軋む家

 地下鉄駅の階段を上がり、号刀はネクタイを緩めた。

 重低音の響くホームといい、吐息のような生温かい風といい、昔からメトロは苦手だった。電車に揺られる最中、例の事件の犠牲者が脳裏を過ったせいもあるのだろう。



 紙枝は日差しに眼鏡の奥の瞳を細めつつ、街を見渡した。

「すごいですね、清澄白河に家を持ってるなんて。最近人気で地価が一千万近く上がりましたよ」

「詳しいですね」

「私の勤務先が所謂お嬢様大学なんです。嫌でも耳に入りますよ。非常勤講師には縁のない話ですが」


 紙枝は重たげな鞄を抱えて歩き出した。彼の覚束ない足取りから、号刀は目を背けた。こんな危なっかしい奴と捜査に向かうのか。



 煌めく川の水面を横目に進む。下町情緒を残す街並みに真新しいカフェやワインバーが並んでいた。

 清潔な衣服を着た若者たちがテラス席で歓談する様が見える。


「号刀くん、どうしました? 目つき怖いですよ」

「犠牲者、九木秋生のことを考えていました。ここに家を買って、子を育てて、人生を設計していたんだろうなと」

 号刀は口元を引き締めた。

「今ここにいる人間もあのニュースを見たでしょう。自分と無関係のイカれた奴だと思ったはずだ。自分と同じように人生があったことも想像せずに」

「怒ってます?」

「いいえ。そういう人間を事件と一生無関係なままでいさせること、そうなれなかった人間の無念を晴らすこと、それが刑事の仕事ですから」

「真面目ですねえ……」

「紙枝さんも真面目にやってくださいよ。学者だろうと事件に関わるなら警察の一員だ」

 紙枝は足踏みしてずり落ちた鞄を抱え直した。



 辿り着いたのは住宅街の一角、白壁を緑が囲む一軒家だった。瀟洒な佇まいも、事件のことを思うと鬱蒼とした刑務所の壁のようにも思える。


 号刀が近づく前に、独りでに家の扉が開き、中から二人の老女が出てきた。両方とも白い着物を纏い、葛籠のようなものを負ったふたりは家に向けて何度も礼をする。

 紙枝が号刀のシャツの裾を掴んだ。

「何ですか、不気味ですね」

「知りませんよ。学者の領分じゃないんですか」

「見ただけでわかるなら学者じゃなくエスパーですよ!」

 紙枝の大声に老女たちが振り返る。ふたりは黄ばんだ歯を見せて笑い、一礼した。


 老女たちが去ってから、号刀は紙枝の背を小突く。

「真面目にやれって言ったばかりでしょう」

「わかってます、力強すぎますよ」

 紙枝は自身の背を摩りながら家の外観を見渡した。


「あ、壁に何か……」

 号刀は紙枝が指した方を見る。白壁の一部に銅のモニュメントのようなものがかかっている。楕円と長方形を組み合わせた小さな飾りだった。真下には空の植木鉢があった。

「鍵の形ですかね」

「そうですね、いや、どうかな……」



 そのとき、再び家の扉が開き、中年の女が現れた。

「何か御用でしょうか」

 白いブラウスと黒いスカートを合わせた上品な出立ちだが、頬はこけ、目の下にクマがあった。


「お話しすることは何もありません」

 扉が閉まりかけ、号刀は慌てて手帳を出した。

「刑事の号刀と申します。ご連絡言ってると思いますが旦那さんの事件について伺えないかと」

「捜査一課の方で……」

 紙枝は卑屈な笑みを浮かべた。号刀は小声で怒鳴る。

「紙枝さん!」

「嘘じゃないでしょう。そう言えば通りがいいですから」

 号刀は舌打ちし、また紙枝の背を小突いた。



 家の中は外観と同じく白い家具で統一されていた。

 革張りのソファやラベンダーを活けた花瓶は真新しいが、部屋の奥のピアノだけは年季が入っていた。


 ソファに座った号刀と紙枝の前にレース編みのコースターが置かれ、女がアイスティーを注ぐ。

「九木秋生の妻、すみれと申します。娘の天花てんかが……」

 菫は背後に視線をやった。

「おいで。大丈夫、刑事さんだから」


 廊下の先にかかった透明なビーズ暖簾がからりと音を立て、マルシーズーを抱いた少女が現れた。寝巻き同然の服で、長い髪は毛糸のように荒れている。

 犬が忙しなく吠え出した。

「モモ、やめて」

 少女が短く叱ると、犬は首をすくめた。



 天花は犬を抱いたまま、母親から少し離れた場所に座った。菫が眉根を下げて微笑む。

「すみません。夫が失踪してから娘は高校にも行けてないんです。私もピアノの講師をお休みしてて」

