異次元別居
戸成よう子
異次元別居 1
その日、見知らぬ男が訪ねてきて僕にこう言った。「奥さんは、異次元に引っ越されました」
は? 何だって? 無論、僕は信じなかった。異次元という単語が荒唐無稽だったからではない。妻が僕に黙って引っ越すなんて、ありえないからだ。
政府が異次元について研究しているという噂は、ここ十数年ほどでじわじわと世間に広まり、最早、周知の事実とまで考えられていた。あくまで公表はされていないものの、政府は着々と研究の成果を挙げつつあるのだ。噂によると、目的は国土拡大と資源の獲得だという。自然環境の悪化に伴う、移住の必要性という問題も、理由の一つに当たるかもしれない。ともかく、かつては都市伝説に過ぎなかった異次元についての噂が、年々現実味を増していっているというわけだ。
「いやいや、何を言ってるんです」悪い冗談だと言わんばかりに、僕は言った。「確かに、妻は二週間前から行方不明です。その件については警察に相談済みですよ」
向かいに座る男はゆっくりとかぶりを振った。「奥さんは事件に巻き込まれたわけではありません。自分から家を出たんです」
「そんな馬鹿な」僕は怒りを覚えた。妻が家出なんかするはずがない。そのことは僕が一番よく知っている。何しろ、僕は彼女の夫なのだから。
「大変言いにくいが、事実です」
男は無表情な顔に無理矢理気の毒そうな表情を貼りつけて言った。
一体こいつは何者なんだ? 何という会社から来たと言っていたっけ? 先ほど受け取った名刺をろくすっぽ見ていなかったことに気づき、僕は手もとのそれにちらっと視線を落とした。そこには、『公益財団法人 Xハウジング』と書かれており、左には曽根渡という名前が読めた。
「奥さんは、置手紙を残して行かれたはずです」
それは事実だった。しかし、僕は一読してその手紙を破り捨ててしまったのだ。そのことは告げず、僕は代わりにこう言った。「あんなふざけた手紙は読むに値しません。偽物に決まってますからね」
男は怪訝そうな顔をしたが、すぐにまた無表情に戻った。
「とにかく、僕は信じませんから。大体、『Xハウジング』って何の会社です? 公益財団法人か何か知らないが――」
「『Xハウジング』は、その名のとおりお客様に快適な住まいを提供する企業です」
男は急に目を輝かせ、生き生きと話しだした。「といっても、一般企業とは異なり、利益を追求しているわけではありません。我々の目的は世の中をよくしていくことなのです。言わば、公益性のために存在していると言っても過言ではないのですよ」
世の中をよくする? 僕がうさん臭い顔をしたのがわかったのだろう、男はさらに勢いづいた。
「いいですか。住環境というのは人の暮らしの基盤とも言えるものです。それなのに、現代には様々な住環境にまつわる問題が溢れている。それらを解決し、人々の暮らしを向上することが、我々の使命なのです」
言っていることはご立派だな、と僕は心の中で呟いた。
「でも、どうやって?」
「それがすなわち、異次元開発なのですよ」男は笑みを浮かべた。「すべての問題は、異次元によって解決するのです。騒音、家賃、排水のトラブル、狭苦しい街並み、そして増加する犯罪。いずれの問題も、都市部から人が減れば解消するはずです。その上、人口が減っても生産性が下がらなければなおいい。そうでしょう?」
「そうかもしれないけど――」そんなことが可能なのか。そう言いかけて、僕は黙った。正直、妻のことで頭が一杯でそんな話はどうでもよかった。
「それを実現するのが、我々というわけです。しかも、我々の事業は公益性だけでなく、国益をも見込んでいる。公益財団法人として政府のお墨付きをいただいているのが、その何よりの証拠です。我々の事業の行く末に、政府も期待しているということですよ」
なるほど、つまりその事業には、国も一枚嚙んでいるというわけか。眉唾で、うさん臭いだけでなく、偽善的でもあるわけだ。
「人をどんどん異次元に移住させている、というんですか。まさか。もしそんなことが本当に起きていたら、幾ら何でも騒ぎが起きるはずだ」
「どんどん、というわけではありません。少しずつ、というところでしょう」
男は訂正した。「おっしゃるとおり、騒ぎになるようなことは我々も避けたいのです。ですから、今のところ我々のサービスを提供するのは、ごく限られた人のみ、ということになっております」
「ごく限られた人?」それが妻だというのか?
