第3話 耳ナシ

 石動イスルギが雄鹿のところに着いた時には、鹿は完全に死亡していた。

 弾はバイタルゾーンを正確に貫いていて、どうやら苦しまずに即死させることが出来たようだ。


 自衛官でありスナイパーという、敵を狙撃し殺害する訓練を職業として受けている石動だが、実戦経験はないため当然、実際に人を撃ったことはない。鹿や猪などの野生動物は今まで猟の中で何度も撃ってきた経験はあるが、生き物を殺すことに対する忌避感も今のところ感じたことはない。


 "人間は銃を持つことで初めて動物と対等になれる”という台詞を誰かの小説で読んだ事がある。


 石動は実感としてただの人間が素手で猪と対等に戦うことは無理ゲーだと思うし、鹿だって倒せるか怪しいと思っている。釣りで海の魚を取るのに素手ではなく銛や釣り竿を使って釣るではないか。

 道具が無いと野生動物は捕まえられないし、海では釣り竿、陸ではそれが銃であるだけだと考えている。

 だいたい、魚なら平気なのに鹿や猪を捌くのを野蛮だと非難する人がいたり、嫌悪されるのはどうしてなのか?

 魚だって腹を切れば内臓が出るし、赤い血も流すのに。


 個人的な考えとして、相手が害意を持って襲ってくるならどんな相手だろうと反撃しても正当防衛だと思うし、ましてやそれが敵なら積極的に倒すのが軍人だ。でも、猟の獲物は逆襲してくる猪や熊もいるが全てがそうではないので、その命を奪うことの忌避感は無いものの、獲物に対する敬意と命をもらうことへの感謝は当然必要だろうと考えている。

 そんな考えから、今回も何時ものように石動は雄鹿の横に跪いて両手を合わせて頭を下げ、獲物の冥福と山の神への感謝を捧げた。


 それから頭を上げた石動は、腰に挿した松田菊雄作カスタムナイフの「ベツカムイ」を抜く。


 KIKU・KNIVESの「ベツカムイ」はブレイドの長さが12.5センチで、ベテランハンターの意見を取り入れた実用的なフォルムを持っている。OUー31鋼材使用のハマグリ刃のブレイドは切れ味が素晴らしい上に頑丈で、獲物の解体から薪割りまで使える、万能ともいえる性能を持つ。


 余りにこのナイフが素晴らしかったので、レンジャーでのタクティカル用に、同じKIKU・KNIVESの少し大きめな「BLAST」モデルも手に入れて、空挺団しごとばでも個人装備として使っている程、このナイフに惚れ込んでいた。


 以前はガーバーの旧いモデルである「マグナム・ハンター」を使っていて、ハイス鋼の鋭い切れ味が気に入っていた。ただ、ハイス鋼は切れ味は抜群だけど刃が錆易く、ロックウェル硬度62~63と非常に硬いため研ぎ難いのが難点なので、今ではバックアップとしてリュックに入れて持ち歩いている。


 昨日、雌鹿を仕留めて肉は確保してあるので腹は開かず、牡鹿からはそのトロフィーである角と頭、そして背中から開いて背ロースとヒレ、内腿の美味しい所のみを解体して持ち帰る事にした。


 血抜きの処理を済ませた石動は、雄鹿の背中からナイフを入れる。


 それにしても、大きい雄鹿だ。胸から尻尾迄の胴体だけでも170センチを超えているだろう。

 石動は大物を仕留めた嬉しさと、解体作業に集中していたため周囲への警戒を忘れていた。

 そして、ふと背後に何やら気配を感じて振り返ると、30メートル程先の白樺林のはずれにいつの間にかヒグマが姿を現していて、黒いビーズの様な目で石動を睨みつけていたのだ。





