異次元別居 6
帰宅する頃には、夫婦を殺害した映像を妻に送りつけよう、という僕の考えは少し変わっていた。
一晩中運転したせいで、疲れに加え睡眠不足にも苛まれていたが、そんなものは気にならなかった。それどころか、興奮のためか体中に力が漲っているのを感じる。今なら、どんなことでもやってのけられそうな気がした。
そう、僕の怒りは妻にこの映像を送ったぐらいでは収まりそうもない。妻には、もっと大きなダメージを与えて、僕の味わった苦痛を理解してもらわなくては。
それには、一体どうすればいいか。
――答えはわかりきっている。異次元にいれば僕を避けられると思っている妻に、それは間違いだとわからせてやるのだ。
部屋のドアをくぐると、僕は殺気のこもった目で辺りを見回した。すると、どこかで息を飲むような微かな音がした。やはりだ。姿は見えないが、妻の気配が感じられる。そして、それはおそらく妻の側も同じなのだ。彼女もまた、この部屋にいる僕の気配を感じているに違いない。そして今は、そのことに怯えている。
僕は手にしたポリタンクの蓋を開け、にやりとした。中には、さっき夫婦の殺害に使った灯油が半分ほど残っている。これを、ここにぶちまけて火をつけたら、どうなるだろうか?
普通なら、ただこの部屋が燃え落ちるだけだ。だが、この部屋は異次元とリンクしているのだ。異次元の同じ部屋には、妻がいる。気配が感じ取れるほど撚り糸同士の距離が近いとすれば、こっちの世界で起きたことはもう一つの世界にも影響を及ぼすのではないか?
そうなったら。もし僕の予想どおりなら。妻も無事ではいられないはずだ。
僕は顔を歪めて、辺りを見据えた。――僕を捨てて、異次元などへ逃げ込んだ、妻。あの女にはこのくらいの制裁が相応しい。きっと妻も、自分のしたことがどのくらい愚かだったかを思い知るだろう。僕を軽んじたりするべきじゃなかった、きちんと向かい合うべきだった、とわかってくれるだろう。自分がどれだけ酷いことをしたかを、ようやく理解してくれるに違いない。死と引き換えになるだろうが、僕は妻の理解と懇願を得られるのだ。
そう考えただけで、僕の体を歓喜が駆け走った。自分が死ぬのは構わない。そんなことより、妻を打ちのめせる、ということのほうが重要だ。そうすることで、僕はようやく溜飲を下げ、怒りの炎が鎮まるのを感じられるだろう。その気の遠くなるような満足感の中で死ねるなら、本望だ。
そうだ、動画を録っておこう。――灯油を床に撒いてから、僕はそう思いついた。ライターを持つ手と反対の手でスマホを取り出し、カメラを起動する。僕はそれを立てかけようと、壁に取り付けた棚に歩み寄った。今更、こんなものを撮って、どうするという当てがあるわけではない。だが、まあ、記念に撮っておけば誰かが観るかもしれない。燃え残れば、の話だが。
と、その時、手にしたスマホが軽快に鳴りはじめた。誰かが電話をかけてきたらしい。僕は眉を寄せてディスプレイを見た。例の男からだ。
「はい」僕は幾分、不機嫌な声で電話に出た。高揚した気分に水を差された気持ちだった。
「野辺さんですか。ああどうも」
男の声音は無感情だったが、どこか落ち着かなげに聞こえた。「こんな時間に申し訳ありません。一応、ご連絡しておこうと思いまして」
「何です?」答えながら、僕は妻が作ったキャンドル・スタンドのろうそくに火を灯した。
「先日、奥さんにお見せしたあなたからのビデオ・メッセージについて―― 詳しい話を伺ったのです。奥さんは、あなたを怪しんでおられます」
僕はそれを無言で聞いていた。
「わたしどもとしても、奥さんとあなたの関係には胸を痛めておるのですよ。奥さんには、なるべく心配事の少ない環境で仕事をしていただきたい。それがわたしどもの願いです。それなのに、あなたは――」男は言葉を切った。「その点を除けば、奥さんは今の環境に実に上手く馴染んでおられる。既に新しい友人もできて、異次元での生活を楽しんでおられます。昨日、引っ越しも終えて――」
