エモノの家.1

 翌日は針のような雨が降っていた。


 号刀は烟る九木宅を見上げた。紙枝は来ないらしい。急遽大学の講義が入ったと言っていたが信じられなかった。

「逃げやがったな……」


 辺りは静寂に包まれ、ビニール傘を打つ雨の音だけが響いた。近隣住民が、以前はよく母娘が演奏するピアノの音が聞こえたと語っていた。それも九木秋生が疾走してからは途絶えたらしい。変死に怪奇現象。今まで扱った事件とは程遠く、自分の手に負えるとは思えない。

「それでも、俺にやれることをやるしかないよな」


 号刀は深呼吸し、インターホンを押した。空の鉢植えと鍵型のモニュメントが雨に濡れている。仄かな異臭を感じたが、正体を探る前に扉が開いた。



「毎日来ていただいてすみません」

「いえ、あれからお変わりないですか」

「今のところは……」

 菫は会釈する。家に上がった途端、香の匂いが鼻をついた。

 見ると、洋風のリビングに似つかわしくない、神棚のようなものが円卓に置かれている。


「これは?」

「実は今日霊媒師の方がいらっしゃるんです。昨日いらした御二方のお知り合いだそうで」

 白木造りの神棚は小さな扉に精巧な細工の留め具が施され、左右には御神酒と榊を活けた筒があった。

「今までもそういった方を呼ばれたことは?」

「何度かありますが、どなたも効果がなくて」

 号刀は神棚の隅々まで見渡してから天井を見上げる。昨日のような振動も訪れず、抗菌加工の壁には汚れひとつない。


 菫がおずおずと口を開いた。

「昨日の男はどうなりましたか?」

 昨日見た各務の姿と、玉栄から送られた動画の中で祈るように拳を握る少年が、交互に脳裏を過った。号刀は言い淀む。

「厳重に注意しておきました。当分家には近づかないかと」

「逮捕できないんですか!」

 菫が声を荒げ、号刀の腕を掴んだ。長い爪がシャツの下の肌に食い込む。

「落ち着いてください。令状もなく逮捕はできません」

「そうですか……」

 菫は陰鬱な表情で手を離した。

「取り乱してすみません。でも、心配で。私はともかく、娘に何かあったら……」

「お気持ちは理解しています。我々が警備を強化しますので」



 号刀は皺の寄ったシャツの袖を払った。背後に視線を感じて振り返ると、居間の入り口から菫の娘が覗いていた。服は寝間着から着替えてきたが、顔は昨日より青白い。

「天花、どうしたの?」

「モモがいないの」

「モモとは、犬の?」

 号刀の問いに天花が頷く。菫は困ったように辺りを見回した。

「またベッドの下じゃない?」

「いなかった。朝から見てないの。窓開けっ放しにしてないよね」

「してないって。もうこんなときに、先生が来ちゃうじゃない」



 ちょうどインターホンが鳴った。菫が駆け寄ってドアを開ける。現れたのは黒い着物を纏った、三十歳前後の男だった。

「どうもお邪魔します。あら、聞いとらん方もいてますね」

 男は訛りのある言葉で挨拶し、頭を下げた。長髪を結い上げ、手首に数珠を提げていたが、柔和な笑みは霊媒師というより保育士のようだった。



「どうも、先生。こちらは刑事さんです。ご一緒して大丈夫ですか?」

 号刀は無言で会釈する。男はまた鷹揚に微笑んだ。

「構いませんよ。それより、"穢れ"は大丈夫ですか」

 菫は玄関にスリッパを並べながら頷く。

「はい、主人の遺骨も余所に預けてあります」

「助かります。それがあったら全部いけんようになりますから。ご遺体や遺骨は以ての外。冷蔵庫の中にも魚や牛の肉なんかも一旦出してもろうてええですか」

「昨日のうちに捨ててあります」


 男はスリッパに足を通し、嘆くような声を漏らす。双眸が水晶のように輝いた。

「よういてますね。ざっと五人はいるんと違うかな」

「先生、どういうことですか」

 菫が青ざめる。男は廊下の先を指差した。天井にしみがあった、二階への階段に続く場所だった。


「霊道いうて、まあ言うたら死んだひとの通り道なんですが、あそこがちょうど真ん中なんです。でも、普通は波長が合わんかったら霊もすぐに出ていくもんやけど、何やちょっとおかしいな。無理矢理縛りつけとるみたいですわ」

