第48話 十文字香の手記 その二十三
三階のエレベーターを降りて右側に進み、ナースステーションの前を曲がって突き当たり左側の個室。重そうなドアが静かに開くと、私は思わず息を呑んだ。二本の点滴と電子音を発するモニター類につながった夏風走一郎がベッドに横たわっていた。まさかこんなに容態が悪いだなんて考えてもみなかった。決して元気とは言えなかったけど、今日の昼休みまでは学校にいたのに。
私たち全員が入って院長が静かにドアを閉めたとき、夏風走一郎の目が開き、弱々しくこちらを見た。口元に小さな笑みを浮かべて。
「……やあ、みんな揃ってどうしたの」
するとベッドの脇の丸椅子に、五味民雄がドカリと腰を下ろした。ああもう、病院だから静かにしなきゃいけないのに。しかしオロオロする私のことなど気にもとめず、五味民雄は夏風走一郎をにらみつけた。
「刺身のツマが文句を言いに来た」
刺身のツマ? いったい何を言っているのだろう、私にはさっぱりわからない。理事長や幾津刑事、子田院長も意味不明といった顔をしていた。
だが夏風走一郎には何故か通じたようだ。一度目を閉じると、小さな声で嬉しそうにこう言った。
「五味くん、君は本当に優秀な探偵になれると思うよ」
「ならねえよ、馬鹿野郎」
「皮肉だと思わないかい」
夏風走一郎は目を開いて天井を見つめる。
「広い世界を走り回って欲しい。僕が生まれたとき、両親はそんな願いを込めて名前を付けたと思うんだ。でも実際にはこの通り。走り回るなんて夢物語。全身の筋肉が少しずつ動かなくなって行く病気でね、そろそろ心臓の周りも弱ってきてるらしい」
「だから、なのか」
五味民雄の言うことは、さっきからまったく意味がわからない。何がだから、なのだろう。でもやはり、これも夏風走一郎には通じているようで、小さくうなずいたのだ。
「そうだよ、この病院には子供の頃からずっと世話になってるからね。しがらみってヤツさ」
もう限界だった。何を二人だけで理解できる会話をしているのか。一緒に来るかと誘ったのなら、一応はこちらの存在も気にしてもらいたい。私は爆発しそうになる気持ちを必死に押さえながら二人にたずねた。
「ねえ、何の話をしてるの」
これに五味民雄が応える。でも視線はこちらに向けないまま。
「夏風は今日、本当なら授業に出られる状態じゃなかった。なのに無理をした結果、この有様だ。どうしてそんな無理をしたと思う」
質問に質問で返された。カチンと来たが、いまそれは置いておこう。
「どうしてって。それは夏風くん難関進学コースだし、遅れたら取り返しがつかないから」
「違う。まったく違う。こいつはもう、そんなことなんぞどうでもいいんだ」
そんなこと? 受験がどうでもいい? 頭にカッと血が上りかけて、私は不意に冷静になった。受験なんてどうでもいい。大学なんてどうでもいい。それはもしかして、仮に大学に受かっても入院したままでは学生にはなれないから? それとも……大学を卒業するまで命がもたないから?
五味民雄は私と目を合わさず、誰に言うでもない言葉を繰り出した。
「こいつが授業に出てきたのは昼休みのため。昼休み、刑事に自分の考えを伝えるためだ。学校でなきゃダメだった。この病室ではダメだった。あの推理研究会の部室で、警察をミスリードしてることに気付かれないためには」
ミスリード。一瞬言葉の意味を頭の中で探す。ミスリードしていたってこと? 夏風走一郎が?
