第2話 これは恋でしょうか
目覚めると、カーテンから漏れる朝日が眩しい。昨日の出来事がすべて夢だったのではないかと錯覚するほど、空は晴れていた。いつもの変わらない一日の始まり。
仕事前に、濃いめのコーヒーを飲みながら、昨日撮った40枚ほどの写真をスマホで確認する。綺麗な蓮の写真にうっとりしながらページをめくってゆき、ふと最後の写真で指がとまる。
その写真には、彼の横顔の写真があった。思わず深いため息。
行きずりの恋なんて、マンガや小説の中だけの話だと思っていたのに。まさか自分の身に起こるなんて思わなかった。せめて連絡先の交換くらいしておけばよかったなんて、今ごろになって後悔をした。
指が、腕が、唇が、鮮明な艶かしい彼との記憶を覚えている。甘い時間をかき消すように、慌てて車に乗り込み、職場に到着した。
「おはよう。あれ?先輩、寝不足?」
無邪気な小悪魔的キャラの杏ちゃんは、私の仲良しの後輩。私とは対照的に、恋愛も言動も自由奔放なタイプなのである。
「そんなことないよー。さて、今日もいっちょ頑張りますかねぇ〜」
3年も一緒に仕事をしているうちに、公私ともに仲良くなった妹みたいな存在。
「あ。先輩、今週の金曜日の夜空いてません?そろそろ2人でゆっくりごはんいきたいなぁ〜」
「うん、もちろん。最近忙しくて行けなかったもんねぇ。いこいこ」
それから数日後の金曜日の夜、私は杏ちゃんと一緒に、職場近くの居酒屋でゆっくり食事を楽しんだ。
杏ちゃんは大好きはお酒を片手に上機嫌。
ひとしきり職場の愚痴を言い合い、すっきりした頃、杏ちゃんはお酒でいい感じに赤く頬を染めていた。ツヤツヤのロングヘアーに、パッチリおめめ。控えめに言っても、可愛すぎる女の子である。
「そういえば先輩。いつもの蓮の公園はもぅ写真撮りに行ったの?いつも見せてくれるじゃないですか~」
「うん。今年もたくさん写真とってきたよ。まだ咲いてる蓮は少ないんだけど、めっちゃ綺麗だったよ。写真みる?」
そういって得意げに写真をみせてゆく私。雨の滴をはじく蓮の葉に、ピンクに膨らむ蕾と美しく咲く蓮の花。そして、彼の切ない横顔がうつしだされていたのである。
何もなかったように、撮影した日のことを話し続けようとする私を、嬉しそうににやけながらのぞき込む杏ちゃん。
「あの~しっかり見えちゃいましたけど。どなたの写真ですか?ん?でも先輩って、イケメン苦手じゃなかったっけぇ。これは見逃せませんねぇ~」
酔っているわりに、しっかり見ていた杏ちゃんのするどい突っ込みに黙り込む。
でも、本当はずっと誰かに話したかったのかもしれない。彼の魅力的な瞳のこと。名前も知らない彼との忘れられないキスのこと。もう一度会いたいこと。でも、そのあとのホテルの秘密だけは胸にしまった。
私は、頬が熱くなるのを感じながら、彼との出来事と、今の気持ちを素直に吐きだした。ずっとモヤモヤしたままだった感情。
いつになく真剣な表情の杏ちゃんが、私の耳元でつぶやいた。
「ねぇ、先輩。それって、恋ですね」
杏ちゃんの言葉で、自分でも驚くほど体が熱くなるのがわかった。
「てか。なんですかその展開!やだぁ〜杏も公園でチュウしたい〜」
お酒の力も相まって、私にチュウを迫りながら、変な盛りあがりをしてしまったことを、この後私は後悔することになるのであった。
「またそのうち会えますよ~。ほら。あの人なんて、さっきの写真の人にそっくりですよぉ~」
帰り際、入口付近に座る男女を指さす杏ちゃん。驚くことに、その指さす先にいたのは、紛れもない彼本人だったのだ。
隣に座っている可愛い女の子を見て、心がチクリと痛む。
突然の再会に恥ずかしくなり、ゆっくりと歩く杏ちゃんの手をとり、慌ててお店を出ようとする私。その時背後から、彼が近づいてくるのがわかった。
