第36話 十文字香の手記 その十七

 発想の飛躍と簡単に言うが、実際どんな飛躍が可能だというのだろう。五時限目は数学だったが、このときの私は事件のことでいっぱいいっぱい、何も頭に入ってこない。いまは高三の四月だ、本格的な受験対策にはもう遅いくらいだというのに。


 そんなボンヤリした頭に追い打ちをかけるように、外からサイレンの音が聞こえた。またパトカーだろうかと思ったものの、警察のそれとは違う音。窓から外を眺めれば、正門の外に白い車体。救急車か。おそらく子田ねだ病院の救急車だ。


 子田病院は少し離れた都市部にある総合病院。この学園と提携しており、健康診断の医師や、入地のようなカウンセラーを派遣したり、学園内で急患が出た場合に優先的に受け入れたりしてくれる。救急車が来たということは、誰かが体調を崩したのだろう。まあ、ここ最近の学園内の状況をかんがみれば、体調不良の生徒が出て来てもまったく不思議ではない。


 しかし救急車が出て行き、その後五限が終わり休憩時間をはさんで六限目が始まったとき、私は叫び声を上げそうになった。噂好きなクラスの女子が、こう話しているのが聞こえたからだ。


「一組の夏風くん、救急車で運ばれたらしいよ」




 ホームルームが終わり、終鈴が鳴ると同時に席を立った。いつもの通り新聞部の部室に赴けば良かったのだろうが、私の足は三年一組の教室に向かっていた。別に私が何を確認したからといって夏風走一郎の状況が好転する訳ではない。そもそも彼はいま病院にいるのだ。まったく無意味なことをしている、それがわかっていながら私は足の進むに任せた。


 一組は難関進学コース、まだホームルームが続いているようだ。その前の廊下に見知った背中があった。五味民雄。こちらに気付いていないその背中は、しばし一組の様子をうかがった後、静かに歩き出した。方向的に推理研究会の部室に向かう訳ではないらしい。だが寮に帰るようにも見えない。私は好奇心を覚え、その後を追ってみることにした。




 行き着いたのは図書室。本でも読むつもりなのだろうか。しかし五味民雄が椅子に座ったとき、その手元に本はなかった。座ったのはデスクトップPCの前。インターネットを使うらしい。携帯電話の使用が禁じられているこの学園内でインターネット環境に触れられるのは、PC教室の授業を除けばこの図書室だけだった。


 とは言っても、インターネットにまったく自由に触れられる訳ではない。学園内のPCはすべて根元でフィルターがかかり、不適切なサイトにはアクセスできないようになっている。この『不適切』の運用が極めて恣意しい的であり、いわゆる検閲に当たるのではないかという声は以前より生徒の側から上がっていたのだが、学園としては改める気はないようだった。


 その不自由なインターネットで何を探しているのだろう。私はいつの間にか五味民雄のすぐ後ろに立っていた。画面に映るのは新聞の記事。寺桜院学園で起こった連続殺人事件を報じる記事だ。だが、これを見て何になるのか。事件のことについてはマスメディアより私たちの方が詳しいくらいだというのに。


 五味民雄は記事にざっと目を通すと、別の新聞のサイトに移動し、また事件の記事を読んだ。いったい何の意味があるのかわからない。もしかしたら夏風走一郎の力になりたいというこの男なりに考えての行動なのかも知れないが、成果が望めるとは思えなかった。


 そのとき、小さく低い声がつぶやく。


「なあ、十文字」


「えっ!」


 気付かれていた。まさかバレバレだったなんて。しかし動揺している私を振り返りすらせず、五味民雄はまた次の新聞サイトに移った。


「何かおかしくねえか」


「おかしいって何が。新聞が?」


「新聞がおかしいのはいつものことだろ。ああ、おまえ新聞部だっけか。まあそれはともかく、全体として何かおかしいと思わねえか」


「全体として? 漠然としすぎて何のことかわからないけど」


 すると五味民雄は大きなため息をつき、ようやく私を振り返った。


「だよな。俺もイマイチわかってない」


 そう言って口元に笑みを浮かべると、またPCに向き直り、新聞サイトを移動した。違和感がある、と言いたいのだろうか。でもいったい何に対しての違和感だ。もしここに夏風走一郎がいれば何らかの答を導き出せたに違いないのだが。……いや、そう考えるのはただの無い物ねだりだったかも知れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る