これに激しく反応したのが幾津刑事。
「ま、待ってくれ五味くん。ミスリードってどういうことだ」
大声を出さなかったのは、まだ自制が効いていたのだろう。五味民雄はようやく振り返り、幾津刑事に視線を向けた。
「こいつは串田安晴が殺されるのを事前に知ってたってことですよ」
幾津の目が泳いだ。とてもじゃないが信じられない、あまりのことに声は出なくともその表情は雄弁に物語っていた。夏風走一郎への信頼は、それほどまでに大きかったのだ。
だが彼が縋り付いていた信頼を打ち崩したのは、小さく響く夏風走一郎自身の言葉。
「どこで気付いたのかな」
五味民雄は一拍おいて答えた。
「ポイントは二つだ。一つは学園のマスコミ対応の完璧さ。あまりにも完璧に情報がコントロールされていた。違和感があるほどに。何でそこまで完璧にコントロールできたのか、考えに考えて、おまえの三倍も五倍も考えて、ようやく気付いたよ。アレは学園が完璧だったんじゃない。本当のことを知ってる外部の人間が、あえて情報を出さなかったんだ。自分と学園の関係が深掘りされるのを恐れてな」
「もう一つのポイントは」
「四つの可能性」
その言葉は私の鼓動を早めた。
「ターゲットは理事長以外、理事長は犯行に関わってない、仲間割れ、偽装工作。昼休み、おまえは幾津さんに四つの可能性があると言った。だが違う。実際には五つ目の可能性があった。それに気付かないおまえじゃ絶対にない。おまえはわざと五つ目を外したんだ」
「五つ目の可能性とは何だ」
怒りと悲しみと動揺と混乱を顔に浮かべて、つかみかからんばかりに五味民雄をにらみつけていた幾津刑事が発したその問いは、私の胸にある疑問でもあった。いったい他にどんな可能性が存在したというのだろう。これに五味民雄は暗い目で淡々と言葉を返した。
「奈良池・絵棚を殺した犯人と、串田を殺した犯人は別ってことです」
「犯人が別? いやしかし」
「急な方針転換をしたようには思えない。夏風はそう言った。幾津さん、あんたその言葉に引っ張られてるんだ。俺に言わせれば、串田安晴の事件は思いっきり方針転換してるとしか考えられないからな」
「どこだ。どこが方針転換している」
幾津は食い下がった。五味民雄の言葉をどうしても受け入れられないという風に。けれど五味は動じない。すべて解決済みだと言わんばかりに。
「幾津さん、奈良池の死因はトリカブトの毒だったよな」
「え? あ、ああそれはその通りだが」
「トリカブトだけか。たとえばモルヒネは使われてなかったか」
私は思わず声を上げそうになった。奈良池先生にモルヒネ? そんなことは初耳だ。入地だってそんなことは言わなかった。一方、まるで感情のエアポケットにでも入ったかのように幾津刑事の表情が変わった。何かに思い至ったのだ。
「……確かに。確かにモルヒネも検出されている。いや、だが致死量にはほど遠い程度の。どういうことだ、何故それを君が知ってる。六界に聞いたのか」
しかし五味は静かに首を振った。
「論理的帰結ってヤツさ。犯人はできれば奈良池もモルヒネで中毒死させたかったはずなんだ。だが適量がわからなかった。医者じゃないからな。トリカブトをどこで用意したのかまでは知らんが、おそらく保険のつもりだったに違いない。結果的に奈良池はモルヒネでは死なず、トリカブトで殺すしかなかった。絵棚のときはその反省から、奈良池に使った量の何倍かを投与したんだろう。絵棚はそれで死んだ。なのに串田はモルヒネを使われず絞め殺された。違うかい、幾津さん」
「そうだ、串田からはモルヒネは検出されていない。え、でもどういうことだ」
「串田を殺した犯人は、モルヒネに注目が集まることを嫌ったからだよ。言い換えれば、奈良池と絵棚を殺した犯人はモルヒネにこそ注目を集めたかった」
幾津の口から反論はなく、もう小さなうめき声しか聞こえてこなかった。
五味民雄は言葉を続けた。
