。いいスーツを着ていた。そのかわりに指には銀のリングが食い込んでいる。二人が親機と子機の関係にあることは一目瞭然であった。
男は、部屋の隅で縮こまっている夫婦に近寄った。
「俺はなぁ」と男は妻の方に顔をニューッと寄せた。「この女が欲しくてたまらないんだよ」
妻は、茜と同じく美しい顔をしていた。
「待ってくれ、こんなのあんまりだ」
父が泣きながら言うと、男は不機嫌になって、父の指からリングを引き抜こうとした。
「やめてくれぇー!」
悲鳴のような叫びだった。
「そうだよなぁ。この指輪を外されたくないよなぁ。外されたら、とんでもないことになるもんなぁ。ウヘヘヘヘヘ」
男は、また妻に顔を寄せて、いやらしく話し始めた。
「あんたの旦那さんは今日、この指輪をつけて、俺と一緒にご馳走を食べたんだ。今着ているいいスーツは俺がおごってやったんだ。その他、たくさんの幸せを堪能したんだ。
え? Cランクなのにそんなことをして大丈夫なのかって? それが大丈夫なんだよ。その銀色の指輪さえはめていればねぇ。仕組みは小難しくてよくわからないが、子機の指輪をはめていると、親機の俺が身代わりになるみたいなんだ。だから子機がキャパシティーを超えても大丈夫みたいなんだ。と、ここまでは上手い話に聞こえるだろ。でも、ちゃんとオチがあるんだよ。
指輪をはめている間に味わった幸福は、オセロに履歴として残るらしいんだ。つまり、借金をしているような状態になるってわけだ。幸せの借金だよ。
さて、奥さん、ここで問題だ。幸福の借金状態で、この指輪を外すとどうなると思う?」
妻は、何も答えられない。だが、彼女は頭がよく回る女だった。なんとなく指輪のからくりがわかったような気がした。そして、そのからくりが、とんでもなくおそろしいものであることを予感して、寒気がした。
「指輪を外すと、借金を催促されるんだよ。つまり、指輪を外した瞬間、魔導ポリスが現れて、超えた分のペナルティーを受けることになるんだ。
おそろしいねぇ。今日一日だけであんたの旦那は死刑に値するほどの幸福超過を犯したんだよ。指輪をはずせば即死刑だ。ウヘヘヘヘヘヘ」
指輪をはめている間も、オセロにはオーバーキャパシティーが記録されている。罪は罪として記録されているのだ。しかし、Aランク者の親機がセーフティーになって、刑の執行が保留状態になる。
つまり、指輪をはめても、罪が発生しないのではなく、発生した罪に執行猶予がついている状態なのだ。この状態で、指輪をはずすと、セーフティーがなくなり、執行猶予が取り消され、犯した分の刑が一括で執行される。
「奥さん、旦那さんは執行猶予つきの死刑囚なんだよ。ウヘヘヘヘ。大変だね。どうしようか」
「助けてください」妻はボロボロと泣きながら言った。
「いいとも。だが条件がある。こいつと別れて俺の女になれ」
男は、女の体に触発されて興奮状態になっていた。茜の母は、天女のように美しかった。肌は絹衣のようになめらかであった。わざとらしい甘い香りが一切なく、それが品の高さを感じさせて、より男を萌えさせた。
頬にかかる男の臭い息が熱かった。口の中がマグマだまりになっているのがわかった。今キスをされれば、溶かされて殺される……。
「さぁ、返事をしてくれ。旦那の命を守りたいだろ? ウヘヘヘヘヘヘヘ」
夫は、見るに耐えなかった。愛しの妻が、こんなクズに汚されるのが我慢ならなかった。夫は、命を掛けてもいいほど妻を愛していた。
愛が本物であるなら、もしかしたら人はこういう行動を取るのかもしれない。
「ふざけんな!」
夫は叫ぶと、忌々しい指輪を自ら外し、床に叩きつけた。
男はうろたえた。想像もしない無謀な行動に混乱した。
「お、お前、正気かよ……殺されるぞ」
妻は、ボロボロに泣きながら、マスクを引き剥がして青装束を脱ぎ捨てた。そして、夫に抱きついてキスをした。夫もそれに応えた。二人は、強く抱き合い、お互いの魂を交換するように深くくちづけた。
彼女は、嬉しかった。夫が、自分のために命を投げ出してくれたことがたまらなく嬉しかった。
女は現実主義だとよく言われる。しかし、もしかしたら心の奥底は、男以上のロマンチストなのかもしれない。逆に男の心底のほうが、現実主義で臆病なのかもしれない。
「お前に命をかけてもいい」なんて、半端なヒモ男ほどよく口にする。女に命を賭ける男など、ほんとうにいるのだろうか。