「大きいな・・・・・・」


 ヒグマは小山の様に肩を怒らせていて、殺気を隠すことなく睨んでくる。

 立ち上がったら体長2メートル以上はあるだろうと思われる巨体だ。

 左耳が欠けていて、丁度、額の辺りから左耳にかけてミミズ腫れのような傷があるのが目立つ。


「ヤバいな、耳ナシかよ・・・・・・」


 昨日の酒盛りで雄鹿と共に話題となったのが、手負いのクマである「耳ナシ」の事であった。


 本来であれば、冬季は熊も冬眠しているのが常である。

 ところが最近はエゾ鹿が増えすぎたため、エサが豊富にあることから冬眠しないヒグマが増えているのだ。


 そんな折、エゾ鹿猟に来た都会の不慣れなハンターが、同じくエゾ鹿狙いのヒグマと偶然かち合い、相手の熊に襲われて大怪我をした。

 その際、ハンターが慌てて撃った弾が、熊の頭蓋骨に当たって弾が逸れ、熊の左耳を吹き飛ばした。

 ヒグマの頭蓋骨は非常に固く、ヘタなヘルメット以上に頑丈で頭を撃ち抜くのは容易ではないため、前足の付け根などのバイタルゾーンを撃つのが常識なのだが、都会ハンターは知らなかったのだろう。


 手負いとなり怒り狂ったヒグマは暴れまくって、撃ったハンターの腕や足を食い破り重傷を負わせた。同行の仲間が追い払わなければ食い殺していたに違いない。

 その後も手負いの熊を駆除すべく追跡した猟友会の猟師たちをも狡猾に翻弄し、更に銃を持ったハンターを恨んで襲ってくるため、死人は出ていないが既に5人がやられて重症を負っている。


 そのため「耳ナシ」と呼ばれてハンター達に恐れられているのだ。


 先輩や清水さんからも、充分注意するように言われていたのに、すっかり頭から飛んでいたようだ。

 解体に夢中だったので気が付かなかったが、鹿の血の匂いに惹かれてやって来たのか、それとも銃声を聞いてハンターへの復讐のため来たのか・・・・・・。


「向こうさんはやる気マンマンだなぁ」


 石動は背中に冷たい汗が流れるのを感じる。

 雄鹿の解体に邪魔だったので、銃は近くの白樺の木に立て掛けてあった。距離3メートルくらいか。

 鹿のヒレ肉を取るのは諦めて、素早く鹿の毛皮でナイフのブレードの血や脂を拭うとカイデツクスシースに戻し、取れたロース肉をジップロックに入れ、それをリュックに入れると静かに背負う。


 石動は努めてゆっくりと熊を刺激しないように動き、雪の上を摺り足で銃の方に近づく。

 そして手を伸ばし、銃に指先が触れた時、「耳ナシ」が後脚で仁王立ちに立ち上がり、牙を剥き出しにして咆哮を上げた。


「グオオオオオーーーーッ」


 石動は素早く銃を取り、柔軟に動けるように立ち撃ちの姿勢を取る。


「耳ナシ」は、既に四つ足で雪煙を上げながら突進して来ていた。

 ヒグマは時速50キロで走る事が出来、人類最速のウサイン・ボルトですら敵わない。 


「くそ〜、ヒグマに.308ウィンチェスターは非力だよなぁ! やっぱマグナムにしときゃ良かった!」


 鹿を撃って一発使用したので、ライフルには薬室に1発、弾倉に2発の弾が残っているはずだ。

 石動はボヤきながらも、すっと気持ちを集中して、薬室と弾倉にある3発の弾丸を叩き込んでやる!と心に決める。


 スコープでは近すぎる距離になっているので、ほぼポイントブランクで1発目を「耳ナシ」の鼻に、2発目を右目に、3発目を喉元に、ボルトアクションとは思えない程の速さで連射して打ち込んだ。

 ドドゥーーンンッと、ほとんど1発の発砲音が長くなった様な音だ。


 「耳ナシ」はガクッガクッと撃ち込まれるたびに体勢を崩したが、まだ突っ込んで来る。


 そしてまた雄叫びを上げ、仁王立ちしたと思うと、石動に右前足を振り下ろしてきた。

 強烈な獣臭と共に巨大な鉤爪が唸りを上げて石動の眼前に迫った。


 思わず反射的に弾倉が空になったライフルを掲げて、熊の攻撃を避けようとしたが、その凄まじいパワーにライフルごと吹き飛ばされた石動は、気を失いながら雪煙を上げてバウンドし、崖下の沢へと滑落していく。


 「耳ナシ」も前足を振り下ろした体勢のまま雪の上に倒れ伏し、其の後、2度と起き上がる事は無かった。

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