「奈良池と絵棚を殺した犯人をAとする。串田を殺した犯人をBとする。おそらくAとBは長らくモルヒネの密造で協力関係にあった。奈良池はAの指示でケシを管理し、絵棚がアヘンからモルヒネを精製してたんだろう。だがそこで何かがあった。何かが起きた。それが何なのかはわからないが、その結果、AとBの協力関係は崩れた。Aは中庭にあったケシの群生地を処分し、奈良池と絵棚を殺害し排除することも決めた」
病室に聞こえるのは五味民雄の声だけ。私も含めて、誰も彼を遮れなかった。
「Aは殺す順番にもこだわった。奈良池、絵棚の順番じゃなきゃいけない。イニシャルがNとEだからだ。夏風はNとEを英単語の一部だと俺たちに印象づけたが、これがそもそもミスリードの始まりだよ。NEはそのままローマ字で『ネ』と読むべきだった」
「ネ……?」
思わず口にした私に、五味はうなずいた。
「そう、子田病院のネ、だ。この病室でNEについて取り上げれば誰だって思いつく。だから何が何でも推理研究会の部室で話を完結させなきゃならない」
私は全身が総毛立つのを感じた。それって、それってつまり。
「犯人Bは勘がいい。たぶん奈良池が殺された時点でAの意図に気付いたんだろう。すぐに子飼いの二人を動かした。警察をミスリードさせるために夏風を、そして警察の情報を集めるためにカウンセラーの入地をな」
幾津刑事は愕然とした顔で振り返った。苦笑を浮かべうつむく入地を。
ようやく私は理解した。あのとき学園のグラウンドの隅で入地が私たちに話しかけてきたとき、あの時点で入地と夏風走一郎はお互いを知っていたに違いない。奈良池先生を殺害した容疑者である五味民雄の動向が双方ともに気になっていたのだろう。おそらく私が夏風走一郎を訪ねなくても、二人は五味民雄に会いに行ったはずなのだ。
「それは対応として完璧だったと言っていい。ただし、ここで僅かな想定外が生まれた」
五味民雄の言葉を受けて、多ノ蔵理事長が小さくつぶやいた。
「想定外」
「奈良池の事件で、十文字が夏風をたずねて来たことだ」
え? 思わず目を見開いた私に五味は小さくうなずいた。
「協力を断り十文字を追い返すという方法もあった。だが拒絶するよりは利用した方が賢明だ、もしBに問われたなら夏風はそう説明したんだろう。そして二人は俺のところにやって来た。俺たち三人は共に行動するようになった。しかしその程度どうということはない。夏風のミスリードにもっと説得力を与えるサクラが増えただけ、所詮は誤差の範囲、刺身のツマに過ぎない。Bはそう考えていたに違いない」
五味民雄がそう言い切ったとき、ベッドの夏風走一郎から「フフッ」と小さな笑い声が聞こえた。五味の口元にも笑みが浮かんだように見えたのは気のせいだったろうか。
「犯人Bが想定していた通り、絵棚も殺された。犯人Aは警察がモルヒネに注目するよう誘導している。医療関係者の関与を疑いだすのは時間の問題だ。そこでBは、警察が第一校舎中庭のケシの群生地を見つけるよう、夏風に誘導させた。この無茶振りにコイツがどう応えたか、いまさら言うまでもないよな」
夏風走一郎の見せたあの大推理、私たちを圧倒したあれが無茶振りに応えるために強引にひねり出されたものだったなんて。愕然とする私と幾津刑事に五味は続けた。
「まさか去年のうちにケシが完全に処分されていたとはBですら読めなかったんだろう。とは言え、中庭にケシが生えていた証拠がなくなったのは、Bにとっても悪い話じゃない。AとBのつながりを示すモノもなくなった訳だからだ。ならば、あとやるべきことはダメ押し。Aが殺人犯だと警察が確信し逮捕に至ればすべて丸く収まる。逮捕後にBとの過去を話したところで、証拠がなければどうしようもない。知らぬ存ぜぬで押し通すだけだ」
「だから、串田を?」
ようやくかすれた声を取り戻した幾津刑事の言葉にうなずき、五味民雄はさらに続けた。
「イニシャルがXの人間を探すのは手間取ったかも知れない。日本人の名前じゃ多少強引なこじつけがないと難しいだろうからな。AとBの共通の知り合いに串田がいたのはBにとっては好都合だった。串田にとっては不運だったが」