だから、妻は嬉しかった。夫にシビれた。人間に生まれた寛喜を味わった。もう、もう他に何もいらない。これ以上、こんな腐った新世界秩序に媚を売って生きる必要もない。「あなた、お願い」
「うん。わかった」
ふたりの言葉に主語がなかった。何をお願いし、何を了解したのか、二人以外に知るものはいない。
夫は、すぐそばの台所から、包丁を持ってきた。床に寝そべる妻に馬乗りになった。妻は、天使のように微笑んだ。
「俺もすぐに行く」
そういって、夫は妻の心臓を一突きにした。夫が妻を刺殺したのだ。そして、大粒の涙でキスをした。エッチなキスじゃない。生命を燃やしたキスだ。
「ええ。ずっと一緒よ」
妻は、頬から一筋の涙をこぼして事切れた。
夫は、卑劣なAランク男を睨みながら言った。瞳の中に、得体の知れぬものすごい業火がメラメラ燃えていた。
「俺は、輪廻は転生すると信じている。この世で命が尽きれば、また次の世界に生まれる。この世の罪は消えない。この世の努力も消えない。すべて次の世に引き継がれる。俺は次の世でも気高く生きたい。そうすれば、また妻に出会えると信じている。
おい、新憲法にあぐらをかくAランク者よ。来世には新世界憲法なんてないぞ。罪がチャラになる狂った法律なんてないぞ。本当の意味で指輪をつけた奴隷は貴様らだ。執行猶予付きの罪人はキサマらだ。この世の罪は消えない。来世に引き継がれて、来世で裁かれる! もしかしたら来世では俺が死刑執行人かもな。その時は、容赦しないぞ。八つ裂きにして地獄の大鍋で煮て溶かしてやる」
夫の声は、一体どこから聞こえているのかわからないような低い声だった。地獄の閻魔大王が、腹話術を使って夫にしゃべらせているような、おぞましさがあった。
Aランクの男は、凍りついて動けなかった。死を覚悟をした瞬間の、異次元の目つき、声、放つ後光のようなオーラは、男の心臓を止めそうなほどの力があった。新憲法などという言葉がちっぽけに聞こえた。
閻魔と化した夫は、部屋の入口の方をみた。そこには呆然と立ちすくむ茜がいた。
茜は、男が訪ねてきたとき、自分の部屋にいなさいと父に言われ、その通りにしていた。父は、いやな予感がしていたのだ。娘に見せなくていいものを見せることになると思ったのだ。
茜は父のいいつけを守って部屋でおとなしくしていた。しかし、格安の集合住宅の部屋の壁は薄っぺらく、父たちの会話は、朧げながら内容がわかるほど聞こえた。
そして、「正気かよ!」の男の声にびっくりして、もう部屋を飛び出さずにはいられなくなった。
部屋を飛び出し、父たちのいたリビングの入口に立ったのは、ちょうど父が母を刺す瞬間だった。
母の顔は、天使のようだった。苦しみながら死んだのではないとわかった。
男に恨みを言い終えた父と目があった。
茜が何かを言おうとしたら、父がそれを諌めた。
「茜、しゃべってはいけない。今、目の前にはAランク者がいる。違憲発言になる。
茜、すまない。俺は、くだらない指輪に魂を売ってしまった。そのせいでこんなことになった。俺はダメな父親だ。許してくれ。
しかし、こんな死に方になったことを後悔はしていない。
茜、どの道俺たちはいつか必ず別れる。いつ別れるかは重要じゃない。別れたときに、何が残るかが大事なんだ。俺は、こんな別れかたでも、別に悪くないと思っている。
俺は、新世界憲法に負けた。しかし、愛を守り抜けた。そうやって死ねた。だから、後悔はしない。ママと一緒に、次の世界で、また大きな会社を起こしてみせるよ。
茜、お前はこの世界の中でどう生きるかを自分で考えるんだ。不本意ながら現実に適応して生き延びるか、俺たちのように散っていくか。どちらも正解だ。自分が悔いを残さないように生きるんだぞ。
じゃあな。茜、愛してる」
自分の胸に包丁を突き立てる父には、恐れなど微塵もないように見えた。対するAランクの男の顔には恐れしかなかった。命が燃えているのは、散ってゆく父の方だと茜は感じた。「生きる」と「燃える」は違うのを、初めて知った。
命懸けの心中を目の当たりにしたAランク男は、恐ろしさのあまり、発狂しながら家を飛び出した。
茜は、血に染まって床に倒れた父と母の亡骸の手をつなぎ合わせてやった。そして、父と母のあいだに寝そべって川の字になった。幼い頃を思い出した。心が温かくなった。そして悲しくなって涙が止まらなくなった。
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