第2話 リンタ・イシュバル


ようやく降りきった真っ白な階段は、そのまま色が地続きになっていて、その先に続く、広く無機質な廊下と完全に同化していた。

すっかりこの白に毒された両目は、まだ段差が続くものと勘違いをしたまま次なる一歩を踏み出してしまい、予想以上の高さに危うく躓くところだった。


深夜2時。地下50階。

途中何度も「引き返そう」「やっぱり下りてくるんじゃなかった」と思いながら何とか歩き続け、ようやくここまで降りることが出来た。

どれだけ深く下っても同じように連続で現れる真っ白で無機質な壁はシンプルに不気味だった。一歩下りて行くたびに気分は萎え、白の奈落に吸い込まれないよう必死で姿勢を保ちながらの地下散歩だ。


当然、私の足は棒のようになり、生まれたての小鹿のようにがくがく。

普段の添乗業務でも、ここまで足を酷使することはない ―――例え、中世の聖地巡礼ツアーでもエジプトの王家の谷建設鑑賞ツアーでも。

なぜってツアーエンジンという「足」があるから。まぁそれを開発してくれたのも、今から私が報告兼クレームを言おうとしている「開発部」なのだけど。


(あそこ…つきあたりの壁から光が漏れてる…?)


目を凝らし見てみると、50メートルは先にありそうな白い壁の一部が青白く光っている。

あの部分が光っているというよりも、その先から光が漏れだしているように見える。染み出している、とも言えるかもしれない。


「あれが開発部の入口かしら…」


白い壁ばかりを相手にしてきたせいで、すっかり色に飢えきっていた私は、吸い込まれるようにその青白い光のもとへと足を向けた。

と、そのときだった。


「あ、あの…。何、してるの…。」


気のせいだろうか。

何かか細い声が聞こえた気がして、ふり返る。

そこには一人の男性が立っていた。


赤毛で癖の強そうな巻き毛。

その分厚い前髪で顔半分が隠れていて、表情は見えない。

目には不自然なほど大きな黒縁をほどこした眼鏡。それに見たことがないような、だぼついてよれよれの素材の服を着ている。そこには微笑む筋肉ムキムキの男が描かれていた。

まっ白なこの空間で赤いビビッドなその服は、何とも浮いて見える。

なるほど。キャシー、あなたの推理はたぶん当たりね。


「あなたが、リンタ・イシュバル?」


そう投げかけると、彼は少し体を不自然に揺らしたかと思えば、首を(前髪で隠れて見えないが、おそらく“視線”を)左右に動かし、消え入りそうな声で、そうだけど、と呟いた。


「私は、アーシャ・三影、営業課の添乗チームよ。午前中にメールを送ったのも私。―――はじめまして、どうぞよろしく。」


多少嫌味を添えて早口で挨拶をする。

この男のせいでこんな深夜に地下旅行することになったのだ、少しは大目に見てもらいたい。

けれど、差し出した右手はいつまでたっても同じ温もりに包まれることはなく、間抜けなことに数秒間宙に浮いたままだった。

先ほどの挨拶はさすがに大人気なさすぎたか、と視線を上に戻しリンタを見る。

彼は所在なさげに何やら右手首を揺らし、ようやく腕をこちらに伸ばそうとしたかと思えば、何かを思い出したように引っ込め、だぼついた服の裾で手の平を丹念に擦っていた。


(何してるんだろ…)


一連の不可解な仕草に疑問を持ちながら、こちらも手を差し出したまま間抜けな姿勢のまま待つ。

そんな私の視線に気づいたのか、リンタは「あ、ごめ…」と慌てて服から手を離し右手をおずおずとこちらに向けた。

かくして私たちは数十秒の沈黙をもって無事握手を交わしたのだった。






「えっと…、それで開発部に用事って何かな」


ようやく握手を交わしたかと思えば驚くほどの早さで手が離れ、リンタはまたもやこちらに背を向けたままボソボソと話しだした。


「その、今日は無理だって返信したと思うんだけど…」


「分かってる。だからこうして直接会いに来たのよ。」


そう、わざわざ深夜に気が狂いそうなほど果てしない廊下を下ってね。


「テイラーは帰宅日なんだ。だから今ここには僕しかいないよ。」


フリッツ・テイラー。

開発部のチーフで、科学チームの重鎮でもある。

営業課―――、というか添乗チームとはほとんどと言っていいほど接点はないけど、その名前を知らない人はいない。

噂によるとなかなかのやり手で、専門職の科学部にはめずらしく政府担当者とのつながりも強いらしい。年末のパーティーやサロンの会合なんかにも必ず名を連ねているようだ。まぁ全部キャシー情報だけど。


「別にテイラーじゃなくてもいいの。開発部のメンバーに報告しなきゃいけないことが起きたから、ここまで来たのよ。」


「でも、僕に報告を聴く責任義務は与えられてないんだ。開発チームはその、細かい分業制で動いてるから…」


「現場で個人が汗水流して、泥臭くツアーを遂行してる添乗チームとはわけが違うって?」


煮え切らない返事に、またもや嫌味で返してしまう。

おかしいな、いつもはこんなことでチクチク言ったりしないのに。深夜に返された“断固拒否”の四文字、私そうとう引きずってるみたい。


「とにかく、他に人がいないなら私はあなたに報告するしかないの。そっちになくても添乗チームは開発部へ報告義務があるんだから。せっかくここまで来たのに、お願いよ。」


少しはしおらしくしないと話を聞いてもらえないかもしれない。焦った私はリンタを真正面からとらえ、懇願するように言った。

オタクだろうが人間嫌いだろうが、報告を受けてもらわなければこの数時間を費やした私の忍耐と体力が報われない。


リンタはしばらくモジャモジャの前髪を指でいじりながら、首をかしげたり小さく咳払いをしてもだついていたが、とうとうこの空気に根負けしたのか、下を向いたままポツリと言った。


「分かった、報告を受けるよ。こ、こっち…。」


そう言って示されたのは青白い光が漏れていた壁とは逆の、リンタが現れた方向だった。

そして思わず「またか」と一人ごちてしまう。

そこにはいい加減げんなりするほど白い壁で覆われた空間が広がっていた。

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