異次元別居 4
猫が虚空をじっと見つめることを、フェレンゲルシュターデン現象と呼ぶのだという。
僕も、猫がそういうことをする動物だということは知っている。飼い猫が床に座って窓の外を眺めているとばかり思っていたら、実は何もない部屋の隅を凝視していた、というあれだろう。
フェレンゲルシュターデン現象について研究していた学者は、猫のその行動を心霊現象と関わりがあると考えていたようだ。猫には人間には感知できないものを感知しうる力があり、それによって幽霊の姿を捉えることができる、ということらしい。
それが事実かどうかはさておき、未知のものを感知する能力については、存在するのかもしれない。というのも、最近の僕はそれと似た行動を取っているのだ。誰もいないキッチンを見つめたり、テーブルの向かいを気にしたり、なんとなく背後を振り向いたり。
この部屋にいる何ものかの気配が、僕をそうさせているのだろうか。確かに、視線を感じる気がしたり、ふとした弾みに目の端に何かが映り込むことがあった。何か―― そう、ぼんやりした、影のようなものが。
錯覚? いや、違う。
僕は時間をかけて、その影らしきものを観察した。影はこちらを気にするふうもなく、部屋を横切ったり、じっと佇んだりしている。この部屋で、かつて妻が何気なく過ごしていたように。妻がここでしていたこと―― 部屋で寛いだり、台所で何かしたり、棚の上のものを眺めたり―― といったことをしているように思えた。これが気のせいだとは、僕には到底思えない。頭がおかしいと思われるかもしれないが、やはり、僕には自分が見ているものが妻なのだとしか思えない。
ここと異次元を隔てる壁は、そんなにも薄いのか?
それとも、壁を無視できるくらい、僕の妻への愛が強いのか?
なるほど、愛の力か―― それなら納得がいく、と僕はひとり頷く。僕はこんなにも妻を愛しているのだ。それなのに―― なぜか、それが妻には伝わらないらしい。もし、伝わっていたら、とっくに僕のもとへ戻ってきているはずだろう。妻がそうしないのは、何かが邪魔をして、僕の言いたいことが上手く彼女に伝わっていないからだ。
そう考えた僕は、再び男を呼びつけた。今度は、取り繕うことなく、ありのままの自分を曝け出した動画を送ることにしたのだ。そこで、髪を掻きむしり、ネクタイを外し、ソファの上に立ち上がって、どんよりとした目でレンズを睨みつつ、懇願することにした。帰ってきてくれえ、帰ってきてくれえ、と十数回連呼したところで、男の目が冷ややかを通り越して恐怖をたたえはじめたので、仕方なくソファから降りて撮影を終わらせたのだ。これだけやれば、いかに妻が鈍くとも僕の切羽詰まった状況を理解してくれるだろう、と確信しながら。
しかし、妻の返事は同じだった。またしても、会いたいという僕の希望ははねつけられた。
さすがの僕もそれには狼狽した。なぜだ、何がしたいんだ、この上何をどうしろというんだ、と口走りながら、小一時間部屋の中を歩き回っていたと思う。途中で電話が鳴っていたようだが、後で履歴を見るまでそれに気づかなかった。電話は大家からだったので、どうせまた苦情が来ているという連絡だろう、と肩をすくめるだけに終わった。
こうなったら、僕にできることはただ一つだ。
そう思い詰めた僕は、数日後、再び男を部屋へ呼び出した。男は最初、断ろうとする様子を見せたが、僕が低い声で、来ないとうちにある妻の作品を床に叩きつけるぞ、と脅すと、渋々やってきた。
「今度は何です?」いつものように向かいに座ると、男はしかめ面で言った。「撮影ならいい加減にしてくださいよ。何度やっても、結果は同じだと思います」
僕は男のその言葉を完全に無視した。
「今日は、撮影のために呼んだんじゃありません。これを渡したくて」
僕が差し出したそれを、男は戸惑った顔で見つめた。「タブレット端末ですか。しかも真新しい」
「動画はもうこの中に撮ってあるんですよ。あなたには、これを妻に渡してほしいんです」
男は怪訝そうな顔つきをした。「なぜ、わざわざ? どういう内容ですか?」声から、男がこちらの行動を怪しんでいるのが感じられた。
「別に、妙な内容じゃありませんよ」
僕は言った。きっと男は、妻への脅しでも入っているんじゃないかと疑っているのだろう。
