第3話 「スナック『すぐ泣く』」の転落


 半年経って、啼子は、ナント、銀行預金の残高が、軽く一億円を突破していることに気づいた。「すぐ泣く」というシンプルでお店のセールスポイントを適確に表現したネーミングが奏功して、「そんなに個性的でチャーミングな、”泣く風情”が芸術的に素晴らしいママなら一度会いたい」と、評判が評判を呼んで、「啼子ママブーム」とすら言える状況が招来し、大げさではなく狭い店内は毎日が押すな押すなの大賑わい、といった活況を呈していた。


 で、毎日が悲劇のヒロイン、アドリブのみの一人舞台のクライマックスの連続公演…そういう状態で営業を続けてきた啼子も、200日近い連日連夜の「泣き芸」のお披露目で、さすがに疲れを覚え始めた。

 自然体で、元来の「聞き上手」や「泣き上戸」というキャラクターを発揮して、事足りているうちはよかったが、だんだんにそうした感情の発露流露の場、ただ楽しいもののはずの客たちとのおしゃべりが、 毎日のルーチン、硬直した義務となるにつれて、さすがの啼子にもマンネリ化したセレモニーに無理やり付き合わされているような退屈な苦役のように思えてきて、とどのつまり飽き飽きしてきてつくづく嫌気がさしてきたのである。

 

 単なる疲れもあっただろう…少し休養して、リフレッシュすれば、また心機一転できて、無数の客とのセッションの経験が啼子の「泣き芸」?に新境地を開く、さらに話術や演技が磨きがかかってグレードアップするという可能性もあった。


 が、啼子は連日の果てしなく思われる客たちとのおしゃべりの連続の時間の中から、むしろ「人生」そのものについてのある「悟り」を得ていた。ある境涯に到達していたのだ。


 ”コミュニケーション”とはつまり…不完全で無意味で、相互理解を深めるどころか相互の誤解や亀裂を助長するものだ!「ことば」はしょせんその時だけの刹那的な感情のパラフレーズ…空気を「盛り上げ」たり、愉快なものにすることは可能でも、ピッタリと心を合わせるなどということは画餅、見果てぬ夢…わかったふり、つもり、どこまで行っても赤の他人同士が社交辞令や毛づくろい言語を堆積しているだけのそういう”コミュニケーション”が本質的に無意味だということが、啼子にははっきりと分かってしまったのだ。


 「おしゃべり」の繰り返しに食傷して、辟易して、コミュニケーション自体が有害なものですらあるという、そういう錯覚が生じているだけかもしれないが…兎に角もう当分は、「感情移入」も、「相槌」も、「忖度」も、もちろん「もらい泣き」すらも、あらゆる会話やコミュニケーションというものに付随するすべてに嫌気がさしていて、もしかしたら自分は離人症や自閉症のように緘黙して、ひきこもりになってしまうかも…そんなことすら考えて啼子は怯えた。


 「スナックなんて軽率にやらなければ良かった…」

 またしても啼子は前途を儚んで、さめざめと「すぐ泣く」癖を発揮するのだった…



<了>

 

 

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掌編小説・『啼子のスナック』 夢美瑠瑠 @joeyasushi

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