「な、なんだって」僕はどもりながら遮った。「今、何て言った。引っ越し?」
「そうですよ。お話ししていなかったかもしれませんが、奥さんは異次元で最初に住んでいた部屋から引っ越しをされたんです。模様替えをしてみたがやはり気に入らないということで。それに、あなたもご存じでしょうが、その部屋は一人暮らしには少々広いですからね。数日前に部屋を移られて、昨日やっと荷物を運び終えた、というわけです」
はあ? そんな馬鹿な―― 僕は呆然と男の言葉に聞き入っていた。
引っ越し? 数日前? ――ありえない。僕はずっと、たった今まで、この部屋にいる妻の気配を感じていたのに。
顔をこわばらせ、ふざけるな、と怒鳴ろうとしながら、僕は振り向いた。妻が、怯えた妻の幻影が見えるはずの部屋を。だが、そこには無人の空間があるだけだった。
嘘だろう。唖然として、僕は辺りを見回した。確かに、そこにいたはずなのに。まさか、すべて気のせいだったとでもいうのか。
「もしもし? もしもし!」耳元で男の声がする。「どうされたんです?」
足元がよろけそうになるのを感じながら、僕は返事をした。「あ、ああ」
「大丈夫ですか? その、話を続けさせてもらいますよ」
男はためらいがちに続けた。「それでですね、奥さんからお話を伺って、一応、奥さんのお父さんに電話を入れさせていただいたんです」
僕は黙って耳を傾けていた。
「ところが、何度電話をしても連絡がつかない。そこで、致し方なく警察に事情を話しました。無論、あなたのこともね。今頃、警察が奥さんのお父さんのご自宅へ向かっているはずです」ため息とともに、男は言った。「そのことを、一応あなたにお知らせしておこうと思いまして。いや、もちろん、あなたはそんなこととは無関係だと思いますが」
よろけた体を支えようと伸ばした手が、偶然キャンドル・スタンドにぶつかった。はっとする間もなく、火のついたろうそくごとスタンドが床に落下する。灯油が染み込んだカーペットは、あっさり燃え上がった。
僕は叫び声をあげた。スマホから男の声がしたが、直後に通話は切れた。たぶん、僕の手が当たったのだろう。
部屋はあっという間に火に包まれた。僕の足を炎の舌が這い上がってくる。僕は狂ったようにズボンをはたいた。炎は一瞬、退いたが、すでに周囲が火の海なのだから意味はなかった。
そんな馬鹿な。信じられない。
僕が何をしたっていうんだ。何もしていないのに、こんなふうに死ぬというのか。しかも、たった一人で。
くそっ。ありえない。こんなのは認められない。どうせ死ぬなら、妻を道連れにすべきだ。でなきゃ、こんな死に方は無意味じゃないか。僕は絶叫した。凄まじい熱気が顔に吹きつけ、叫ぶために開けた口の中まで焦がそうとする。無我夢中で、僕は部屋の隅へ逃げようとした。
しかし、部屋にはもう炎に侵されていない場所などなかった。あっという間に燃え広がった火が、カーペットを、カーテンを、壁を家具を天井を這い回っている。炎の舌が徐々に長く伸び、視界のすべてを埋め尽くそうとしていた。
くそ、ここで死ぬのか。そうだ、せめて最後に動画を撮って――
足首から徐々に火に飲み込まれながら、僕はスマホのカメラをオンにした。腕を一杯に伸ばして構え、できるだけ恨めしげにレンズを睨む。そして、手を振った。
「やあ、富美加ちゃん。僕は今――」
次の瞬間、僕の全身を炎が包んだ。と同時に、ごう、と火がうねり、巨大な蛇のごとく僕を頭から喰らい尽くした。
異次元別居 戸成よう子 @tonari0303
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