エモノの家

警視庁警備局公安課不能未遂係

 警視庁にこれほど暗い廊下があるとは知らなかった。


 号刀ごうなた誠人まことは段ボール箱を脇に抱え、天井を見上げた。

 蛍光灯が瀕死の虫の鳴き声に似た音を立てて明滅する。

 一歩進むごとに廊下は廃墟のように暗くなった。号刀は等間隔で並ぶ灯りだけを見て進む。振り返れば、昔の同僚や後輩たちの視線が突き刺さるからだ。


 そこら中から忍び出す声を自分の足音で掻き消し、号刀は半開きのドアの前で立ち止まった。

 ぶら下がるホワイトボードに書かれた文字は「不能未遂係」。

 号刀は段ボール箱に垂れるネクタイを左肩にかけ、扉をノックした。


「今日付けで配属されました、号刀誠人です」

「どうぞ」

 ドアの隙間から女の声がした。「入れ」ではなく「どうぞ」か。今までの部署では考えられないと思いながら扉を押す。煙の匂いが押し寄せた。



 倉庫と見紛う雑多な部屋だった。

 無数の段ボール箱や備品、警察のマスコットキャラクターの着ぐるみ、警察学校の体育祭で使った大玉や三角コーンが押し込められている。


「何だここは……」

 ガラクタの奥に机と椅子が四つ並んでいた。最奥に座るスーツ姿の女は、机上に灰皿を乗せ、堂々と煙草を吹かしていた。


 号刀は思わず口元を覆った。女が顔を上げる。長い前髪で隠れた右半面には生々しい火傷の痕があった。

「煙草、駄目だった?」

「いえ、自分も吸いますが……」

「そう。よかった」

「そうではなく……署内は禁煙ですよ!」

「誰も見に来ないよ、こんな所。君も吸いたいときに吸っていいから」



 唖然とする号刀の背後から、軽い足音が近づいてきた。

「係長、駄目じゃないですか!」

 上ずった声に号刀が振り返ると、眼鏡をかけた男が立っていた。

「新人さんが来るときぐらいちゃんとしてくださいよ。しかも、元捜査一課のエリートですよ。うちで頑張ってもらわないといけないんですから」

「エリートならこんな部署に配属されないよ」


 男は眉を下げて会釈する。

「来て早々すみません。うちはこういうところで……号刀くんも楽にしてくださいね」

 号刀は曖昧に頷き、男を見下ろした。細身で弱々しく、警察学校に入りたての生徒でも二秒かからず張り倒せそうだと思う。長い黒髪をひとつに縛った佇まいは、とても刑事には見えなかった。



 女は咥え煙草のまま、机の隅の書類を取った。

「元捜査一課、その日焼けとタッパ、まさに体育会系。今は二十六歳か。よくその若さでそこまで叩き上げたね。で、何でこんなところに来たの」

 号刀は眉間に皺を寄せる。


「そちらをご覧になればわかるかと」

「部下へのセクハラ、パワハラだって? うそでしょう。君は真面目そうだし、逆にそういうことを表立って糾弾して恨みを買った。あとは濡れ衣を着せられて左遷、ってところかな。それとも、上司の裏金でも見つけた?」

「……その両方です」

「私も一応刑事だからひとを見る目はあるよ」

 号刀が俯くと、女は火傷痕を歪めて微笑んだ。


 眼鏡の男が慌てて手を振る。

「号刀くん、そういう話は聞かせないでください。警察の裏事情をいろいろ知るとまずいので……」

 号刀は語気と目つきを鋭くした。

「まずいって、あんたも刑事でしょう」

「違いますよ」

「何?」


 女は指の代わりに煙草の先で男を指した。

「本当に刑事じゃないよ。彼は御用学者の紙枝かみえだくん」

「御用学者って……民俗学ですよ。普段は大学で非常勤の准教授ですが」

 号刀は怪訝に眉を顰める。

「民俗学が何故警察に?」

「うちはそういう部署なんだよ」


 女は灰皿の底で吸い殻を潰して立ち上がる。

「うちが扱う犯罪は不能未遂。犯罪的意図は発生しているけど、結果が生じるはずのない犯罪。丑の刻参りで他人を呪い殺そうとする、とかがわかりやすいかな」

「ここは丑の刻参り取締り課ですか」

「面白い聞き方するね。でも、ほとんど合ってる。私たちは科学で解明できない事件を一課から押し付けられるゴミ箱みたいなもの。警視庁警備局公安課、通称『不能未遂係』。私は係長の玉栄たまえ。掃き溜めにようこそ」


