霊能者

 窓の向こうの男が踵を返す。

 号刀は窓を開け放ち、窓枠を蹴って外に飛び出した。

「刑事さん!」

 菫の声を背に、号刀は靴下のまま庭を駆け抜ける。男は通りの向こうへ渡ろうとしていた。



「待て!」

 号刀は男の腕を掴む。骨張った細い手の先は泥で汚れていた。

「何だよ、気色悪いな」

 男が号刀を見上げた。黒子の多い顔は青白く、開けたシャツの胸に肋骨が浮いている。荒れた髪の間から覗く眼光だけは鋭かった。

 窃盗や障害、薬事法違反でよく見た類だと感じた。


 男が鬱陶しげに身を捩る。号刀は腕を締め上げた。

「この家の前で何をしていた! 今捨てたのは何だ!」

「うるせえなあ。てめえの家じゃねえだろ。裸足で来やがって、そっちこそ何だよ」

「警察だ」

 号刀が懐の手帳を出す。男は歯を見せて笑った。

「刑事かよ」

「何がおかしい」

「だったら、家じゃなくてちゃんと人間を見な」


 男は軽く手を振った。

 急に重心を崩され、号刀はたたらを踏んだ。掴んでいたはずの男の腕が離れている。拘束から脱した瞬間すら気づせず、いつの間にかすり抜けていた。

 驚く号刀に、男はまた歯を見せる。


「そうだ。刑事なら二課の玉栄って奴、知ってるか? 顔に火傷のある暗い女」

「……玉栄さんを知ってるのか」

「さん付けかよ。まあいいや。会ったら伝えとけ。『かがみ』を見かけたって。それでわかる」


 男はそう言い残して去った。ゴムで雑にまとめた髪が跳ねるのを、号刀は何もできずに見送った。



 紫煙が立ち込める倉庫のような一室で、号刀は机に肘をついた。


 咥え煙草の玉栄が奥の席から首を伸ばす。

「成果はどうだった?」

「散々でしたよ。紙枝さんがろくでもないことを聞いて遺族の方を怒らせるし……」

「いやいや、大事なことなんですよ」

 紙枝は机上の資料を掻き寄せた。

「報告書ですか?」

「これは生徒の小テストです。明日までに目を通さないとまずいので」

「勤務時間中でしょう!」

 紙枝は怒声に身を竦めたが、すぐに赤ペンを取り出した。号刀は舌打ちして肩を回す。


「先に紙枝くんから聞いたけど、九木の家はおかしいらしいね」

「はい。捜査一課で言ったら笑い物でしょうが……心霊現象としか言えないことが」

「例えば?」

「家が独りでに揺れ出して物が壊れたり、天井から泥のようなものが落ちてきたり、九木が失踪する前から続いているそうです」


 玉栄は驚きもせずに頷いた。

「例の変死と関わりがあるのかな。それについて何か対策はしてた?」

「ご遺族の奥さんのツテで霊媒師のようなひとを呼んでいるそうです。自分たちも見かけました」

「あの不気味なお婆さんたちですよね」

 紙枝が顔を上げる。


「紙枝くんも見たんだ。その霊媒師が何かしてた様子は?」

「それが全くないんですよね。服装と道具からして彼女たちは歩き巫女の系譜だと思います」

「歩き巫女?」

「特定の神社に所属せず、全国を旅して祈祷を行う巫女ですよ。白の脚胖、腰巻と下襦袢。背負ってた箱は外法箱という神具です。二人から三人で口寄せを行うのも特徴に合ってます」


 号刀は感嘆した。

「わかってたんじゃないですか」

「確証が持てなかったので後から調べたんですよ。現代にもいるのは知りませんでしたし。結論から言うと、似非霊媒師ならあれほど凝った設定にしないと思います。それに、変なのは家というか何というか……」

