挿話 忍び寄る悪意

 

 その日、伯爵は荒れに荒れていた。

 エリンが嫁いでから1ヶ月が経とうかというのに、未だ彼女が死んだという報告が上がってこないからだ。報告書をビリビリに破いた後、自らの書斎で、目につくものを片端からなぎ倒しながら、髪をかきむしる。そして血走った眼を、侍女頭に向けた。


「くそ……っ!お前のせいで、なぜ私がこんなにもやきもきさせられなければならないのだ!」


 そう吐き捨てるや否や、伯爵は侍女頭を容赦なく平手で打つ。脳が揺れる程の勢いで打たれた侍女頭は、呻きながらそのまま床を転がった。


「かくなる上は、お前が責任を持って死神卿の屋敷に行け。なすべき事をなすのだ!」

「そんな……!」


 侍女頭は、打たれた頬を押さえ、涙を浮かべて伯爵を見上げた。死神卿は、人を人とも思わず、気に入らないことがあると問答無用で、腰に佩いた剣で首を切るという。噂には尾鰭が付くもの、多少大袈裟な所がある筈だ。とはいえ、親兄弟、果ては妻まで死んでいるとなると、侍女頭にはこれらが、ただの噂とは到底思えなかった。侍女頭は震え上がり、伯爵の足にすがり付く。


「どうか御容赦を……!そうだ、そうです。この役目に、適任が一人おります。積極的に、辺境伯様のご不興を買い、主人エリン共々、首を切られてもおかしくない者が!」


 侍女頭の懇願に、ふむ、と伯爵は一考する。その者には、伯爵も心当たりがあった。目上の者の気紛れで押し付けられたメイドで、確か病気の親の代わりに家計を支えて働いていると言うことだったが、全く使えない。掃除を任せれば壺を割り、給仕をさせれば粗相をする。どれだけ罰を与えても一向に改善しない。しかし、施しで雇い入れてやったので、安易に頚にするのも、角が立つ。どうしたものかと考えていたのだった。


「もしあの者が失敗すれば、お前の身がどうなるか、ゆめゆめ分かっておろうな」


 侍女頭は黙って平伏し、伯爵が紹介状を書くのを息をひそめて見守った。


 ◆


 夕食後、エリンにアクセルを引き渡し、書斎に戻った後も、リアムはイライラを抑えきれずにいた。エリンの部屋からアイザックの元に戻ったリアムに対して、主人が言うのだ。


あれエリンはまだ幼い。子供の世話は荷が勝ちすぎているのだろう。手伝う人間が必要ではないのか?」


 ぎりり、とリアムは唇を噛み締めた。

 主人は甘すぎるのだ!

 あんな礼儀知らず、甘やかせば甘やかすほど付け上がるに違いない。血管が切れそうな程の怒りでこめかみが熱くなる。あの場では声にも出さず抑えた怒りを再び静めるように首を振り、冷静になろうと書類に眼を通すことにした。


 ある書類に、ふと手が止まる。

 それを見て、リアムはうっすらと笑い、承諾の意味の判を押した。


 それは、伯爵家からのメイドの紹介状だった。


 どういう経緯かは分からないが、伯爵家の財政状況、輿入れの際、粗末な格好で、文字通り身一つで現れた事を鑑みても、今更送られてくるような者が、まともである筈がない。けれどそのようなこと、リアムには関係なかった。これでリアムは主人の要望に早急に応えることができるのだ。

 少し溜飲を下げ、今日の仕事を終えることにした。

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