 蛍光灯が虫のように鳴き、部屋が暗転した。暗がりに浮き上がる煙と埃とガラクタを眺め、号刀はまた溜息をついた。



 闇の中で、玉栄と紙枝は机と椅子を動かし始めた。

「早速事件が来てね。暗いままでいいよ。どうせ今スクリーンを下ろすから」

「自分も手伝います」

「号刀くんは座ってて。ああ、扉は完全に閉めなくていいよ。うちは空調がないから下の少年事件課のエアコンの風を入れてるの」

「こういうときだけ少年犯罪に感謝しますよ」

 埃まみれのプロジェクターを叩く紙枝の呟きに、号刀は小さく舌打ちした。

「機密も矜持もあったもんじゃないな……」



 地震のような音を立てて、部屋の中央にスクリーンが下りる。傾いた平面に青い光が灯り、プロジェクターが唸り出した。


「やっと動いた。見て」

 玉栄はリモコンを振る。スクリーンに映し出されたのは、泥の塊だった。目を凝らすと膝を折って座る人型を造っているのがわかる。歴史の教科書で見た兵馬俑の人形のようだと、号刀は思った。


「号刀くんもニュースで見たでしょう。昨日、六月二十四日、午前五時十分、新宿三丁目駅から全裸の男が現れた。証言によると、彼は何かを大声で告げ、その後、警察が駆けつける前に死亡した。遺体は土のようになって崩れ落ちたって」

「知ってます。薬物依存か何かでしょう」

「どうかな。一課がうちに放り投げる前に少し働いたお陰で彼の身元が判明した。九木くき秋生あきお、四十四歳、自動車保険会社の会社員で半年前に失踪届が出されてる。おかしいのはこれ」


 スライドが切り替わり、白い台に乗せられた遺体が映された。

 開かれた胸部には肋骨の間から土が溢れ出し、事前に聞かなければ人間の死体とわからない。


「泥が詰まってるな……」

「そう。更におかしいのは解剖の結果、少なくとも死後半年が経過しているとわかったの」

「失踪当時に死亡していたってことですか。死体が動いて喋ったと?」

「そうなるね」

 淡々と告げる玉栄に、号刀は口元を引き攣らせた。

「馬鹿な、有り得ない」


「ちょっといいですか」

 紙枝が小さく手を挙げ、玉栄からリモコンを奪った。

「九木の遺体の心臓部から土器の欠片のようなものが見つかりました。鑑識の調査の結果、彼が現れた地下鉄駅の線路内に同様のものが散らばっていたそうです」

 映し出されたのは太古の遺跡から発掘されたような、古めかしい欠片だった。土を塗った表面に僅かな凹凸がある。


「何か文字が書かれてるな」

「はい、これ『狗』と読むんですよ。しかも、この欠片の材質を見るに、作られてから千年以上経ってます」

「千年? どうなってるんだ」

 号刀は目を剥いた。紙枝は卑屈な笑みを浮かべてリモコンを置く。

「いろいろ言っておきながら何ですか、まだ調査中で……」


 号刀は呆然とスクリーンを見つけた。青白い光に、赤い火傷痕を浮かび上がらせた玉栄が言う。

「ここからは号刀くんの出番」

「出番と言われても、こんなものどうしろと」

「刑事の仕事は足で稼ぐものでしょう。身元が判明したことで、九木秋生の遺族が現れた。明日から警備も兼ねて彼の家に行って」


 号刀は三度目の溜息を吐く。玉栄は口角を上げた。

「これが不能未遂課の仕事だよ」

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