「お見せしても構いませんよ。誰かに見られて困るような内容じゃないし」と、あっさり言うと、僕はタブレットを起動しようとした。
「ああ、いえ」男は幾分あたふたして、手をあげた。「申し訳ない、見せていただかなくて結構です。どうせ、奥さんにそれをお見せするのはわたしの役目でしょう。その時、一緒に拝見いたします」男は少し口をつぐんだ。「本当に、中身はおかしなものじゃないんですね?」
失礼な。僕は憤然として首を振った。「違いますよ。僕はただ、妻に僕の気持ちをわかってもらいたいだけなんです」そうとも。すべては妻の心を取り戻すためなのだ。
――三十二時間前。
僕は、かつて一度だけ訪れたことのある、妻の実家を訪ねていた。
東京から約百キロ離れたその町は、周囲を山に囲まれたのどかな場所だった。妻の実家―― というより、妻の父が住んでいる家は、その山の麓あたりにひっそりと建っている。車で一晩かけて辿り着いた僕の目に映ったその家は、以前見た時よりも煤けて、人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てていた。
妻の父、僕にとっては義父にあたる人物に対して、僕はあまりいい感情を抱いていない。というのも、妻自身が父とあまり折り合いが良くなく、僕がここに挨拶に来た際もピリピリしたムードを漂わせていたのだ。妻が言うには、義父は亡くなった妻の母と、しょっちゅう喧嘩をしていたのだそうだ。今はかつての浮気相手である後妻と、この家で暮らしているという。
そんな関係だから、妻も僕もそれきり、この家を訪ねることはなかった。義父は結婚式にも来なかったし、ともすればこのまま一生会うことはなかったかもしれない。実際には、こうしてまた会うことになったのだが。
一年中、炬燵布団を出しっぱなしといった様子の義父の家の居間で、僕は持参したタブレットをテーブルの上に固定し、そのレンズに向かって笑みを浮かべていた。
「やあ、富美加ちゃん。ここがどこだかわかるかい? そう、お義父さんの家だよ。突然来て、お義父さんを吃驚させようと思ってさ。こうして来てみましたー。どう? 懐かしい? 家の中は以前来た時とあんまり変わらないね。お義父さんは僕の顔を見て驚いていたけど、すぐに温かく迎えてくれました。奥さんも愛想よく迎えてくれて、ほんと、優しい人たちだね。せっかくなので、富美加ちゃんの子供の頃の話でもゆっくり聞きたいな。お義父さんも、東京で富美加がどうしているか聞きたい、って言うから、色々お話ししちゃおうと思いまーす」
動画を撮り終えると、僕はほくそ笑みながらタブレットを元通り鞄に仕舞った。これで、妻にも僕の言いたいことが伝わるだろう。
振り向いて、隣の部屋に行くと、頭から血を流した義父が擦り切れた畳の上に横たわっていた。いつの間にか意識を取り戻したらしく、その目は恨めしそうに僕を睨んでいる。必死で体をもがかせているが、両手両足を縛られているので無駄なあがきに過ぎない。喘ぎながら、さるぐつわ越しに何か呻いているが、それが言葉なのか意味のない呪詛めいたものなのかさえ判別がつかない。義父の隣では、後妻が太った体にロープを食いこませて、同じく呻き声をあげている。ただし、こちらは義父より出血が激しいせいか声が弱々しく、心なしかぐったりしているようだ。
気を失ったままでいれば楽なのに。そう考えながら、僕は二人を見下ろした。
年を取っているとはいえ、義父はすぐには屈しなかった。襲いかかった僕に激しく抵抗し、鈍器で頭を殴られるまで暴れるのをやめなかったのだ。義父が抵抗をやめるまでに、僕は幾つも青痣を作ってしまった。最終的にはもう一度、今度は確実に意識をなくすよう頭を殴打して、おとなしくさせなければならなかった。それに比べれば、後妻のほうは実にあっさりと床に倒れ伏したものだ。
撮影が済んだ以上、もうこの二人を捕えておく必要はない。だが、もし、まだ妻が僕のもとへ戻って来ないようなら、さらなる動画の撮影が必要になるかもしれない。第一、余計な騒ぎを起こされては困る。この二人にはもうしばらく囚われの身でいてもらわねばなるまい。
そう考えた僕は、自分の手際の良さにほれぼれして、思わず笑みを漏らしたのだった。
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