「この度はご愁傷様です」

 号刀は目礼してから視線を上げた。


「秋生さんが失踪したのは半年前ですね。何か心当たりは?」

「それが全く……何か悩んでいたんでしょうか。家族にも相談してくれないなんて……」

 菫は顔を覆って俯いた。紙枝は居心地悪そうに視線を泳がせる。娘の天花が口を開いた。


「お母さん、家のこと言わなくていいの」

「やめなさい。信じてくれるはずないんだから」

 号刀は母子を見据え、紙枝を指した。

「どんなことでも聞かせてください。専門家もいるんです」

「ちょっと、号刀くん」

「さっき俺をだしにしたでしょう」

 紙枝は気まずそうに冷茶を啜る。菫は顔から手を下ろした。

「……夫が失踪する直前から、この家はおかしいんです」



 案内されたのは二階へと続く階段の前だった。

「ここです」

 菫が指した天井には黒い染みのようなものがあった。

「最初は水漏れかと思ったんですが業者に聞いてもわからなくて。それに、あそこからときどき変な音がしたり、家が揺れたりするんです」

「欠陥住宅ですかねえ……」

 紙枝の間伸びした声に、菫は僅かに呆れた表情を浮かべた。


 犬を抱いた天花が首を横に振る。

「変な音というか、人間の声みたいなんです」

「声ですか?」

「はい。しかも、家が揺れるのも少しじゃなく、地震みたいで……」

 菫は溜息をついた。

「私のツテでそういうのに詳しい方に来てもらってるんですが、わからないそうです」

 号刀は先刻の老女ふたりを思い返した。

「さっきの方がそうですか?」

「はい、私の祖母の代からお世話になってる方々で……」


 紙枝が恐る恐る手を挙げた。

「あの、旦那さんの葬儀ってどうしましたか?」

 菫が怪訝そうに眉を顰めた。

「葬儀ですか?」

「はい、仏教式でもキリスト教式でも何でもいいんですが……」


 号刀は視線で紙枝を嗜める。

「紙枝さん、変なこと言わないでくださいよ」

「いえ、そうではなく……」

「何ですか。夫の弔いが問題だって言うんですか! 祟りだって言うかですか!」

 菫が声を荒げた。犬が鋭く吠える。そのとき、号刀の足元が生き物のように波打った。



 家全体が掴んで揺らされたように激しく震動する。壁紙がミチミチと音を立てて撓んだ。紙枝はその場にへたり込む。

「何ですか!」

「これです! こんな風に急に家が!」

 菫は立ち尽くして叫んだ。


 天花が悲鳴を上げて蹲る。号刀は咄嗟に彼女に覆いかぶさった。衝撃でビーズ暖簾が弾け、透明な玉が砕け散る。降り注いだ破片が号刀の背を打った。

「刑事さん……」

 天花が泣きそうな声を漏らした。

「大丈夫だから」

 号刀は腕に力を込めた。ふたりの隙間から這い出した犬が号刀の頬を舐める。


 号刀は天井を見上げた。黒い染みが広がっている。ジクジクと虫が紙を食い破るような音を立て、泥が滴り落ちた。

「何だあれは……」


 呟いた瞬間、急に振動が止まった。

 紙枝が這いずって立ち上がる。号刀も少女から手を離して身を起こした。


 天井の染みは元の大きさに戻っていたが、廊下には先程の泥が残り、砕けたビーズの欠片を汚していた。


「何だったんだ……」

 号刀は天花に手を貸して立ち上がらさせる。犬が天井に向けて吠え出した。紙枝は眼鏡をかけ直しながら言った。

「あの、菫さんはどちらに?」

 見回しても彼女の姿はない。

「娘を置いて何処に行ったんだ」

 号刀は舌打ちして廊下を後にした。



 リビングに戻った瞬間、号刀は息を呑んだ。

 菫は窓に張り付くようにして背を向けていた。彼女の爪は窓枠を掻き続け、鋭い音が鼓膜を擦る。

「またあの男……」

 菫が低く唸った。


 号刀は警戒しつつ、彼女の肩に背を置く。菫は跳ねるように振り向いた。顔全体が強張った、壮絶な表情だった。

「大丈夫ですか?」

 菫は嫌悪を隠さず窓の外を指す。

「あの男です。夫が失踪して、家がこうなる直前から、いつもあの男がいるんです!」



 号刀は窓枠に手をかける。

 通りの先に、痩せた男の影があった。男は鋭い眼光で家を睨み、指先を動かした。


 煙草の吸殻を捨てるような仕草だったが、男の手から溢れたのは一掴みの泥だった。

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