第32話 十文字香の手記 その十五
次の月曜日になっても学園は平静そのもの。もちろん奈良池先生に続いて絵棚先生までが殺された影響は生徒たちに相応の不安と疑心暗鬼の波紋を広げていたが、それで学校全体がどうにかなるような状態とまでは言えなかった。
どういうことだろう。カウンセラーの入地は県警捜査一課に夏風走一郎の推理を伝えたのではなかったか。もしかして高校生の推理など取るに足りないと聞き流されたのか。それとも入地が考えを変えて捜査一課に伝えなかったのか。あるいは警察は行動を起こそうとしているが組織が大きい故に手間と時間がかかっているのだろうか。
――世の中ってさ、そう簡単に上手くは行かないと思うんだ。僕はね
土曜日の夏風走一郎の言葉を思い出す。こうなることまで予想していたかの如きあの言葉を。もしそれが真実なら、いまは夏風走一郎の想定していた通りの事態になっているのだとすれば、何かが上手く行っていないのだ。その何かとは何だろう。
ふと、私は窓の外が気になった。教室の私の席からは学園の正門が見える。いつもはセキュリティのため授業開始と共に閉じられているはずの門扉が開いていた。そこに立つ人影は……校長先生? いったい何をしているのかと見ていると、正門に入ってくる車が一台。ピンク色のリムジンだ。
「こら十文字!」
「は、はい!」
英語の澤町先生に怒鳴られて、私は思わず立ち上がってしまった。クスクスと小さな笑い声が教室に広がった。
「おまえ何をボーッとしてるんだ。ちゃんと授業に集中しろ」
「す、すみません」
照れ笑いを浮かべながら私は席に着いた。しかし視線は教科書に向けながらも、意識はそこになかった。
正門から入って来たピンク色のリムジン。この学園の生徒ならみんな知っている、
普段は何らかの学校行事のあるときにしか顔を出さない人なのだが、今回異例に学園を訪れたのは、奈良池・絵棚の両教諭の殺害事件が起こったのと無関係ではあるまい。もしかしたら夏風走一郎の推理を受けて警察が動いた証左なのかも知れない。ならばこの先、一波乱あるはず。
私の好奇心は爆発寸前になっていた。
理事長室に生徒は直接立ち入ることができない。何故なら廊下に面した部屋ではなく、職員室の奥にあるからだ。より正確に表現するなら正方形の第一校舎の一階廊下の突き当たりに職員室があり、この中を突っ切った先に理事長室のドアがある。もしも第一校舎に閉鎖された中庭が本当にあるのなら、その中庭への出口は理事長室にしかないだろうと以前から噂されてはいた。
理事長の異例の来園に気付いたのが私一人のはずもなく、職員室の前にはすでに小さな人だかり。新聞部の万鯛部長はまたメモを取っていた。何に由来するかは知らなくとも、何事かが起こっているのに気付いている生徒は少なからず居る。騒ぎになるのは時間の問題に思えた。
職員室の前で生徒を足止めしているのは、黄色い規制線のテープと二人の制服警官。中で何が行われているのかは、ここからうかがい知りようもない。と思っていたら。
突然職員室の引き戸がガラリと開き、中から淡いピンクのスーツ上下を着た小柄な多ノ蔵理事長と、立派な体格をした理事長補佐の
「ちょっと待ってください!」
理事長たちの前に回り込んできたのは、あの若い刑事。幾津と言ったか。
「もう少し、もう少し詳しいお話を聞かせていただけませんか、多ノ蔵さん」
しかし幾津刑事と多ノ蔵理事長の間に体を割り込ませた二品さんが、平然と笑顔で首を振る。
「警察が見せろとおっしゃるモノはすべてお見せしました。その結果、何が見つかりましたか。何もありませんでしたよね。これ以上この学園内で騒ぎを起こされるのであれば、せめて証拠を見つけてからにしていただきたい。理事長も忙しい身体なのです」
「いや、しかし」
「警察の捜査には今後とも全面的に協力致します。ですから当てずっぽうはやめてくださいと申し上げているのです。ご理解いただけますか」
事ここに至っては、幾津刑事も返す言葉がないようだった。幾津が道を空け、二品さんが規制線を持ち上げた下を多ノ蔵理事長がくぐった。私と目が合ったときに微笑みかけられたように思えたのだが、気のせいだったろうか。
悔しげな幾津刑事の視線を背に、理事長と二品さんが校舎玄関に向かおうとした、そのときだ。
「いやいやいや、理事長さん、お久しぶりですな」
声の方向に目をやれば、廊下に立っていたのは、はち切れんばかりにパッツンパッツンのスーツを着た二足歩行のガマガエルといった印象の、太った中年男。
理事長は笑顔を向けた。
「まあ、串田さん。お久しぶりですね。今日はどうされましたか、こんな珍しい場所で」
「いやいやいや、私のような三文文士など仕事が選べる立場ではありませんでしてな、名門学校で連続殺人などと聞けば、とりあえず足を運んでみようと思った次第です」
「ですが、マスコミは校内に立ち入らせないよう指示しておいたのですが」
「いやいやいや、私ごときがマスコミなどとおこがましい。まあそれ以下と思われているから校長先生も通してくれたのでしょうな。がっはっは」
何とも品がない。理事長とは知り合いみたいだが、雰囲気はまるで水と油だ。実際、理事長も二品さんもこの串田という男と会話を続けたくなかったようで、早々に切り上げようとした。
「では串田さん、私は他に仕事がありますので失礼致します」
「死んだ二人の教諭の家族にお会いになる?」
理事長の動きが止まった。串田はにんまりと笑顔を浮かべる。
「それでしたら私も同行させていただけませんかね。いやいやいや、お邪魔をするつもりはまったくないんですよ。ただ被害者遺族のリアルな声を聞きたいだけで。プライバシーにはもちろん配慮しますんで、どうかお供させてもらえませんか」
理事長はしばらく立ち止まっていた。その背中は苦悩しているようにも見えたが、やがて小さくうなずいた。
「わかりました。では私の車でご一緒致しましょう」
「いやいやいや、これは助かります。がっはっは」
こうして理事長と補佐の二品さん、そして記者らしい串田とかいう下品な男は、三人で正面玄関へと向かった。そのときの私にはこれを見送るしかできなかった。
いったい『何があった』のだろう。いや、もしかしたら『何もなかった』のだろうか。あれほどまでに正解と思えた夏風走一郎の推理が、まったくの的外れだったとは信じがたい。しかしそう考えなければおかしいくらい、いまここには何も起きていなかった。
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