 男は笑みを打ち消して静かに呟いた。

「場所ってよりこら人間やな……」

 菫の目つきが鋭くなる。男はすぐに表情を和らげて向き直った。

「まあ安心しとってください。そんならすぐに始めましょうか」



 男は居間のカーテンを閉め、鞄から燭台を取り出した。窓が雨雲の色を映して暗く沈み、室内の酸素が重量を持ったように空気が重くなる。

 男がマッチを擦ると、一条の紅が闇を裂いた。


「そうだ、亡くなった旦那さんの写真ありますか?」

 霊媒師の問いに菫は唇を震わせた。

「ありません」

「一枚も?」

「はい、前に来た霊媒師の方によくないから全部捨てろと言われたんです」

「なるほど……」

 男は唇に指を押し当てて考え込む仕草をした。

「じゃあ、思い出の品なんかはありますかね」

「でしたら、福岡に旅行に行ったときの……」


 菫が慌てて箪笥をひっくり返した。号刀は赤い舌のように闇を舐める炎から目を逸らす。

 天花は変わらず真っ青な顔で、部屋の隅に張り付いていた。小さな包みを手にした菫が振り向く。

「天花、こっちに来なさい」

 霊媒師の男は手を振った。

「無理しておらんでも大丈夫ですよ。刑事さん、その娘の様子見とってください」

「でも……」

 天花は不満げな母に背を向け、さっと廊下の奥に消えた。号刀は彼女の後を追った。



 這うような読経が響き出す。先程の男の喉から出ているとは思えない、低く重苦しい声だった。


 天花は廊下の隅で蹲っていた。犬の代わりにクッションを抱きしめ、短い爪を食い込ませていた。号刀は彼女の前に膝をついて言った。

「俺も昔、犬を飼ってた」

 天花の瞳が小さく震えた。号刀は慣れない笑みを作る。

「父も警察官で、引退した警察犬を譲り受けた。シェパードで、子どもの頃の俺よりデカかった。その犬がいなくなったことがあったんだ」

「見つかった……?」

「ああ、隣の家に上がり込んで、干してあった魚を盗み食いしてた」

「警察犬なのに泥棒なんて」

 天花は強張った頰を緩ませ、少しだけ笑みを浮かべた。

「だから、モモもきっとすぐ見つかる」


 読経の声が増し、鈴の音が苛むように響く。昨日のような家鳴りはないが、声に呼応して壁全体が戦慄しているように思えた。号刀は天花の肩に軽く手を置いた。

「……俺の父は盗難車を追ってるとき犯人に撥ねられて殉職した。天花ちゃんの気持ちがわかるとは言わない。だけど、親を理不尽に奪われた気持ちは少しはわかるつもりだ。同じ思いをするひとを少しでも減らしたいと思ってる」


 霊媒師が高く低く唸る。鈴が打ち鳴らされ、荘厳な音が鼓膜を掻く。天花は号刀の手に指を重ねた。

「刑事さん、あのね、お母さんは……」



 絶叫が、少女の声を掻き消した。天花は再び青ざめて身を竦める。

「見てくる、動かないように」

 号刀は短く伝え、リビングに駆け戻った。


「何があった!」

 霊媒師が鈴を片手に座り込んでいた。菫は口元を覆って立ち尽くしている。

 真っ暗な部屋で蠢く燭台の炎が、フローリングを照らす。供えの酒瓶と榊は倒れ、床板に水溜りと散った葉が散乱していた。


「あかん……これはもう……」

 霊媒師の男が声を震わせる。

 視線の先には白木造りの神棚があった。金細工で留められていた扉が僅かに開いている。その隙間から毛に覆われた何かが覗いていた。号刀は言葉を失う。

 神棚の中に鎮座していたのは切断された犬の首だった。食い縛った歯から、昨日飼い主を庇った号刀の頰を舐めた舌が、色を失って伸びていた。



 かたりと音がして、振り向くと天花が立っていた。

「モモ、どうして……」

 少女は糸が切れた人形のようにへたり込んだ。

「くそっ……」

 号刀は咄嗟に駆け寄って脈を確かめる。そのとき、カーテンの向こうに影が揺らいだ。


 号刀は少女を寝かせ、玄関から外へ飛び出した。

 周囲に人影はない。激しくなった雨が号刀の肩を打ち付ける。

 訪れたときに感じた異臭がまた漂った。


 号刀は視線を巡らせる。鍵型のモニュメントの下の、空の鉢。溜まった雨水が雫を跳ね上げる。

 異臭はそこから漂っていた。


 号刀は慎重に近づき、鉢の中を覗いた。

 濁った水底に首のない犬の死体がある。真新しい断面から一筋の血が紐のように水中を揺蕩った。

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