異次元別居 2

 別居など認めるものか。

 翌日、僕はふつふつと怒りを湧き上がらせながらそう考えていた。当然ながら妻と話をさせろと求めたが、男は妻が望んでいないからという理由でそれを拒否した。どうやら、僕が話し合いたいと言ってきた時には断るよう、妻から言われていたらしい。

 話したくない、だって? なぜだ。家出をした妻との話し合いを望むのは、夫として当然の権利だろ。

 そうは思ったが、男が頑として受け入れなかったので、やむなく一旦引き下がることにした。男は、また用があれば連絡してくれ、と言い残して立ち去った。最後まで、能面のような無表情を顔に貼りつけたまま。

 くそ、馬鹿にしやがって。

 無論、僕だって何もしなかったわけではない。公益財団法人だか何だか知らないが、これじゃ誘拐と変わりないじゃないか。そう考えて、警察に行こうとしたが、男が言ったように相手にされない可能性もあるので、とりあえず弁護士に相談してみた。しかし、弁護士は無能にも、その組織のしていることに違法性はない、とのたまった。妻が同意していることは置手紙やビデオ・メッセージで明らかだし、その対応に抜かりはないという。むしろ、タブレット端末を窓から投げ捨てた僕の行為のほうが罪に問われかねない、と言いやがった。

 というわけで、僕にできることといえば、異次元についての足りない知識を補うことくらいだった。僕は最近出版された異次元関係の本を買い漁り、片っ端から読破した。近年、異次元は宇宙開発と同様、先読みしたがる連中から注目されているらしい。存在すら公表されないままなのに、異次元関係の株は高騰し、ベンチャー企業が我先にと乗り出している。異次元詐欺なるものまで出回りはじめる始末だ。

 本によると、男の説明はかなり正確だったようだ。異次元は現在までに約三十発見されており、中には人間が移住可能なものもあるらしい。そして、男が言ったように、この世界とほとんど変わらない、無人の世界というのも幾つかあるようだ。そことこの世界がなぜそっくりなのかは、まだ未解明だが、仮説として次のようなものがあるという。――現在、僕らが住むこの世界は撚り糸のようなもので、何本もの糸が撚り合わさってできている。その糸の一本が離れた状態が、こことそっくりな異次元世界なのだそうだ。

 撚り糸の一本だから、当然ここと同じ物質でできており、組成の仕組みや基盤となるすべてが共通しているのだという。

 その仮説はとてもわかりやすかったので、僕は以後、それをもとに異次元というものをイメージすることにした。妻が住む異次元は、もとはこの世界の一部だったが、何かの拍子に分裂してできたのなのだろう。だから、完全にではないが似た部分をとどめている。あの男が言ったように、僅かな位相のズレによって生じた世界だからだ。

 僅かなズレ。――ということは、ある意味、その異次元はすぐ近くにあるということじゃないか? 半ば希望的観測により、僕はそう考えた。異次元が近くにある、という表現が正しいのかどうかは不明だが。最早、正しさなど僕にとってはどうでもいいものだった。

 何しろ、妻がいなくなってもう三週間近くが過ぎているのだ。男が言うには、妻は自分の意志で出ていったのだという。認めたくはないが、それはどうやら本当らしい。

 だが、一体なぜだ。なぜ、出て行ったんだ。

「なぜだ!」異次元についての本を床に叩きつけ、僕は喚いた。「ちくしょう、僕が何をしたっていうんだ!」

 僕は暴力を振るったりしないし、泥酔もしない。妻の希望は極力叶えてきたつもりだ。

 もっとも、妻のほうから僕に何かしてほしいと頼んでくることなど滅多になかった。だから、僕は常に先回りをして、その望みを叶えようとしてきたのだ。

 このマンションを買ったこともそうだし、仕事についてもそうだ。より高収入な仕事のほうが、僕らの暮らしを維持するためには相応しい。引き換えに、自由な時間はかなり削られてしまったが。妻は僕が勝手に引っ越しや転職を決めたことに対して、あまりいい顔をしなかった。それどころか、なぜか立腹しているようですらあった。どちらも、彼女のためにしたことだというのに。

 とにかく、少し意見の相違はあったかもしれないが、結婚してからの四年間、僕らは実にうまくいっていたのだ。妻が前触れもなく、突然家を出るまでは。

 そう、僕は悪くない。「不満でもあったのか! だったら、僕に直接言えばいいだろ!」

 喚いた直後に、僕は何かを感じた。気配のようなもの、と言えばいいだろうか。声もなく誰かがハッと息を飲んだ気がしたのだ。それを感じた僕もまた、ハッとした。

 気のせいだろうか。いや、もしかすると――

 僕はソファに飛び乗り、大声で叫んだ。「僕は悪くない! 僕は悪くないぞ!」

 今度は、誰かのじっとりとした視線のようなものを感じた。

 おそらく―― いや、間違いない。やはり、妻のいる異次元はこの世界のすぐそばにあるのだ。そのために、異次元のこの部屋にいる妻の耳に、僕の声、もしくは気配が伝わっているに違いない。

 どういう形でかはわからないが、妻が僕の存在なり声なりを微かにでも感じているのかもしれない、と思うと、僕は妙な喜びを覚えた。三週間近く、一人ぼっちで過ごしてきたせいで、妻への恋しさと寂しさが募っていたのかもしれない。

 僕は床の上で土下座をし、こうべを垂れた。「帰って来てくれ。お願いだ。何でも言うとおりにするから」

 そして、耳を澄ましたが、特に返事は聞こえなかった。

 翌日、帰宅すると、僕は買い込んできた酒をしこたま飲み、酔っ払った。「うーい。ふざけんじゃねえ、何が家出だ! 何が別居だ! 芸術家だなんてスカしやがって、ただの我が儘女じゃねえか」

 それでも、妻からの返事らしきものはなく、例の男からの連絡もなかった。

 週末までに、僕のもとには大家を通して大量の騒音の苦情が寄せられた。

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