「そうです。ご存じのとおり、奥さんの野辺富美加さんは若く才能のあるアーティストだ。彼女の創り出す造形物への評判は、うなぎのぼりです。稀代の芸術家と言っても差し支えない」
妻のことを褒めちぎったのに僕が憮然としているので、男は肩をすくめた。「とにかく、奥さんは素晴らしい才能をお持ちだ。そういう人こそ、我々の事業には相応しいのです」
「妻は選ばれて、引っ越したというんですか?」
「奥さんのほうから我々にコンタクトを取ってきたのです。我々の噂はそこかしこに流れていますから。その気になれば、連絡を取ることは可能なのですよ。そして、奥さんの望みを聞き、審査をした結果、我々の条件を十分に満たしている、と判断したのです」
「望み? 望みって何です!」思わず激高して、僕は腰を浮かせた。何か望みがあるなんて、妻は僕に一言も言ったことがなかった。それは、妻がすでに満たされた生活を送っていて、幸福だったからだ。「妻にどんな望みがあったっていうんです! ほら、見てください。超高層というわけじゃないが高級マンションに住まわせて、それなりにいい暮らしをしてきたっていうのに。家具だって、全部新調したんですよ」そうとも、それもこれも、すべて妻のためなのだ。
男は無関心な目で部屋の中を見渡した。広々とした居間には、どっしりとした高価なアンティーク調の家具が並んでいる。そのそこかしこに、繊細なガラス細工の花瓶や写真立てが置かれていた。重厚な家具と、その繊細なガラス細工の品々はいかにも不似合いだった。僕はいつも、妻が早くそれに気づいて家具の上から彼女の作品をどけてくれないか、と考えていたのだ。
「ええ、まあ、いい部屋ですな」素っ気ない口調で、男は言った。「奥さんの望みについては、ご本人の口からお聞きになったほうがいいでしょう。実は、奥さんからビデオ・メッセージを預かって来ているんです」
は? ビデオ・メッセージ?
「こちらです」男は革の鞄からタブレット端末を取り出すと、画面を操作してこちらに向けた。
少しして、画面にどこかの部屋のソファに座る妻の腰から上の姿が映し出された。僕は唖然とした。
映像の中の妻は、ぎこちない笑みを浮かべ、話しだした。
”げんきー? 浩次。わたしは元気でーす。こっちは快適だよ。異次元っていうからどんなところかと思ってたけど、心配してソンした。街並みはそっちと変わらないし、部屋も同じ。買い物も――”
僕は男の手からタブレットを奪い取ると、窓を開けて外めがけて放り投げた。
「あっ! 何をするんです」
「見てられるか、あんなもの!」あんな嘘っぱち、と言いたいところだったが、さすがにそれは無理だった。どう見ても、さっきの映像の中の妻は本物だったからだ。
男はぶつぶつ言っていたが、ため息をつきつつ首を振った。「まあ、いいでしょう。わたしがここへ来たのは、奥さんは無事だとあなたに知らせるためで、その目的は果たせたわけですからね」
「こんなの、認めないぞ」僕は言い張った。「絶対、許さない。お前らのことを警察に訴えてやる。妻を誘拐したって――」
「誘拐? 時間の無駄ですよ。我々はそんなことはしていないんですから。奥さんが異次元へ行かれたのは、あくまで奥さん自身の希望によるもので、我々は何一つ無理強いなどしていないんです」
僕はまだかっかしていたが、僅かに残った冷静さを搔き集めた。「妻はどんなところに住んでいるんだ? 街並みも部屋も、こっちと同じだって――」
男はそれを聞くと頷いた。
「そう。説明の続きに戻りますが、人類が発見した異次元は数十にのぼり、そのうちの半数近くは移住が可能なのです。しかも、幾つかは瓜二つと言えるほど、我々の住む世界と似ております」
そんなに似ているのか、と僕は驚いた。
「まるで写し絵のようで、これが本当に異次元か、と疑いたくなります」
「でも、異次元なんだろ?」
「次元が異なるという意味ではそうですが、そのズレはごく僅かなのですよ。奥さんがいるのは、その内の一つでして。そこは、ここと非常によく似た、それでいて無人の世界なのです」
僕が何か聞くより早く、男は先を続けた。説明したくてたまらないのだろう。「すでに移住が始まっているので、住人は少しずつですが増えつつあります。店も生活に困らない程度にはやっていて、水や電気といったライフラインも問題ありません。建物やインフラといった、元々あったものは、移住者にも利用可能なのです。なぜ無人なのか、といった謎の答えは、すでに他国の科学者が解明済みです。それによると、その世界は我々のこの世界とごく僅かな位相の違いだけで成り立っているそうで。要するに、この世界の影のようなものらしいです。影として存在するのは物質に限られるようで、人間は存在しない、というわけですな。まあ、その辺の小難しい話はともかく、その世界がこちらとそっくりだ、ということさえわかっていただければ充分でしょう」
「そっくり――」
と、いうことは。僕の頭の中をある考えが駆け巡った。「じゃあ、もしかして妻が暮らしているのは――」
「そう。お察しのとおり、奥さんはこの部屋で暮らしているのです」
やや申し訳なさそうな顔つきで、男は言った。「言ってみればこれは、次元を跨いだ別居、というわけですな」
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