 歯切れの悪い言葉に、玉栄は息を漏らした。

「二課の頃は詐欺師が家に工作して霊に取り憑かれてるなんて言う手法をよく見たけど、その線は薄いみたいだね」



「そういえば」

 号刀は立ち上がった。

「机揺らさないでください。ペンが……」

「大学の仕事は研究室でやってください」

「ないんですよ。非常勤だから」

 号刀は苛立ち混じりに前髪を上げた。


「九木宅の前に怪しい男がいたんです。遺族の話では被害者が失踪する直前から度々目撃されて、怪奇現象も同時期から起こったとか。その男と直接会話しました」

「会話というか、裸足で飛び出して掴みかかってましたよね」

「紙枝さんは黙っててください!」


 玉枝は首を傾げる。

「それで、どうだった?」

「二十代前半の痩せ型の男です。黒子が多くて、派手なシャツを着た……男は玉栄さんの名前を出しました。二課の玉栄に会ったら『かがみを見かけた』と伝えろと」

「そうか、彼がいたんだ。もうそういうことに関わらないと思ってたんだけどね」



 玉栄は長く煙を吐き出した。煙の向こうに広がる何かを見つめているような沈黙が続いた。

「彼は、何者ですか?」

 玉栄は滞留する煙を眺めて言った。


各務かがみ暉良あきら。七、八年前にちょっと話題になったんだよ。心霊手術ってわかる? メスを使わず直接体内に手を入れて悪性腫瘍とかを取り出すの」

「昔流行った眉唾でしょう。動物の内臓なんかを手に隠し持って患部を抜き取ったように見せる手品だ。各務がそれを?」

「うん。彼も詐欺師と言われて、いろいろ大変だったの」


 号刀は顎に手をやった。揺れる天井から滴る黒い泥、同じものがあの男の指先が垂れていた。

「あの男が今回の事件に関わっているのでは?」

「どうかな。無関係とは言わない。でも、犯人ではないと思うよ」

「何故そう言えるんです?」

「彼は詐欺師じゃない。ホンモノだから」

 短い言葉に冗談の色は一切なかった。


「正気ですか? 馬鹿馬鹿しい。今この瞬間も新たな被害が出るかもしれないんですよ!」

「号刀くんは信じない?」

「当たり前でしょう」

「死んだ九木も誰にも信じてもらえなかったかもね」

 号刀は息を呑んだ。


「だって、あんな死に方したんだよ。普通じゃない。ああなる前にいろんなことがあって悩んでも、誰にも信じてもらえなくて、結局助けてもらえなかった」

 玉栄は紫煙を吐き、俯く号刀に言った。

「暴かない方がいい真実もあるかもしれない。知ったら常識が覆されて今まで通りに暮らせないようなことがね。でも、私たち刑事くらいは誰にも目を向けてもらえないひとをちゃんと見てあげなきゃ」

「係長……」

 号刀は顔を上げて強く頷いた。

「自分が不覚でした。これからもご指導ご鞭撻お願いいたします」

「こちらこそよろしく」

 玉栄は火傷で引き連れた頰で微笑んだ。


「各務に関しての動画はネットで探せばあるよ。違法アップロードだからウィルス気をつけてね」

「前言撤回します。まずネットリテラシーを守ってください」

「真面目だね。仕方ないな。私が押収した動画をあげる。昨日連絡先交換しておいてよかった」


 玉栄が左手でスマートフォンを弄ると、号刀の液晶にURが浮かび上がった。動画のファイルは簡潔な日付だけが記されている。

「少し休憩していいよ」

「では、煙草吸ってきます」

「ここで吸えばいいのに」

「規則ですから」

 号刀は扉を押して、喫煙所に向かった。



 駐車場の奥のパーテーションにもたれかかり、号刀は煙草に火をつける。少し迷ってから、玉栄から送られた動画のファイルを開いた。


 非常灯だけが灯る薄暗がりにブルーライトが光る。

 端末から叫び声が響いた。


「先生、誰か!」

 画質も音質もひどく粗い。

 等間隔で挿す薄明かりと緑色の壁紙で学校の廊下だとわかった。撮影者は教室の中から携帯を伸ばして隠し撮りしているのだろう。


 制服を着た少女が座り込んでいる。さっきの叫びは彼女のものだと思った。少女の前には同じ制服の男子生徒が横たわっていた。男子生徒は微動だにせず、死体のように目を閉じている。


 上履きが廊下を擦る音が響き、もうひとりの男子生徒が駆け寄ってきた。彼は倒れた級友のそばに膝をつく。

 まだ幼く髪も短いが、痩せた腕と顔の黒子で各務だと気づいた。


「暉良、どうしよう。息してないよ!」

 少女の声に、各務は唇を噛んだ。死刑宣告を受けたような張り詰めた表情だった。忙しない足音とざわめきが聞こえる。各務が口を開いた。

「誰にも言うなよ」


 各務は男子生徒に覆い被さるように屈んだ。骨張った腕が少年の腹を押す。水に浮いたハンカチを押したように、各務の手の平はシャツを貫通して腹に沈み込んだ。


 画面が大きくぶれる。

 女子生徒が飛び退いた。各務は無言で腕を伸ばし続ける。既に肘まで少年の腹に埋没していた。

 くぐもった呻きを上げ、各務は腕を抜き取った。手の平にはドス黒い血の塊が蠢いていた。


 少女の悲鳴が響く。各務は臓物のような塊を握ったままそこに立ち尽くしていた。ざらりとノイズが走り、映像はそこで途絶えた。



 煙草の先端から灰が液晶に落ちた。

 号刀は慌ててスマートフォンを払う。信じられないが、加工とも思えない。気づかないうちに煙草は随分短くなっていた。号刀は煙草を咥え直し、深く煙を吐く。

「ちゃんと見ろ、か……」


 画面の中の各務は祈るように拳を握っていた。

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