駄文毎夜0807「そこの人!今は何年ですか?」

 人が想像できることは実現可能なことである。と私は常々思うのだ。

 その証拠として、大昔に生きていた偉大な先輩、祖先、先人方がふけっていた空想は今や現実としてここにある。

 ともすれば、私がこの夏に足を踏み入れた空想のような出来事も、まごうことなき実際にあった出来事であるといえる。

皆々様にはそのことを重々承知の上この話を聞き始めていただきたい。


 この話は、暑い暑い夏の日から始まる。それはもうアイスもアスファルトも猫も女子高生もすべからず溶けてしまうような暑さの日に私はあろうことかお天道様の監視下を歩いていた。役所に一枚の紙を取りに行くためだけにだ。私はたった紙ぺら一枚に殺されかけている。

 私がもういっそ溶けてしまおうと思い立ったその時、一台の黒いハイエースが目の前にとまった。

 しかし灼熱の中、危機感も脳みそも溶け切ってしまっている私は、ぼんやりと黒く光る目の前の車を眺めるしかできなかった。

 そして一拍遅れて車を迂回しようと進行方向を変えると中から葬式から抜け出してきたのかと思うくらい真っ黒なスーツを着た男が現れた。

 普通の人間なら二秒で汗をかきそうな恰好にもかかわらず男は汗一つない涼しい顔でこちらを見る。

「君、君、私に誘拐されてみる気はないか?」

 何を言っているんだこの男は、暑さのせいで幻覚を見ているのだろうか、ただ気味の悪さが夏の暑さを忘れさせかけているのは確かだった。

 ただやはり判断力も溶け切っており無視すればいいものを、その時の私は答えてしまった。

「冷房の効いた場所へなら誘拐されてみたいものだな。市役所なんか最高だ。」

 何を言っているのだろうか私は、ただ男は顎に手を当て少し困ったような、考え込むような顔をした。

「ふむ……あいにくだが私が君を誘拐できるのは、君の過去に限るのだ、行くとしたら君の過去の市役所になる。」


 もうそこに夏の暑さなどなかった。あるのは好奇心と少しの恐怖に似た何か、そして通行人に「今は何年ですか」と聞く心構えだった。

 

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メモ帳の駄文 棚夏² @nekonokimera

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