「あの。やっぱりそうですよね。先日は失礼しました!」
私を確認すると、深々と頭をさげる彼。あの日見た彼とは違う雰囲気にためらいを隠せないでいた。
「いえ。大丈夫です。こちらこそ失礼しました」
また会えた嬉しさと、恥ずかしさと、ヤキモチで、軽くパニック状態の私。
「またお会いしましたね。俺……」
と彼が話そうとした時、一緒に食事をしていた女の子が、あわててその後ろからやってきた。
「ねぇ
「あ、ごめんね。うん、先日ちょっとお世話になった方でね」
彼もどう説明したらいいのか、苦笑いしている。
「もぅ。早く戻ってきてよぉ。はるか、ひとりでいるの寂しいんですけど」
彼の腕を引っ張りながら、こっちを見る彼女の強い眼差しは、決して好意的なものではなかった。
「もう私たち帰るとこなので、失礼します」
心とは裏腹に、この場から逃げてしまいたい私。勝手に思いあがって、また会えたら、何か始まるかもなんて。彼に今彼女がいるのかなんて、思いもしなかった。
その時、大人しく見守っていた杏ちゃんが、私の手をはらい、彼に詰め寄る。
「あのー。その子って彼女さんですか?てか、それならなんで先輩とチュウしたんですか?なんでここにいるんですかーー?」
続けざまに質問をぶつけられて困り顔の彼。アルコールのはいった時の杏ちゃんは、めっちゃ強いと同時に、とてつもなくやっかいである。
「は?なに?透矢くんが、他の人とキスなんてするわけないじゃない!わけわかんない」
「あなたには聞いてないです。先輩は私にとって、めっちゃ大切な人なの。傷つけないで欲しいの」
「私だって、やっと透矢くんと会えたんだからぁ。もぅ邪魔しないでよぉ〜」
当人同士ではないふたりが、言い争いを始めたその時、彼が私を見つめ、ハッキリとした口調でこたえた。
「誤解です!この子は、こないだ話した亡くなった彼女の妹なんです」
4人の間に一瞬の沈黙が流れる。彼女は、引っ張っていた彼の腕を離して、うつむいた。
「それはそうだけど……。私だって」
彼女は私達を一瞥すると、バツが悪そうに、はや足でひとりお店に戻ってしまった。彼も彼女のことが気にかかり、ソワソワしているのが、手にとれてわかった。
「こちらこそ、大変失礼いたしました。彼女のところに早く戻ってあげてください。寂しそうだったし」
精いっぱいの笑顔を作り、軽く会釈して、何か言いたげな彼に背を向けて、歩き出す。こんな時、素直になれない自分に嫌気がさす。本当はやっと会えた彼にいろんなこと聞きたかったけれど、その勇気を持ち合わせてはいなかった。大人とは、やっかいなものだ。
しばらく黙って歩いていると、信号機に足を止められた。今杏ちゃんの顔を見たら、泣きだしそうな程、気持ちを整理できずにいた。そんな大人気ない自分が恥ずかしかった。
すると、杏ちゃんが突然、あ!と立ち止まった。
「やばっ。お店に忘れものしちゃった。先輩、少し待ってて」
いつの間にか、酔いも冷めてしまった杏ちゃんは、小走りにお店に向かっていった。私は、夜風に吹かれながら、杏ちゃんが戻ってくるのを待った。
賑やかな街の雑音の中でも、夜空を見上げても、まだ彼の残り火が消えず、私の中でくすぶったままだった。
数分後、にこにこしながらお店から戻ってくる杏ちゃんは、どこか勝ち誇った顔をしている。
「もぅ。何忘れてたの?そそっかしいなぁ」
すると杏ちゃんは、握りしめていたメモをヒラヒラさせて、私に得意げに見せてきた。
「あのねぇ。彼の携帯番号ゲットしてきたよ。彼もまた先輩と話したいんだってさ。杏にできるのはここまで。あとはおふたりで~」
やっぱりこの子は天使かもしれない。イタズラな笑顔の杏ちゃんを、私はぎゅっと抱きしめた。
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