第四十九話 待ち人来たりて
「ティス様! リリア様!」
「わっ!……ふふっ、ただいまナターシャ」
「ただいまナターシャさん!」
「僕もいます! 僕もいますよ!」
上下に開閉する施設の壁を抜けてヘイズを停車させたところで、私の視界は勢いよく抱き着いてきたナターシャの胸元で覆われた。
衣服からは紅茶と薄いミルクのような香りと共に彼女自身の体温が頬から伝わり、離れるのが名残惜しく思えてしまう……だがそれが伝わるとさすがに恥ずかしいので彼女の腰に両手を添えて顔をそっと剥がすと心配そうな表情のナターシャがこちらを見つめていた。
「ご無事でしたか? お怪我などはなさいませんでしたか? 何か必要な物があればすぐに取って来ます……!」
「だーいじょうぶ見ての通りよ、ピンピンしてるわ」
ニコリと笑って見せるとようやく安心したのかナターシャの肩から力が抜け、私の顔に触れたままだった両手がそっと下ろされた。
「良かった……先にお食事になさいますか? お風呂でしたら浴槽は少々時間を頂きますが、水噴機でしたらすぐに使えます」
扉を開き中へと招いてくれたナターシャに礼を言って施設の入り口を潜ると、相変わらず外とは区切られたように違う世界のような医療施設のエントランスが私を迎えてくれた、最初は分からなかった電光掲示板に映る映像も各施設の簡単な案内だと以前ナターシャに教えてもらったお陰で今は何となく分かる。
「いえ……正直に言えば紅茶でも飲んで一息つきたいんだけどね、今座るとそのまま泥のように眠ってしまいそうだから後にしましょう……早速で悪いんだけど例の
「……ええと、その事なのですが実はお話したい事が……」
硬質の床を叩くカツカツという靴の音を辺りに響かせながら私の前に立ったナターシャが口ごもった、どうしたのかと首を傾げると少し頭を下げたまま立ち止まるとおずおずといった様子で切り出した。
「ティス様がお出かけになられた後に緋水の樹までのルートを確認しておこうと思い、開発施設の方へ向かったのですが……地下へと続く小型昇降機のホールが丸々水没しておりました」
「げっ……マジ?」
顔をしかめた私にナターシャは頷いてみせる、この施設は随分と綺麗に残っていると思ってはいたがそれでもやはり完璧とはいかないか……片手で頭を抱えながら天井を仰いだ私にナターシャが更に申し訳無さそうに頭を下げた。
「申し訳ありません……元々私の立ち入りは許可されていなかったので失念していたとはいえ、雨後確認をしておくべきでした」
「えっ?……ああいえ違うのよ、別に貴方を責めようなんて思っていないから……頭を上げて頂戴」
再び上げられたナターシャの表情はやはり不安げだ……そういえば迎えに来た時から顔を隠す為のヴェールを着けていない、慌てて出てきたのか最早必要無いと思ってくれたのか……どちらにしても嬉しい事だ。
とはいえ彼女の事は一旦さておき、今はどうやって緋水の樹まで辿り着くか……いくつか方法は思いつくが、何よりもまず状態をこの目で見るのが先決か。
「とりあえず私も状態を見ておきたいわ、案内してくれるかしら?」
「はい、ではこちらになります」
背を向けたナターシャが先導して歩き出した、その少し後ろをついて行くが私と彼女の間に出来た微妙な空間が凄く気になる。
「……別にナターシャさんは悪くないですよね?」
「当たり前でしょう?……全く、真面目というかなんというか……」
その空間を一周したエルマが私の手の上に乗りコロコロと転がりながらぽそりと呟いた、その言葉に同意して頷く。
せめてこのエルマの発言に噛みついてくれないかと期待を持ってナターシャの背中を見るが振り向く気配は無い、先程とは一転してなんとも居心地の悪い雰囲気だ。
何か話題は無いものかと必死に思考を巡らせ……ふと浮かんだのは軽口の目立つあの男だった。
「あー……えっと、ナターシャはベロニカシステムっていう言葉は聞いた事がある?」
「……ベロニカ、ですか?」
足を止めたナターシャが振り向く、その顔は目が大きく見開かれ驚きの色が浮かんでいた。
「ええ、最上層にいたそのベロニカシステムを作った男がね? 色々と話してくれたのよ」
「ベロニカシステムの制作者……? まさか、ガザライト博士の事でしょうか?……生きておられたのですか?」
「ガザ……? いえ、私と会った時は
「はい、ベロニカシステムの制作者本人でしたら恐らくワーナグ・ワグ・ガザライト博士の事かと」
「……口調もそうだったけど随分と愉快な名前なのね、いえ名前を悪く言うのは良くない事なのだけれど」
誤って自ら吹き飛ばしてしまった頭部の代わりに燭台を内蔵した魔石灯を挿げ替えた儀礼服姿のあの男……真面目な話もした筈なのだが脳裏に浮かぶのはふざけた口調とふざけた動きばかりだ。
「そのワーナグ……いえいいわ、思想家は生きていたわよ? 最上層に自作の機械人形の庭を広げてベロニカの残った体と共に孤独に愉快そうに過ごしていたわ」
「驚きました……他の事も聞いてもよろしいですか?」
「ええもちろん……でもその前に!」
再び歩き出したナターシャの隣まで駆け寄ると少し驚いたような表情を浮かべたがすぐに微笑み案内を再開した、目的の場所へと辿り着く間の私といえばその隣で最上層で見た事聞いた事……そしてついでにヤコ達の事も併せて見た事全てを話した。
「……と、まぁそれで思想家と賭けをしているんだけど貴方はどう思う? 人間はまだ滅びていないと思う?」
「ティス様や私共のようにホムンクルスやドールを除いた普通の人間達が、という事ですよね?……正直に言ってしまえばかなり厳しいところではあると思います」
「そっか……ま、そうよね」
もし生き残りがいたならば私の負けになってしまうが……私だって別に人間が嫌いな訳じゃあない、むしろこの賭けに関しては私を負かして欲しいとすら思っているが現実的なナターシャの言葉を聞くと少しだけ気持ちが重くなるのを感じる。
「はい、ですが……そんな私の予測を超えてヴィオレッタ様をはじめとした人間達は生き延び、ティス様やリリア様という形で命を繋げてくださいました……その事を思うと確率は低くとも、もしかすると……と思ってしまいます」
「ナターシャ……ええ、そうね! 彼らには是非とも私を驚かせて欲しいものだわ!」
「……でも、賭けに負けたらお姉ちゃん、そのワーナグさんにお菓子を用意しないといけないんでしょ?」
「うっ……まぁ、そう……なるわね」
自分でも驚くぐらい素っ頓狂な声が出た……仮にもしそうなったらナターシャに教わるしかないか……少しだけ、ほんの少しだけ気が滅入ってきた。
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