次から次に繰り出される五味民雄の言葉が、私の脳を打ちのめした。何よ、何なのこいつ。ちょっと前まで私と同じ立場だったくせに。そんな負け惜しみを心の内でつぶやいたものの、悔しいかな反論ができるほど私の頭は賢くなかった。でも、でも、でも。
「ねえ、聞いてもいい」
私の問いかけに、五味民雄はうなずいた。どうぞ、とでも言いたげに。
「犯人はどうして学園七不思議に絡めて殺人なんてしたの」
これに対する返答は、いたって簡潔な、ビックリするほど簡単なものだった。
「偶然だ」
「え、偶然?」
「まず桜の花を赤く塗ったヤツ、これは単なるイタズラだ。AもBも関係ない。タイミング的に偶然近かっただけだ。奈良池の踊る人体模型は、生物準備室で殺す際に誤って倒しただけの話。何の作為もないただの偶然。絵棚と第一校舎の中庭はさっき説明した通り、夏風走一郎の見事なこじつけだ。三件の殺人の中で故意に七不思議と絡めたのは、串田の事件だけだよ。前の二つが七不思議絡みになってしまったがために、外せなくなったんだろうな」
「そんな単純な」
「単純を組み合わせることでしか、複雑なんて作れないだろうが」
五味民雄がそう言い終わるのを待っていたのか、幾津刑事は前に出た。
「五味くん、最後にハッキリ教えてくれ。犯人Aは多ノ蔵理事長、犯人Bは子田院長ということでいいのか」
「実行犯ではないけどね」
しかしそれを笑う声が聞こえた。
「これはまったく、面白い趣向ではありますな。
子田院長が首を振っていた。
多ノ蔵理事長も笑顔を見せた。
「そうですね。院長先生の件はともかく、私は関係ありませんし」
「おやおや、それはこちらの台詞ですよ理事長さん。あなたの仕掛けですか」
「いえいえ、仕掛けだなんて。院長先生はそんなことをなさっているのですか」
背筋がぞくっとした。こういうのをキツネとタヌキの化かし合いと言うのかも知れないが、少なくともこのとき私の目にはそんな可愛い世界など映っていない。そこに繰り広げられていたのは、おぞましく吐き気を催す汚物のなすり付け合いだけ。
そのとき五味民雄は静かに言った。燃えるような感情も、叩き付けるような怒りもなく。
「俺はただの高校生だ。警察官じゃない。証拠を元に推論を立てなきゃならない義理なんてないからな、言葉を裏付ける証拠はどこにもない。だから無視したければすればいいさ。ただし忘れるなよ、俺は掘るべき場所を示した。そこを警察が掘るのはもう止められない。あんたらが何をしようとだ。遅かれ早かれ証拠はいずれ必ず見つかる。それを楽しみにしておけばいい」
子田院長は、ムッとした顔で口をつぐんでいた。多ノ蔵理事長は笑みを浮かべてため息をついた。幾津刑事は、理事長補佐の二品が疑わしい動きをしないか気になったのだろう、さっと目を走らせた。緊迫感に張り詰めた病室に、一人空気を読まずに言葉を放ったのは夏風走一郎。消え入るような小さな声で。
「もったいないなあ。真剣にもったいない。五味くんは本当に凄い名探偵になれるのに」
「だから、ならねえつってんだろうが、しつこいな」
「決めつけない方がいいよ。人生何があるかわからないんだから。でもよかった」
五味民雄は呆れたような苦笑を浮かべた。
「こんな状況で何がよかったんだよ」
そのとき、夏風走一郎の顔にあの爽やかさはなかった。風のような超然とした爽やかさではなく、もっと人間臭い、でもおそらくは本当に幸福なときに人が見せるのであろう笑顔を浮かべて。
「きっと君だけは僕に追いついてくれると思ってたからさ」
五味民雄の表情は変わらない。ただ、言葉を失っていたのは明らかだった。
「……ねえ十文字さん」
夏風走一郎に突然名前を呼ばれて、私の声は裏返った。
「え、は、はい!」
「十文字さんはジャーナリスト目指してね。いつか記事を読ませてよ」
「……うん」
そう答えはした。だが、私が新聞で記名記事を書けるようになるまで、果たして夏風走一郎は生きていられるのだろうか。そんな悲しい考えを、どうしても打ち消すことができなかった。
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